エピローグ

転章 独狼

 渇いた大地に吹きすさぶ、空っ風だった。

 砂塵が舞い、これから向かう道の先を煙く覆う。

 三度笠に道中合羽という股旅姿に身を包んだ畦利貞助は、前屈み気味に黙々と歩みを進めていた。


(これが有名な諏州の空っ風ってもんかねぇ)


 まともに目も開けられない。土地の民は、どうやって生きているのか聞かせて欲しいとさせ思う。

 諏訪国。かつては上野とも上州とも呼ばれたこの地は、侠客・博徒の力が強い土地柄であった。

 その中にあって、最も勢いがあるのは、〔瘤の権六〕と呼ばれる親分である。八市宿はっしじゅくを中心に二郡に渡る広い領分シマを有し、子分の数は百とも二百とも言われている。歳は四十ほどで、体格は良く、左の額に生まれついての瘤がある。

 その権六は、兎にも角にも外道である。渡世の義理を鼻で笑い、邪魔な者なら女だろうが子供だろうが平気で殺す。二年前には、命の恩人だった男の領分シマが欲しいばかりに、その男を呼び出して闇討ちし、力尽くで奪い取っている。

 当然、近在の親分衆は火の玉のように怒った。任侠道に悖る暴挙だと。そして、親分衆が結託して権六を討とうという話になったが、その企みはすぐに立ち消えになった。権六が一睨みを利かせただけで、皆が黙ったのだ。日本随一のヤクザの産地たる諏訪にあって、これなのだ。その話を聞いた時、早晩闇の世界は権六に統一されるのでは? と、落胆した事を、貞助は覚えている。

 兎にも角にも、権六の前に為す術が無いという。土地の領主も幕府の役人も権六に買収され、民の訴えを聞こうとしない。唯一、権六を訴えた関東取締出役が一人だけいたが、巡回中に姿をくらまし、口から尻にかけて杭を打たれた状態で、街道筋に屍を晒されていた。それ以来、関東取締出役は権六を見て見ぬ振りを決め込んでいる。


(その権六に会えってか)


 貞助は、三度笠の下で鼻を鳴らした。

 これから向かう先は、権六の城下町と呼ぶべき、八市宿なのである。


◆◇◆◇◆◇◆◇


「八市宿で、面白いものが見られるぜ」


 そう言ったのは、鏑木小四郎だった。

 貞助にとって、この男は馴染みがない。顔見知りになったのは、栄生利重を討った後の事で、それまでは名前を聞いた程度であった。

 だが貞助にとって、小四郎は命の恩人と呼べる男だった。利重を討った後、逃げる貞助を救ってくれたのである。

 あの日。利重を討った雷蔵と別れた貞助は、深い山中で柏原党の忍びに囲まれてしまった。その数は五人程度であったが、ここまで生き延びただけあって、相当の使い手だった。

 手負いの貞助は、死を覚悟した。それは、生まれて初めての経験だった。甘く見積もって、相打ち。しかも、道連れは二人。そう踏んで意を決した時、黒装束に能面という異装の二人組が現れ、五人を瞬く間に斬り倒していた。

 殺しが特技と平素嘯く貞助すら唖然とした、殺しの手並みを見せたその二人こそ、柳生陰組の鏑木小四郎と、その下僕である仙次であった。


「何故、あっしを助けるんで?」


 そう訊くと、小四郎が、


「大事な親友に頼まれた」


 と、小四郎は恥ずかし気もなく言ってのけた。この男と夜須藩との関わりを考えれば、親友とは誰だが考えずとも判る。貞助はただ、小四郎と今は亡き男に手を合わせた。

 それから、小四郎の案内で伊刀児と落ち合うと、山霧に解散の命令を下した。山人やまうどに帰れと言ったのだ。


「そりゃ、ねぇよ。これから夜須城下に出張って、火付け盗賊を働くんじゃねぇのかい」


 などと、伊刀児は臍を曲げたが、結局は命令で押し通した。そもそも、山霧は打倒利重の為に結成されたもので、もうその存在意義を失っている。

 伊刀児達は、小集団に別れて暮らす事になった。しかし、再び号令が掛かれば参集する手筈をしている。

 一人になった貞助は、小四郎の世話で江戸は深川六間堀の裏長屋で暮すようになった。銭は残されたものが多くあったが、それには手を付けず、庭師と時折入る小四郎の手伝いで、日々の糧を得た。

 夜須藩の追捕は、予想通りに無かった。それは一連の騒動で、大きな痛手を被った事もあるが、もう忘れたいという思いもあるからだろうと、小四郎が言っていた。あの騒動で、多くの血を流し過ぎたのだ。

 今の所、夜須藩は平穏なようだ。常寿丸が、幼いながら栄生利継として藩主となり、執政となった相賀舎人の下で藩の力を回復しようと、皆が一丸となっているらしい。

 だが依然として、平山雷蔵は姿を消したままである。

 あの時、雷蔵は死ななかった。それは確かな情報だった。しかし、それからの足取りは掴めない。

 雷蔵を、皆が探していた。小四郎も暇があれば探しているし、松永外記や小野寺忠通も人を使っているという。また噂だが、濁流派・清流派の両派閥が、雷蔵を自身の駒にしようと追っているらしい。

 そうして、数年の時が過ぎていた。

 ある秋の暮れ。


「諏訪の八市宿へ行ってみな」


 と、小四郎が貞助の長屋へ現れて言った。


「面白いものが見られるぜ」


 そうして、貞助は八市宿へ向かう事になったのだ。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 悲鳴が挙がったのは、八市宿の居酒屋で一杯目の銚子を空にした時だった。

 空が茜色に染まる夕暮れ時。浪人だが渡世人だが判別出来ない、得体の知れない破落戸ごろつきに囲まれて酒を飲んでいた貞助は、ゆっくりと猪口を置いた。

 悲鳴は男だった。更に、もう一つ挙がる。それで店を占領していた破落戸は、反射的に外へ飛び出していった。


(どうやら、権六の子分のようだねぇ)


 しかし、この悲鳴が小四郎が言っていた面白い事なのか。

 外が何やら騒がしい。悲鳴は止んだが、今度は罵詈雑言である。

 貞助は長脇差ドスを引き寄せ、居酒屋を出た。

 宿場の中央で、破落戸達が男を囲んでいた。七名。手には、抜き身の長脇差ドス。今にも襲い掛からんばかりだ。


「貴様が、今噂の独狼どくろかい?」


 破落戸の一人が言った。だが、返事は聞こえない。


(ほう……あれが、話題の)


 髑髏ではなく、独りの狼と書く独狼は、江戸でも噂になっている男だった。

 本名・素性共に不明。ただ江戸から京都、そして関八州辺りに出没しては、札付きの悪党を片っ端に狩っているのだという。江戸では大層な話題で、民衆の間には、この独狼を〔世直し大明神〕などと呼ぶ者もいる。


「どうせなら、独狼のツラを拝んで帰るかねぇ」


 小四郎が面白いと言ったのは、この事かもしれない。

 貞助は、宿場の中央へ移動した。人通りは無い。皆、騒動を恐れて引っ込んでいるのだ。


「何とか言ったらどうなんでぇ」

「そう喚くな」


 男が静かに答えた。

 聞き覚えのある、深く沈んだ声。


(まさか)


 貞助は息を飲んだ。その次の瞬間、破落戸達は血飛沫を上げ地に倒れた。

 見えなかった。この貞助とあろう者が、全くと言っていいほど、斬撃を目で追えなかった。

 男は骸の山の中で、血刀を手に佇立している。

 男の顔は見えない。塗笠を目深に被っているのだ。ただこの空っ風で、黒羅紗の洋套が靡いている。

 権六の屋敷から、新手が押し出して来た。その数は十はあるだろう。

 男は、それを認めるや否や、塗笠の顎紐を解きて投げ捨てた。


「なんと、あなたは……」


 貞助は目を見開き、呼びたいその名を詰まらせていた。

 切れ長の目、豊かな頬、白い肌。そして、左眼に当てられた見慣れぬ黒い眼帯。

 間違いない。この数年、ずっと探していた、あの男がそこにいた。

 男は刀を手に駆け出すと、新手を前にして大きく跳躍した。


(あなたは、この道をお選びになすったのですね)


 感激した貞助は、前歯を剥き出して笑い、長脇差ドスを抜き払っていた。


「あっしもお供しやすぜ。独狼の雷蔵さん」


〔了〕

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狼の裔~念真流血風譚~ 筑前助広 @chikuzen

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