第五回 後手(後編)
その報告を聞いて、利重は一つ深い溜息を吐いた。
藩主の御用部屋。陽が中天の差し掛かろうとしている時分である。
若年寄の
「雷蔵……」
一人も許さない。生かさない。そうした意思表示なのだろうか。
利重が深い唸り声を挙げると、報告に現れた小姓が小さく平伏した。
「生存者はいるのか?」
その問いに小姓は首を横にしたが、現場になった祇王橋の下に棲む乞食が目撃した所によれば、全身黒衣の男が橋の袂で待っていて、突然斬り込んだそうだ。
やはり、雷蔵である。坂田の時も、瀕死の重傷を負った家臣の一人が、息を引き取る前に黒衣の男が屋根から舞い降りてきたと証言しているのだ。
「執政会議を開く。全員を呼べ」
そう言うと、小姓が駆け去った。
雷蔵の足取りは、依然として掴めない。目付組、町奉行の力を尽くしても、手掛かりを得る事は出来ない。まるで、幽霊を追っているのではないか? という声も、現場では出てきているそうだ。
また一部の間では、帯刀旧臣の仕業という話も出ている。その噂の出所を探るように命じているが、まだ報告は無い。
利重は、文机の引き出しから帳面を取り出した。これは家臣の名と役職、そして能力の査定を八十太夫に命じて作らせたものだ。
吉見美作の名を、朱色の墨で消した。こうして消される名前も、日に日に増えている。
雷蔵の標的は、逸死隊と山筒隊の両隊士、そして執政府を含む利重の幕僚である。それは、消した名前を眺めて浮かび上がって来たもので、これは自分への明らかな挑戦である。
(悪辣な真似をしおって)
見境なく、容赦もない。最早、仇討ちとは呼べない凶行である。これらは最優先に解決すべき事項であるが、雷蔵ばかりにかまけて藩政を滞らせてはいけない。夜須藩が抱える問題は、他にも数多くあるのである。
利重は、今朝運ばれてきた報告書に目を落とした。山人の帰化についてである。
帰化事業は、かなり滞っていた。奉行を務めている山辺室衛門が、他の頭領と対立したからだ。その原因は、室衛門一人だけが高い身分にあるからだが、それは意図して仕組んだ事だった。山人内で争えば、一つに纏まる事は無い。
利重は、相賀に無視しろと厳命していた。対立を暗に煽り、滞らせるだけ、滞らせる。不満と怒りが沸点に達した時に、藩庁が介入する。それで山人は支配される事に納得するはずだ。
小姓が会議の準備が出来たと呼びに来たのは、昼餉の後だった。
本丸に渡った。小姓が御成りを告げて評定の間に入ると、全員が恭しく平伏する。
首席家老の座には、相賀。その他は、特筆すべき人材はいない。今の所は、家格と忠誠で選んだ者ばかりだ。見所ある者は、今の所手元に引き寄せている。だが来年には、この中に牧文之進や真部直記も加わってくるであろう。その為には皆が認める手柄が必要であるが、文之進は郡制改革、真部は地蔵台の開拓となるであろう。
「平山雷蔵が、夜須に戻った」
そう口を開くと、場が騒然とした。
「私を殺す、その為だけに戻ってきた。一連の人斬りは、あやつの仕業だ」
すると末席の男が、
「父親の仇討ちでしょうか?」
と、言った。
「仇討ちだと? あれは逆恨みだ」
相賀である。そんな事も判らないのか? という調子だった。
昨年の秋、平山清記は栄生帯刀と共に、主君の弑逆を目論んだ。それは何とか防いだのだが、そこで死んだ父親の仇討ちとは笑止千万である。
「そうだ。これは仇討ちではない。だが、今の雷蔵には、そんな事などどうでもいいのだろう。まるで飢えた狼のように、この首を欲している」
「何たる傲慢不遜。人斬りの一族の分際で」
河井は、かつて名門だった家の出である。ここ五十年は目立った出世もしなかったが、相賀に見込まれ今年の初めに中老に昇進していた。
「雷蔵の狙いは私だけではないぞ。執政府も当然、奴は狙っておろう。なぁ相賀」
「おそらく。特に私は、一番に狙われていますでしょうな」
「ほう。自覚はあるのか」
「当然でございます」
相賀は、添田をひいては利景の遺志も裏切った。雷蔵にとっては許せない男のはずだ。
「名案がございます」
河井が手を挙げた。
「申せ」
「平山家旧臣や、平山家に縁が深い内住郡の百姓を使いましょう」
「使うとは、どのようにだ?」
すると、河井は軽薄な表情を浮かべた。
「まず彼らを数人捕らえます。雷蔵と関係が深い者がよいでしょう。その上で、辻々に触れを出すのです。平山雷蔵に向け、『我らが前に出てこなければ、一人ずつ首を刎ねる』と。これで、雷蔵は出て来ざる得ないでしょう」
「正気か、貴様」
「殿、何か?」
と、河井が拍子抜けをした表情を浮かべた。その顔に抑え難い怒りが込み上げ、利重は河井を殴り倒していた。
「何をなされますか」
慌てて回りが制止するが、構わずもう一度殴った。
「貴様は言うに事欠いて、領民の命を餌にするなど」
「も、申し訳ございませぬ」
「この痴れ者が。お前は私に暗君になれと申すか」
更に蹴倒し、小姓に命じて河井を下がらせた。
「皆、聞け。私は、この地の支配者なのだ。平山家の旧臣であろうと、平山家と縁が深い領民だろうと、私が守るべき夜須の民である。こうも被害者を出す現状に有効な対策も出来ず、あまつさえ領民の命を盾にしようなど、言語道断だ。平山づれの為に、卑怯な真似は断じてせぬぞ」
残された一同が平伏する。利重は憮然として、評定の間を出た。
◆◇◆◇◆◇◆◇
「配下の者から聞き及びました」
その日の夕方、気分転換に城内の道場で汗を流して外へ出ると、八十太夫が待ち構えていた。
小姓達が、八十太夫に遠慮してか下がる。知らぬ間に、八十太夫の権力は増大し、その威光を恐れる者も増えている。それを利重は好ましいとは思わなかった。
「何を聞いたというのだ」
「河井を
「その事か」
利重は、八十太夫に目で合図した。着いて来い、という意味だが、こうした合図を八十太夫は正確に読み取る。最近は苛立ちを覚えるが、今の夜須に八十太夫の代わりを出来る家臣はいない。
道場を出て、庭園と向かった。
池を中心とした回遊式で、季節の花々が咲いている。この庭園は、実父の栄生利永が造ったものだ。以前はもっと広大だったが、利景の代になると、維持費の無駄として庭園を縮小し、一部を農園にもした。自分が多少手を加えたが、それでも以前と比べたら殺風景だった。
「河井の策は、あながち間違いではございません」
「お前ならそう言うと思った」
「私は賛成でございます」
「以前の私なら、河井に言われるまでもなく、そうしていただろう」
八十太夫が頷いた。そうした所も小賢しい。
「だが、私は既に夜須藩主なのだ。以前とは違う」
「……」
「それをお前も自覚しろ。もう変わったのだ私は。そして、お前も」
八十太夫は無言だった。同意したとも、不服とも取れぬ表情である。
「妙案がございます」
目を伏せた八十太夫が、そう切り出した。
「ほう」
「殿ご自身が囮になるのです。城内の警備を強化した今、平山清記のように討ち入る事は不可能。つまり、城にいる限りは手出し出来ないのです。それ故に、城外にそれも少数で出れば、雷蔵は千載一遇の好機と仕掛けてくるでしょう。喩え、罠があったとしても」
「なるほどな」
八十太夫らしい策だ。今まで聞いた策の中では、一番興味をそそられた。しかし、不遜である。主君の命を餌にするなど、普通は言えない事だ。しかも堂々と、主君を前にして。
(やはり、八十太夫の特別な意識は変えなければならん)
この利重の治世に、特別は不要だ。主君の下に、家臣と領民が等しくいればいい。どのような特権も、認めるつもりは無い。
「ですが、その前にもう一度仕掛けます」
と、八十太夫が
老人は白髪で、皺が深い。身体も小さいようだ。
「あれなる者は?」
「柏原夢十と申す忍びでございます」
「ああ。浮羽から雇ったらしいな」
「目尾組の立て直しが急務でしたので」
「だが、偽報を掴まされ夜吼党は全滅。その失態を犯した者を、まだ使うつもりか?」
「人材不足でございますから」
「なるほど。で、何をするつもりだ?」
「平山雷蔵が、山中に潜んでおります。その場所も、あの柏原が特定しました」
「ほう。何処にいた?」
「内住郡南部の山深い場所に。どうやら、藩に帰化せぬ山人が協力しているようで」
「何故、それが判ったのだ」
「帰化した山人の頭領が、私に密告しまして。その手柄で、山辺室衛門に代わって奉行になりたいと申しておりました」
「信じられるのか?」
「柏原が探索し、潜伏場所を特定しております」
「罠かもしれぬぞ」
「私も、その可能性は高いと思います」
「それでも仕掛けろと言うのだな」
「停滞した現状を打破する為にも」
利重は、四阿に足を向けた。
控えていた孫一と夢十が、黙礼を投げかける。利重は、ただ頷いた。
「話は聞いた。柏原、やれるのか?」
「はっ。我が一党の総力を挙げて挑みますれば」
「雷蔵を討ち取れば、お前を目尾組の頭としよう。孫一、逸死隊を率いて討伐に加われ」
そう言って、利重は踵を返した。八十太夫には、
「すぐにでも取り掛かれ。総指揮は、お前だ」
と、だけ命じた。
◆◇◆◇◆◇◆◇
御殿に戻った。
利重の姿を認めると、茶坊主の一人が駆け寄ってきた。
「どうしたのだ、騒々しい」
すると唐阿弥が、目の前で平伏し呻くように言った。
「牧様が……」
「牧? まさか」
「牧文之進様が……お亡くなりに」
「何? 文之進が」
唐阿弥は顔を挙げて頷き、
「知人宅からの帰りに、何者かに斬られ」
と、だけ答えた。
「何者だと? 雷蔵だ。雷蔵以外に誰がおる」
「ひっ」
利重は慄いた唐阿弥をそのままに、智深庵へ向かった。
その一間。利景が収集した書物は、そのままに積まれている。
牧文之進が死んだ。才能ある男だった。郡制の見直しを命じて、その骨格は出来つつあった。
惜しい男だった。これから幾らでも働き所はあったし、執政府入りも夢ではなかった。怒りは強かったが、悲しみはなかった。大切な手駒が減ったとしか思えなかった。
利重は、手文庫の中から葉巻を取り出した。長崎から取り寄せた舶来品だ。
暫く、煙の中を漂った。
(真部を呼び寄せ、文之進の仕事を引き継がせよう……)
さしあたり、決めたのはそれだけだった。
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