第十三回 山の友(前編)

 身体が鈍ったのか。寄る年波には勝てぬという事か。或いは、腹に飼っている獣のせいなのか。

 清記は微かな息切れを感じながら、峻険な山道を確かな足取りで進んでいた。

 久し振りの、郡内巡察だった。供は連れず、一人である。最近は雷蔵に任せていたが、今は羽合率いる町奉行所へ修行に出ている。

 一人で行くと磯田に伝えた時、若い下役を連れて行って欲しいと言って来たが、それを清記は断っていた。

 今回の巡察は、民情を知る以外にも目的がある。それは自分の身体を苛め、体力がどの程度まで落ちているのかを知る。その為でもあるので、供を連れるわけにはいかないのだ。

 建花寺村を出たのは、昨日の昼過ぎだった。それから村を二つ巡察し、夜は野宿をした。普通は庄屋の屋敷か寺にでも泊まるものだが、野宿を選んだのも身体を苛め抜く為だった。

 野宿には慣れている。硬い地面に身を横たえても、身体が軋んで痛む事は無い。


(しかし、これは難敵だな……)


 と、清記は歩みを止めて、視線を上げた。

 険峻な山々が、雄大かつ無慈悲に、屹立きつりつしている。内住郡南部。弥陀山をはじめ、幾多の山々が連なる山岳地域である。

 未だ、残暑が厳しい季節だ。頬には汗が伝い、着物も汗をかなり吸っている。

 あの山々の麓に清記が管轄する村と、そして山中には山人やまうどの集落が幾つかある。


(まぁ、急ぐ事はない)


 藩内も郡内も、火急の事案というものは無い。勿論、それらを考慮して巡察に出たわけだが、それが出来たのも、利景の死から一先ず落ち着きを見せたからである。

 利景の葬儀は、本人の意向通りにひっそりとしたものだった。それでも遺徳を偲んで集まった弔問客は多く、近隣大名のみならず、幕閣果ては禁裏の貴人までも代香を遣わすという派手なものになった。


「故人はさぞ迷惑に思われているだろう」


 と、帯刀は鼻を鳴らして言っていた。

 確かに豪勢な弔問客だった。中でも、清記は行列の中に面白いと思える珍しい顔を見つけた。

 山背久蔵である。

 かつて久右衛門と名乗り、勤王党を操って深江藩に抗った庄屋。そして、松永外記の軍門に下った後は、その幕僚となった男である。

 久蔵は清記の姿を認めると、軽く頭を下げた。

 特に話す事は無く、清記は軽い会釈で返しただけだった。

 外記には言わなかったが、清記は久蔵に危うい何を感じていた。

 言うなれば、獅子身中の虫。もし利景の幕僚にいたならば、必ず斬っていたと思うほどだ。

 この男は、自分の野望に忠実なのだ。野望の為には、仲間ですら簡単に裏切る。そして、故郷も捨てる。そもそも、自分以外は駒でしかないと思っている節があるのではないか。

 勿論、外記ほどの者が、久蔵が持つ危うさに気付いていないはずはない。それでも幕僚に加えたのは、使いようでは役に立つと思ったからであろう。そして、こうした男を使わずして、どうして藩宰はんさいを務められようかとも。

 つまり、外記は毒とも薬ともなるものを飲んだのだ。それが、今後の深江藩にどのような影響を与えるのか。隣藩としては、注視しなくてはと、添田には報告している。

 暫く歩くと、山道は巨石が転がる険しいものに変わった。此処は本来、正規の山道ではない。わざと困難な道程を選んでいるのだ。それに、この道の方が目的地まで近道でもある。

 道は急斜面になった。清記は、扶桑正宗を背中に背負い、半刻ほど這うように進んだ。急斜面は、いよいよ垂直の断崖になった。清記は、構わずに這った。

 落ちれば死ぬ。それほどの高さだ。死とは、何とも容易いもの。近いもの。そう考えて登っていた、若い頃を思い出す。父の悌蔵に命ぜられ、こうした鍛錬を繰り返していたのだ。

 断崖を登りきると、夜須の盆地を一望できる高台に到達した。

 流石に体が重く、清記は転がる岩に腰掛けた。かなりの汗をかいたが、涼しい山風がそれを凪いでいく。

 やはり、体力が落ちていた。四肢も情けない悲鳴を挙げている。老いにしては、急激な衰えぶりだ。そうなると、原因は病しかない。

 しかし、病を治そうという気は毛頭無い。これが、天命なのだ。それを粛々と受け入れる。それが、人殺しを生業にしてきた事への償いだった。

 清記は腰にぶら下げた竹筒の水筒を取り出し、乾いた喉を潤した。山中の沢で汲んだ水である。汗を流したからか、身体に沁み込むようで甘露だった。

 高台から望む目前には、緑の大地があった。その緑を二つに分かつように、波瀬川が流れている。

 豊穣なる夜須。この大地に数千、数万の暮らしがある。この国を守る為に、命を賭して戦ってきた。少なくとも、無駄な一生ではなかったと思いたい。

 清記は、波瀬川の両岸に広がる城下に目を向けた。


(今頃、雷蔵は久蔵と会っている頃かもしれぬな)


 葬儀の終わりで、清記は久蔵に呼び止められた。ひとしきり挨拶を交わした後、久蔵は雷蔵に会いたいと切り出した。

 何でも、これは次期御手先役とよしみを通じておけという、外記の命令らしい。

 今後の関係を考えれば、雷蔵が久蔵と会っておくのは悪い事ばかりではない。そう考え、清記は町奉行所にいる事を伝えていた。


◆◇◆◇◆◇◆◇


「待たせたな」


 声を掛けられた。振り向くと、藍色の貫頭衣かんとういを纏った、髭面の男が立っていた。

 鞣し革の手甲脚絆に、両刃の剣をぶら下げている。到底、里の百姓には見えないその男は、牟呂四むろしという名の山人だった。

 歳は自分より幾つか下。筋骨逞しいこの男は、内住山人を束ねる頭領である。

 今日は山人の集落を訪ねる事にし、あらかじめ落ち合う約束をしていた。でなければ、独力で山人の集落に辿り着く事は難しい。


「久し振りだなぁ、清記」


 馴れ馴れしい言葉遣いに、清記は笑みで応えた。山人は、人別帳から外れた者。つまり、支配体制に組み込まれていない、まつろわぬ民だ。故に、代官相手でもこうした話し方をしている。


「これは、親分が直々のお出迎えとは恐れ入るな。若い者を遣わせると思っていたが」

「まぁ、そうしたい所だが、山人も色々と忙しいのさ」

「山だろうが町だろうが、生きる為に働かねばならぬのは一緒だな」


 そう言うと、牟呂四は盛大に笑った。


「しかし、何故あの道を選んだ? 俺達だって、あんな崖は登らねぇよ」

「見ていたのか」

「遠くからな。すぐにお前だと判ったが」

「単なる鍛錬だ、牟呂四。こうでもしないと、すぐに身体は動かぬようになる」

「へぇ、鍛錬にしては危険過ぎるぜ。俺には、命を試されているように見えたがな」


 牟呂四に看破され、清記は肩を竦めた。命を試す。衰えを確かめるつもりであったが、それは即ち命を試す事にほかならない。


「今日は、俺の集落ムレに案内しよう」


 ムレとは、集落の事だ。山人には独特の言葉が幾つかあり、清記は簡単なものなら全て覚えている。


「その前に、この前は悪かった。うちの若いもんが里で喧嘩をして、手間を取らせちまった。俺が建花寺村まで出向いて頭を下げるべきだったが」

「構わん」

「里の衆と争う事は、カガンで禁止してある。それを徹底出来なかったのは、頭領ズメロウたる俺の落ち度だ」

「構わんと言ったろう。あの件は明星寺村の側に非がある。それに、昨日直々に庄屋には釘を刺した」


 この巡察で、明星寺村を清記は訪れていた。そこで庄屋の太衛門と面会し、厳重に注意している。


「若いもんの気持ちは判る。俺だって昔は暴れもんだったさ。でも、だからって見過ごせねぇ。もう、こんな事はさせねぇと、このマヤタチに誓おう」


 そう言って、牟呂四は幅広の剣を抜くと、天に翳した。何かを呟いている。呪文のようだが、そこまでの意味は分からい。この国の言葉ではないのかもしれない。清記はそれを終わるまで、ただ待った。


「律儀だな」

「だから頭領ズメロウが務まるのさ」


 山人には独自の風習や信仰がある。それが、どうした由来で今に伝わっているのか、清記には知る由もない。

 牟呂四の案内で、山を下り谷を幾つか渡ると、山人の集落ムレに辿り着いた。

 内住郡の南端だろうが、正確な地名は判らない。それほど山深い場所にある。此処を訪れるのも両手以上を数えるが、それでも道筋は覚えられない。言わば、深山幽谷しんざんゆうこくの類だ。


「また多くなったな」


 集落ムレの中心には、簡単な小屋が二つ並び、それを囲むように竹で骨組みされた天幕が幾つも並んでいる。その天幕の数が、三年前に来た頃に比べ、かなり多くなった。


「関東の岩山人イワオを十数名受け入れた」

「ほう」


 山人には、二種類の系統がある。

 ひとつは牟呂四のような、山中に幾つかの拠点を置き、季節によって棲家を変える岩山人イワオと、棲家を持たず山々を渡り歩く風山人カザオ

 両者は対立しているわけではなく、あくまで生き方の違いだけだという。岩山人イワオ風山人カザオになる事も、またその逆もある。


「天領の山人支配が厳しくなったのさ。棲家を持たない風山人カザオは何処かに消えたが、岩山人イワオはそういうわけにはいかねぇ。そこで、近隣の頭領ズメロウが集まって話し合った結果、こうなっちまった」

「随分と賑やかなものだ」


 大人達が天幕の前に集まり、里で売り歩く箒や箕を拵え、その間を子ども達が駆け回って遊んでいる。


「山人稼業も繁盛しているようだし」


 他にも、付近を流れる小川では、若い男衆が仕留めた獣を解体していた。肉も革も売り物になる。特に皮革は、時勢がきな臭くなった関係で武具の需要が高まり、値が上がりつつある。特に夜須では、皮太かわたと呼ばれる皮革生成の職能技術を持つ被差別身分に、その産業を独占・保護させてきたが、利景がそれを解禁したので、山人の収入源も増え生活も楽になっているという。


「賑やかなのは嫌いじゃねぇからいいのさ」

「暫くの辛抱だろう。今の幕政に一貫性は無い。老中が変われば、風向きも変わろう」

「そう言い聞かせている。何なら、夜須に根を下ろしてもいいのだ」


 清記は頷いた。夜須ほど、山人が暮らしやすい土地はないと思っている。


「もしそうなれば、藩庁への口利きはしてやろう」


 それから清記は、ズウンと呼ばれる長老に挨拶をした。

 名は夫雄ふおうという。夫雄は、もう歳が知れないほど年老いていた。身体は小さく、皺が垂れて隠れた瞳は白く濁っている。

 岩山人イワオには、頭領ズメロウとは別に長老ズウンと呼ばれる長がいる。多くの場合、頭領ズメロウが引退して長老ズウンとなるもので、その際に新しい頭領ズメロウを指名するわけだが、そこで「子・孫・甥を指名してはならない」という厳しいカガンがある。


「よう参ったのう、里の者よ」


 夫雄の声は、思った以上にしっかりとしていた。ただ、百足が這うように長く震えている。

 夫雄と初めて会ったのは、清記がまだ見習いだった頃だ。父に連れられて挨拶したのだが、その頃の夫雄は頭領ズメロウだったが、既に老いを見せていた。


長老ズウン殿もお元気そうで」

「おぬしも、段々と悌蔵に似てきたようじゃな」


 白く濁った目で見えるのかと思ったが、清記は頷いて同意した。


「昔、悌蔵にお前を譲れと言った事がある。内住山人には儂の後を継いで頭領ズメロウになる若者がいのうてな。そこの牟呂四は、粗暴な野猿だった」


 清記の背後に控えた牟呂四が、思わず声を挙げた。だが夫雄の言う通りで、かつての牟呂四は、すぐにマヤダチを抜きたがる暴れん坊だった。清記は何度か暴れる牟呂四を打ち倒した事がある。


「だが今は、お前を山人にせずに良かった思うておる。それは、お前が立派な代官になったからじゃ。儂らが豊かに暮らせるのも、お前の内住支配が正しい故よ」


 清記は頭を下げた。

 そもそも、山人にとって夜須は棲みやすい土地だった。幕府を筆頭に、諸藩の中には山人を厳しく統制する所もある。しかし夜須藩は、それに比べると自由に任せているのだ。

 いうのも、戦国の御世に栄生家が夜須の山人に助けられた事があるからで、代々藩主が受け継ぐ家訓にも、山人を手厚く保護するようにと記されてある。


「ただ、心配もあっての」

「何か?」

「お殿様がお隠れになったと、牟呂四に聞いた。先代のお殿様はお優しく聡明な方だったが、次はどうなのじゃ?」

「それは先代に劣らぬほどです。まだ幼子ですが」

「つまり、家臣次第という事じゃのう」

「常寿丸様を盛り立てるのは、利景様の幕僚達です。その辺りは心配なされずに」

「ふむ」


 夫雄は、二度深く頷いた。


「何とも、山人風情が、世情の生臭い話をしてしもうたわ。清記や、今日は集落ムレに泊まるのじゃろう?」

「ご迷惑でなければ、二日ほど」


 明日は、牟呂四と猟に行く。これは巡察ではなく遊びだが、その約束をしていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る