第十二回 道場破り(前編)

 雷蔵が、代官所の下役に交じって算盤仕事に励んでいた。

 その様子を、清記は御用部屋への道すがらに少しだけ覗いた。

 磯田の話によれば、下役達を引っ張る事もあるらしく、いずれは代官になるという自覚も目に見てて感じるそうだ。


(そろそろ、外に出す時期かな)


 雷蔵を町奉行で修行させる。その話を、町奉行に補任された羽合掃部と進めていた。雷蔵が内住代官を引き継ぐ上で、代官所以外で働く経験が必要だと考えての事だった。


(羽合なら、安心して雷蔵を預けられる)


 羽合は切れ者であり、何より公私の別を弁えた優れた役人である。雷蔵がその姿を傍で見て、何かを学び取ってくれればいい。

 そして、もう一つ。雷蔵は、人間というものを知らなければならない。

 雷蔵の欠点は、言わば感情の機微に疎い所だ。百姓や下役と仲良くやれと言えば、その通りに仲良くするだろうし、事実やっている。しかし、それは命令されたからで、相手の心を読み、必要性を感じてやっているわけではない。

 雷蔵には、人に揉まれる経験が必要なのだ。そうした意味でも、市井と関わる町奉行所は最適だろう。

 御用部屋の文机には、磯田が準備していた書類が積まれていた。不在の間の仕事がまだ終わっていないのだ。

 暫く、その消化に没頭した。仕事は溜めたくない性分である。

 夕暮れ前に全てを片付けると、御用部屋に雷蔵を呼んだ。

 利景の死を伝えた。雷蔵は話が終わるまで一言も発せず、ただ瞑目し天を仰いだ。


「驚かないのか」


 雷蔵が、微かに頷いた。


「今生の別れは済ましておりました。あの時、お殿様は亡くなったのだと、思い定めておりましたので」


 そうは言っても、雷蔵の声は沈んでいた。


「お殿様はお前とも話になられたのか」

「父上がご不在の間、智深庵に呼ばれたのです。そこで、色々とお話を伺いました」

「新しき国についてか」


 雷蔵が頷く。その反動で、瞳から光るものが滴った。雷蔵は泣いていたのだ。


「皆が平等で、能力によって役職が決まり、衆議によって国を動かす」

「お前はどう思った?」

「難しい事は判りません。ただ、夢のような話だとは思いました。未だかつて、この国には無かった事ですから」

「そうか」

「ですが、新しき国について語るお殿様に、私は圧倒され魅入っておりました。そして思ったのです。お殿様なら、新しき国を創れるのでは、と」


 確かに。それには清記も同感だった。ただ、その為には、夜須藩は幕府に対して叛旗を翻す事になる。無論、そうなれば喜んで戦うつもりだった。利景の為ならば。


「お殿様に、こうも言われました。『民の為の武士になれ』と」

「私もそう願う」

「その為に、関舜水八虎を与えられたと思っております」

「では、その機会が最も多い場所へ行ってみるか?」

「羽合様の所ですね」

「そうだ」

「一度、羽合様とお話ししました」

「やるか?」

「是非にでも」


 雷蔵にしては、中々思い切りのいい返事だった。

 眞鶴を殺した雷蔵は、大きく変わった。自分というものを、少しずつだが出すようになった。それから代官所の役目を手伝わせるようになると、また変わった。そして、利景が死に町奉行所に出す。これからも雷蔵は、大きく変わるだろう。

 雷蔵が去り一人になると、清記は畳の上に身を横たえた。微かな倦怠感がある。熱中して仕事をしたからであろうか。

 利景が死んだ。改めて考えると、その喪失感は想像以上のものだった。今頃、藩庁は大騒ぎであろう。葬儀の準備に追われているはずだ。実務を統括する相賀舎人などは、不眠不休を強いられているのではないか。

 利景が死んでも、清記がやる事は変わりはない。暫くは御手先役の役目は無いだろうが、粛々と代官としての職務をこなすだけだ。

 明日は代官所に下役、家人、庄屋衆を集め、利景の死を告げよう。泣く者もいるだろうが、いつもと変わらず働くように命じなければならない。それが、亡き利景の遺言でもある。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 久々の発作だった。

 腹で飼っている獣が、急に暴れ出したのだ。

 払暁にはまだ遠い刻限。清記は床の中で、ひとしきりそれに耐えていた。

 猛烈な痛みである。臓腑を鷲掴みにされ、掻き回されているような感覚だ。

 生きている。痛みがあると、それを実感する。そして、いつまで生きていられるのか。それもまた、考えてしまう事だった。

 心残りと言えば、利景が生まれ変わらせたこの藩の行く末を見る事が出来ない事だ。雷蔵については心配していない。三郎助や磯田の協力もあるだろう。少なくとも、自分よりも出来る御手先役にはなるはずだ。代官職については、少しずつ学んでいけばいい。

 死はいつも傍にあった。遠い存在ではない。初めて人を斬ったあの日から、自分は死と戯れてきた。

 病だと気付いた時、やっと順番が回ってきたと思っただけで、悲しみも怒りも無かった。

 痛みが治まったのは、発作から半刻後だった。全身には大量の汗。喀血は無かった。

 それから起き出し、井戸の水を浴びた。それでも身体は熱く、五度浴びてやっと熱は冷めた。

 気分は悪くなかった。食欲もあり、そのまま代官所で働いた。何も変わらない日々が続いている。が、少しずつ確実に、病魔は身体を蝕んでいるのだろう。

 若幽に診せようなどという考えは、毛頭無い。今まで多くの死を見てきた。これが死病だと見当がついたし、この病は今まで殺してきた人間の怨念でもある。自分は、その怨念に取り憑かれ、呪い殺されるべきなのだ。

 当然、雷蔵にも三郎助にも知らせない。一人、病を抱えて滅びる。そう決めていた。


「旦那」


 声がして庭に目を向けると、庭師の格好をした廉平が控えていた。


「具合はどうだ?」

「へぇ、そりゃもう」


 廉平の傷はすっかりと癒え、目尾組に復帰していた。


「その件では、旦那にも若幽先生にもお世話になりやした」

「礼には及ばん。そもそも、私がお前に傷を負わせたようなものなのだ」

「また、そんな事を。あっしは好きでやってんでさ。で、今日はお耳に入れておきたい事がありやして」


 そう言うと、貞助は一歩前に進み出た。


「御別家様が、京都を出られました」

「何? 執政府から帰国の命令でもあったのか?」

「これは貞助の野郎に聞いたんですがね。どうやら無断の帰国らしいと」


 廉平は声を潜ました。

 利景の葬儀は終えている。その為の帰国ではない事は明らかだ。では、何故夜須に戻るのか。


(これは、叛乱に等しい行為だ……)


 兵部について、利景は何も言わなかった。後見に帯刀と共に名を連ねるというのが大方の予想だったらしいが、利景は兵部を外した。当然、兵部が抱く野心を警戒しての事だろう。その事を不服として、京を出たのか。

 いや、多分それは無い。あの男は、そこまで短絡的な男ではない。仮に利景の遺言に不服として帰国したならば、添田や帯刀からここぞとばかりに糾弾され、失脚させられるだけだ。そのような下手は打たない。


(すると……)


 無断帰国するだけの、理由がある。しかも、無断帰国を〔誰にも咎められない〕切り札を持ってだ。


「旦那、こりゃ時流が動きますぜ」

「臭うか」

「へぇ。鼻がひくひくしまさぁ……血が多く流れるかもしれねぇです」


 清記は頷いた。このまま平穏無事なはずはない。それは廉平のような末端の武士ですら感じる事だった。


「ご苦労だった。しかし、もう犬山家と関わるな」

「そりゃ、もう。あっしも死にたかございやせん。ですが、あっしにも忍びの一分いちぶってもんがございやす」

「やめろ。あの男は読めない」


 そう、読めない。何故に、兵部が平山家の傍流と繋がっているのかも。

 皆藤。いや、平山孫一。念真流を使う、平山家の傍流。その男が、犬山家に召し抱えられている。孫一と兵部。その組み合わせに、きな臭いものがある。


「それに、お前の命は私が助けたものだ。無暗に捨ててもらっては困る」


 廉平目を伏せただけで、は何も言わなかった。

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