第五回 腑抜け(後編)
ひゅう――。
大きく吸った息を、少しずつ吐いた。
目の前には、父。雷蔵は、木剣を正眼に構えている。
父は上段。晴れ渡る朝の陽光の中で、悠然と構えている。
建花寺村にある屋敷の裏庭。互いに使い込まれた道着姿だ。縁側では、三郎助が親子の対峙を見守っている。
雷蔵は、敷き詰められている砂利を、深く踏み締めた。
父との手合わせは、久し振りだった。こうやって向かい合うのは、昨年の旅以来だろう。
早朝、
「久し振りに手合せせぬか?」
と、起き抜けに誘われたのだ。
雷蔵は、父の申し出を受けた。無論、断るという選択肢など存在しない。だが心持ちとしては、歓迎して受けた。今年は真崎惣蔵に始まり匕首車のお百や新田宗介と、他愛もない相手が続き、物足りないと思っていたのだ。それに、自分の剣がどこまで成長したのか、見てみたい気もしていた。求馬との敗戦で学び、骨の無い相手との立ち合いでも、自らの欠点を克服しようと、その剣に妙技を加え続けたのだ。
「下段で来い」
清記が言った。
下段の構え。それは雷蔵の得意とするもので、つまり本気で来いと、父は言っているのだ。
「父と思うな」
「はい」
雷蔵は、構えを正眼から下段に移した。それを見届けた清記が、軽く頷く。
(父ではない。平山清記、という剣客だ)
そう思い定めた。清記は、自分に立ち合いを求めた敵なのだ。
じりじりとする、重い対峙が続いた。頬に汗が伝い、息を呑む。間合いは、三歩ほど。父の、悠然とした上段は変わらない。強い氣も感じられず、ただ自然であり、ありのままの存在感だけが伝わる。
例えるならば、巨樹。そこに、何百何千年と生えているかのような大木だ。
「雷蔵」
また、清記が口を開いた。
「木剣だからという遠慮は捨てろ。容赦なく打ち掛かって来い」
まるで、心中を見透かされているかのようだった。木剣でも、人を殺せる。その不安は心の片隅に少なからずあったのだ。だが、そう言うのであれば容赦はしない。雷蔵は、意を決した。
地摺りで、円を描くように間合いを詰める。清記は微動だにしない。上段のまま、不動である。
清記の背後に達した時、雷蔵は気勢を挙げ、前に踏み出した。
背後から、右肩に打ち込む。清記は微動だにしない。防ぐ素振りも、避ける素振りも。構わず、雷蔵は振り下ろした。
だが、清記はそこにいなかった。いや、いたが消えた。その姿が、ゆらゆらと揺れて霧散したのだ。
(しまった)
雷蔵は青ざめた。
それを使われたのである。
念真流に伝わる、究極の見切り。雷蔵も朧を使える。滝沢求馬との戦いでも使ったが、ここまで見事なものではない。
背筋に、氣を感じた。振り向き様に、木剣を横に薙ぐ。そこにも、清記の姿はなかった。
肌が粟立った。恐怖。平山清記という剣客に対して、明確な恐怖を覚えた。
その瞬間だった。
ふうっと、自分の体重が消失した。
身体が浮いたのだ。そして、視界が回る。青い空が見えた。そして、砂利の地面。
次の瞬間、衝撃が背中に来た。痛みが走る。肩に担がれ、投げられたのだ。
構わず、転がりながら立ち上がろうとすと、喉元に木剣の切っ先を突きつけられていた。
「……参りました」
雷蔵は、喘ぐように言った。
完全にやられた。もとより、父に勝てるとは思ってもいないが、もう少しやれると信じていた。しかし、父は木剣を一度も振らなかった。その事に気付いた時、雷蔵は更に力が抜けた。
自分の剣が、全く通用しなかったのである。弱い。その言葉を、俯いて噛み締めた。天狗になっていた。その事を雷蔵は痛感した。
「雷蔵」
名を呼ばれ、顔を上げた。
「これよりお殿様に拝謁する。ついて来い」
何の脈絡もなく、清記がそう切り出した。
「元服の報告だ。お前にとっては初めてのお目通りになる。粗相の無きようにするのだ」
雷蔵は一瞬だけ目を見開き、
「はい」
と、だけ答えた。
父の命令である。予定があろうが、疑問があろうが、断るという選択肢はない。
それにしても、驚いた。突然である。しかも、当日の朝だ。父らしいと言えば父らしいが、剣については、何も言ってくれなかった。修行が足りないと叱るなり、成長したと褒めるなり、何かしら一言がなければ、やりきれない。滝沢求馬の時もそうだった。敗れた事に、父は何も言ってくれなかったのだ。
(どうしろと言うのだ……)
やり場のないに想いが、黒い塊となって心の底に少しずつ沈澱していく。それは、父に向けた不信と憎しみ似た怒りだと、雷蔵は自覚した。
「若様」
父が立ち去ると、三郎助が駆け寄ってきた。
「お怪我はございませんか?」
「大丈夫だ」
「それはようございました。傍目からは鋭い投げでございましたので」
三郎助は、ホッとした表情を浮かべた。
(投げか……)
しかし、どうして柔術を使ったのか。新田との立ち合いを耳にしたのか。いや、それはない。あの時、周囲には誰もいなかったはずだ。
「三郎助」
「何でしょう」
「私は弱いのだろうか」
「まさか」
「父上には、全く歯が立たない。それに恐怖も感じてしまった。腑抜けだよ」
「それは、清記様がお強いだけです。若様もまたお強い」
「そうかな。今は己の不甲斐なさに打ちのめされている」
「優れた父を持つと、子は辛い。私もそうでした。父のように、執事として家中を差配出来るのか不安でしたよ。失敗して挫折感に打ちのめされた事もあります。しかし、今では何とか勤めさせていただいていますし、父に劣らない執事だという自負があります。つまり、挫折もまた成長の切っ掛けなのです」
「そうだろうか」
三郎助の話が、真実かどうか判らない。しかし、この小男が自分を励まそうとしている想いは判る。それは温かく、ありがたいものだった。
「しかし、天狗になっていたのかもしれないな。その鼻を折られたよ」
「ふふ。そう思うのならようございます」
「何故?」
「息子の鼻を折るのは、父親の務め。清記様は、ちゃんと父親として、若様を愛されているという事です」
「どうだかな」
「それに、敗北を知らない者に成長はありません」
「三郎助。御手先役にとって敗北は死だよ」
すると、三郎助は一笑した。
「若様は何でも深刻に考えるから良くない。さて、朝餉が用意されていますよ」
三郎助が立ち上がるようにと、右手を差し出した。雷蔵はそれを掴み、立ち上がる。
「今日はお殿様に会いに行かれるのですから、早く済ませましょう」
「お前は、その事を知っていたのか?」
「はい。羽織袴の準備は出来ています」
「抜かりないな、三郎助は」
「言ったでしょう? 亡き父に劣らない執事だという自負があると」
中年太りした小男は、得意気な笑みを雷蔵に向けた。
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