最終回 悪い虫
作っているのは、簡単な菜物。その側に生えていた雑草を、
野良仕事は、隠居してから始めた趣味であった。村の百姓の姿を眺めているうちに、思い立ったのだ。
息子の兵部は気紛れだと笑ったが、自分でもそう思う。三代の藩主に仕え権勢をほしいままにしてきた自分が、無聊を慰める為に百姓の猿真似をしているのだから、何だか笑えてしまう。
現藩主・栄生利景に政争で敗れて幾数年。この柳瀬田に引き籠った歳月がそうさせたのだろう。
(儂もすっかり丸くなったものよ)
阿芙蓉大名。
かつて梅岳は、裏でそう渾名されていた。それは、幕府禁制の阿芙蓉を密貿易で売買し、その販路を独占してきたからだ。
客は口の端にも出せない、貴人・要人ばかりである。それは揺すりの証拠を掴んでいると同意であり、故にこの利権を独占し続ける事が出来たのだ。その阿芙蓉の道は今、兵部に引き継いでいる。
兵部は実子ではない。先代藩主・栄生利永の御落胤である。母が側室にもなれない低い身分の為に藩主家に入る事が認められず、犬山家に養子入りされた。それ故に、〔御別家〕などと呼ばれている。
その母は、かつて梅岳の
噂など、どうでもいい事だ。血筋についても。愛してもいなかった女でもある。だから、利永にも差し出せたのだ。
全て、権力の為だった。首席家老として君臨する、その為には何でも利用したし、見込みのある若者も早々に潰した。人も殺したし、友も裏切った。そのような自分が、こうして余生を過ごせるのは何とも皮肉な事だと、つくづく思う。
利景との政争に敗れた時、死を覚悟した。そうなるだけの事はしてきたが、何故か命は許された。兵部の執拗な助命嘆願があったそうだが、利景は利用価値があると踏んだに違いない。
梅岳は雑草を粗方取り終えると、縁側に腰を下ろした。それを待っていたかのように、下女が茶と菓子を運んでくる。菓子は、江戸の日本橋から取り寄せた落雁である。
「おうおう、悪いのう」
「いいえ」
下女は幼さが残る若い女で、〔さと〕という名の百姓娘だった。行儀見習いで奉公しているという。
「何やら、声が聞こえるの」
騒がしい子どもの声が、塀の向こうから聞こえた。
「村の子達でございます、御隠居様」
「そうか。どれ、菓子でもくれてやろう。さとよ、子ども達を連れて来るとよい。それと、人数分の饅頭もな」
「しかし」
「よいよい」
暫くして、百姓の子ども達が駆け込んで来た。一人ずつ饅頭を配り、遊ぶ姿を眺めた。
穏やかな、午後の日差しの中である。謀略の日々を生きてきたのが嘘のようだ。
「遊びをせんとやうまれけむ」
ふと、後白河院の
「戯れ……」
「ご隠居様、それ何のお歌?」
鼻を垂らした女童が、目をらんらんとして訊いてきた。
「これか? この歌はな。子どもの内にいっぱい遊べって歌じゃ」
「へぇ」
「ふむ。だから、お前も遊んでおいで」
梅岳は、女童を膝から下ろし、他の子どもが遊んでいる輪の方へ背中を押した。
(遊ぶ子供の声きけば、我が身さえこそ動がるれ……ってか)
あれほど自分を突き動かした悪い虫は、今はすっかりと腹の中で眠ってしまっている。それは自分でも驚くほどだ。
そうさせているのは、恐らく利景という男の才能と、水も漏らさぬ陣容だろう。首席家老の
(これは勝てぬ)
梟雄の本能か、腹の虫が
◆◇◆◇◆◇◆◇
「
奥から声がして、梅岳はのっそりと振り向いた。
さとが兵部の姿を認めて、子ども達を下がらせた。こうした所は、本当に気が回る娘だ。
「あと、お前が嫁を取って孫を儂に抱かせてくれたら、本当の爺さんだ」
「さて……それは何年後になりましょうか」
そう兵部が言うと、梅岳は舌打ちをした。
「しかし、久し振りだの」
「申し訳ございませぬ。藩庁でのお勤めで忙しく」
「ふむ。どうだ、あっちの様子は」
「橘民部も捕縛されたとかで、勤王騒ぎも終息しつつあります。宇美津の一件も片付いたとの報告がございました」
「ほう、すると田沼はいよいよ開国に乗り出すかのう」
「そう簡単に事が運ぶとは思いませぬが……どうなる事でしょう」
兵部が、梅岳と並んで縁側に腰を下ろした。
「して、お殿様はご健勝か?」
「ええ。少し前はお加減がすぐれない様子でしたが、今はすっかりと」
「そうか」
利景は、生来の病弱だった。藩主になれたのも偶然で、その後押しに梅岳も加担した。
病弱なれば、
「それは、残念だな」
「何を仰いますか、義父上。お殿様には、いつまでも健勝でいていたたかなければ、夜須の将来は霧の中でございます」
「ふん、お前は欲が無いの」
「私も欲はありますよ。旨い酒を飲みたいし、いい女を抱きとうございます」
「そうした小さな欲ではない。お前は、お殿様にも引けを取らぬ血筋があるのだぞ。しかも、身体は丈夫で頭も切れる」
「また、その話でございますか」
「ああ、その話だ」
すると、兵部は快活に笑った。
「義父上。何度も申し上げておりますが、私は自分の器を弁えているのですよ。非才の私に比べ、お殿様は麒麟児。ご生母は将軍家に連なり、私の母とは雲泥の差。お支えする事で精一杯なのです」
「よくもまぁ、阿諛追従をしゃあしゃあと。謙遜も過ぎると嫌味だぞ」
そう話していると、兵部の側近である
「どうしたのだ、八十太夫」
「殿とご隠居様に面会したいと、旅の雲水が訪ねて来ております」
「雲水? 義父上のお知り合いですか?」
「いや、儂は坊主の友などおらんよ」
梅岳は兵部と顔を見合わせ、二人して首を捻った。
「それが……」
と、八十太夫は膝行し、声を一段と潜めた。
「黒河藩、と申しております」
「黒河。あの伊達様では」
兵部が梅岳を一瞥した。
「伊達様が、儂に?」
「はっ。ご隠居様に、是非聞き届けて欲しい願いがあるとの由」
「そうか。儂にか」
黒河藩。伊達蝦夷守継村。その名を聞いた時、自分の腹の中で眠っていた悪い虫が、むくっと起き上がるのを、梅岳はしたたかに感じた。
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