第十三回 不安

 星も月も、雲に隠れた夜だった。

 求馬は、提灯を手にして一人屋敷を出た。

 金橋忠兵衛という男と、待ち合わせをしているのである。

 御徒町を過ぎ、湊の方向に向かって歩く。次第に潮騒の音が聴こえて来た。指定された場所は、浜辺にある小屋。それは漁師が達が使っているもので、目印に人を立たせていると言われた。ここまで来れば、そう遠くはない。

 金橋は橘民部の片腕と評され、尚憲に是非会ってくれと言われた男だった。


(やはり、断るべきだった……)


 胸に去来する後悔の念に、進む足が重くなる。昨日、金橋の使者と称する青菜売りが屋敷に現れ、押され気味に会う事を約束してしまったのだ。それもこれも、父の名を出された故だろう。使者曰く、金橋はかつて何度か父に会った事があるそうだ。

 気乗りはしなかった。参加しないと決断した以上は、彼らと関わるべきではない。深入りすればするほど、後戻り出来なくなる可能性がある。だが、父の名を出された以上は、とも思う自分がそこにいた。

 父の呪縛。父を介して次々に現れる男達の顔を浮かべると、そう思わくもない。


(どうにも駄目な男だな、俺は)


 己の弱さを、求馬は悔やんだ。


(誘われた時には、きっぱりと断るしかあるまい)


 と、求馬は襟巻に首を埋めた。晩秋の夜風は、もう冬のものである。更にそれが海風となれば、寒さも一入ひとしおだった。

 目的の小屋は、すぐに見つかった。小屋の外に、使者を務めた男が立っていたのだ。昨日は青菜売りだったが、今日は武士の風体である。

 提灯を掲げると、男は頷き、


「金橋先生は中で待っております」


 と、中に導いた。

 囲炉裏の傍。色白の武士が座っていた。歳は三十半ば。肌の白さ故か、髭の濃さが目立って口の周りが青々としている。


「よく来たな」


 狡猾そうな、不敵な表情を求馬に向けた。癖のある男のように見える。


「隈府藩脱藩、金橋忠兵衛という」

「滝沢求馬です」


 囲炉裏の傍に腰を下ろすと、お互いに頭を下げた。


「待っていた」


 金橋は、一つ頷いてみせた。


「招いておきながら、茶の一つもない。酒ならあるが」

「いえ、お構いなく」


 酒を飲んでいる暇はない。なるべく早く、一刻でも早く、此処から立ち去りたいのだ。


「君の事は尚憲殿に聞いている。『自慢の弟子だ』と言っていた」

「自慢などと。それは言い過ぎというものです」

「そうした謙虚な姿勢がいい。我々の同志は自尊心が強いものばかりだ」


 自分も自尊心は強い。ただ、それを表に出さないだけである。


「私を含めてだが」


 そう言うと、金橋は喉の奥で唸るような、低い笑い声を挙げた。


「君の父上を、私は知っている」

「昨日、ご使者より聞き及びました」

「同志、と言うと語弊があるがな。その頃の私はまだ元服したばかりの青二才で、お父上を仰ぎ見る存在だった。だがお父上は、そのような私に何度か話をしてくれたのだ」

「清水徳河家を巡る騒動の時ですね」


 そう言うと、金橋は一瞬だけ驚きの表情を見せ、そして深く頷いた。


「お父上は、この国の行く末を案じておられた。このまま幕府に任せていては危ないと」

「だから、将軍家を勤王に染めようと」

「そうだ。そうする事で、徳河を幕府を少しずつ朝廷に取り込むつもりだった。しかし田沼が」


 清水徳河家を巡る騒動は、田沼意安の登場により収束した。勤王派にとっては、田沼は憎悪の対象でしかないだろう。


「ところで、金橋殿の眼には父はどう映りましたでしょうか?」

「そうだな。美しい武士だったな。普段は冷静で慎重だったが、熱いものを胸に秘めている。特に幕府に対しする強い反感は、今でも私のここに焼き付いているよ」


 と、金橋は胸を軽く叩いた。


「父が幕府に反感を……」

「そうだ。その反感は、帝の不遇と百姓の困窮から発したものだ」


 それから金橋は、幕府と田沼政治の批判を始めた。その見識は広く、内政や外交を踏まえた批判は実に的を射ている。また、その話術も巧妙だった。父の思い出から幕府批判に繋げた辺りは、まさに説客ぜいかくとというものだ。


「いいか、滝沢殿。この国を立て直すためには、朝廷を中心にして、国内を一統する政事に戻さねばならないのだ」

「国内を一統?」

「そう。今のような幕藩体制ではなく。本来の形に戻す」


 その為に、義挙を起こす。それが、金橋の言い分だった。


(勤王の志士だ)


 と、熱弁する金橋を見て求馬は思った。

 尚憲と似ている。山藤とは違うが、父とも似ていたのかもしれない。眼に幕府への憤り共に、少なからずの陶酔感もある。義挙に加わり、天下国家を語る自分に酔っているのだ。自分もそうだった。だからこそ判る。


「ところで尚憲殿を知らぬか?」


 ひとしきり語り終えた金橋が、話を変えた。


「いや。存じ上げませぬが」


 二日前、奉行所からの帰りに訪ねた時から、尚憲は姿を消していた。昨日今日と慈恩密寺を訪ねたが、まだ戻ってはいない。


「もう江戸に旅立たれたのでは?」

「いや、それはない。私が江戸からの迎えなのだ。それは本人も知っているはず。迎えを置いて行くとは考えにくい」


 ならば、同志の間を奔走しているのだろう。尚憲は何かにつけ精力的な男だ。


「まぁいい。君とはまた会う事になるだろう。私は明日、合田沢へ行く」


 それで金橋とは別れ、小屋を出た。


(結局、何も言えなかった)


 と言うより、参加の有無について何の話にもならなかった。既に頭数に入れられているのかもしれない。


(それは迷惑な話だ)


 やはり、悠長に構えてはいられない。訊かれずとも、こちらから申し出るべきだった。


◆◇◆◇◆◇◆◇


 翌日奉行所に出仕すると、何やら騒がしかった。郷方の御用部屋も同様で、先に来ていた辻村を捕まえて訊いた。


「失踪したのですよ」


 と、声を潜め耳打ちした。


「どういう事だ」

「ええ。町方の山藤殿と、勘定方の村岡殿、そして大声では言えませんが、郷方の東殿が姿を消したのです」


 山藤の名を聞いて、したたかな衝撃を受けた。


「脱藩なのか?」

「さぁ、そこまでは。ただ、神隠しのようにパッと」

「神隠し……」

「ええ。ただ、お奉行は何が何でも探し出すそうです。何せ集団で消えたのですからねぇ。良からぬ事が起こるかもと心配なのでしょう」

「……」

「そう言えば、町方の山藤殿って滝沢さんのお知り合いですよね。村廻りの帰りに会った……」

「そうだ」

「知らないのですか?」

「ああ……、知らんよ。そう親しくもないのだ」


 求馬は喘ぐように答え、辻村を手で払った。

 尚憲と山藤、そして村岡と東という二人は共に脱藩し、江戸に向かったのかもしれない。金橋は知らないと話していたが、行き違いは多々ある事だ。


(何が起こっているのだ)


 求馬は、机に肘を付いて頭を抱えた。

 不意に怖くなった。何か得体の知れない巨大な影が動き出した。そんな心地である。


「大丈夫ですか?」


 辻村が声を掛けてきた。


「具合でも悪いとか」

「俺の事はいいから、明日の準備をしろ」


 二日後に日帰りで村廻りがある。だが、正直お役目どころではない。が、こう狼狽うろたえれば疑われる。


(まて、疑われるとは何だ)


 最悪の事態が頭に浮かんだ。


(そんな事はありえん。あってはならん)


 狼狽えるな。彼らは義挙に参加する為に集団で脱藩したのだ。そして、金橋はそれを知らなかった。


(そうだ。そうに違いない)


 今はただ、極めて平静を装わなければ。何者かが俺に揺さぶりを入れ、ボロが出るのを虎視眈々と狙っているのかもしれない。

 悶々としたまま一日を終え、御徒町二番丁にある自宅に戻った。


「お帰りなさいませ」


 芳野が、変らない笑顔で出迎えた。


「おや? 二人は?」


 袴を脱ぎながら、芳野に訊いた。

 平山親子の姿が無かった。出掛けたまま戻っていないのかもしれない。


「それが、お知り合いの方が亡くなったみたいで。暫く戻らないとの事です」

「ほう、不幸事があったのか」

「ええ。何でもお腹を召されたとかで」

「切腹か。穏やかではないな」


 今回の件と、何か関係があるのだろうか。疑えば何処までも疑え、全てが関係しているように思える。一体、何がどうなっているのか、考えようもない。


「あなた?」


 と、不意に袖を掴まれた。


「どうした?」

「いや、険しいお顔をされていたので思わず」

「そうか、そんな顔をしていたか。すまぬな」


 求馬は、傍にある芳野の顔に目を落とした。芳野が心配そうな顔をしている。


「芳野」


 求馬は、その細い身体を抱きしめた。芳しい香りが全身を包む。


「どうしたのですか、急に」


 両手に抱く芳野は、とろけそうなほどに柔らかかった。


(怖いのだ、俺は)


 急に姿を現した恐怖。その前に、自分は無力であると、求馬は痛感した。


「暫くこうさせてくれ」


 この時、この瞬間だけは全てを忘れたい。お前だけが、俺の安らぎなのだ。

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