第十回 決心
小弥太が、庭の掃除をしていた。一本だけある、庭の柿の木の葉を集めているのだ。
「おはようございます」
廊下に立つ求馬の姿を認めると、小弥太は手を止めて頭を下げた。
「おはよう」
と、求馬もそう返す。晩秋の穏やかな朝である。些かの寒さもあるが、小弥太は気にする風はない。
「朝からよく働くね」
「いえ」
「感心な事だよ」
小弥太は、決して明朗快活な子どもではないが、此処に来た日からよく働いた。芳野が頼まなくても、空いた時間には掃除や薪割りを率先して行うのだ。時には、奉公人に混じって雑事をこなす事もある。名門の武家にしては珍しく、むしろ奇妙とも思える。百姓を助けた一件としい、この平山家は身分というものにこだわらない家風なのだろうか。
平山親子が、滝沢家に来て五日が経った。その間、変わった事もなく日々が流れている。
「小弥太様、朝からそのような事をなされずともよろしいのに」
奥から芳野が現れて言った。
「昨夜夜更かししてしまいまして、眠気覚ましにはちょうど良いのです。それに、枯れ葉が気になったので」
「小弥太様は綺麗好きなのですね」
「別に、そういうわけではないのですが」
芳野は、小弥太が手伝ってくれる事が嬉しそうだった。それは家事が楽になる、というだけでない。幼い時にコロリで亡くした弟と、面影を重ねているのだ。生きていれば、ちょうど同じ年頃だ。
小弥太は相変わらず陰鬱として言葉少なだが、めげずに色々と話しかけている芳野の姿を見ると、心が温かくなるものがある。芳野が楽しいのなら、それでいい。
◆◇◆◇◆◇◆◇
朝餉を終えると、平山親子はいつものように、芳野が拵えた弁当を持って屋敷を出た。連日何処へ出掛けているか、求馬は知らない。羽合から二人を預かっている手前、気軽に訊けるものではないのだ。だが、夕暮れ前には帰って来るのだから、そう遠くへは行っていないのは確かだ。
この日は久し振りの非番で、求馬も二人が出掛けた四半刻後に屋敷を出た。
行き先は尚憲のいる、慈恩密寺である。山藤からの手紙を届けねばならない。
(当然、答えも出さねばならぬだろうな……)
ここ数日、考えに考えた。
父も勤王の志士だった。それ故に死んだ。父を殺したのは藩だ。どんな事情があったにせよ、父を殺した藩の為に、自分はこれから働けるのか? 藩が仇だと言えるのだ。ならば、脱藩し父が抱いた志の為に戦うべきであろう。それが子の定めであり、また恩人たる尚憲の存在もある。しかし、それは芳野を捨てる結果になり、今の求馬には難しい決断だった。
父が勤王の為に働いていたと聞かされた時は、心が震えた。宿命だと思った。だがそれは、一時的なものだった。
「静かに生きろ。私のようにはなるな」
父が残した遺言。この言葉が、参加に傾く求馬の心を、強く引き止めたのだ。
父はこの遺言で、
「私の志を継ぐな。また、私の仇を討とうと思うな」
と、言いたかったのではないか。即ち、芳野と共に静かに暮らせと。
(父は、この事態を見越していたのだ……)
それに気付いた夜、十数年ぶりに泣いた。だが、それでも悩んだ。二番目の父とも呼べる尚憲が、自分に期待しているのだ。その気持ちを無下にしていいのか。
街道を進みながら、求馬は更に思案を重ねた。どうしようもない現実が、行く手に横たわっている。そう思うと、気持ちが暗く足が重くなる。
(ひと思いに、芳野を連れて藩を抜けようか)
そうも思うが、それは不可能だ。浪人の生活は厳しく、追手に狙われる事にもなる。夜須には脱藩者を追跡し、始末するお役目があると耳にした事がある。それ程に過酷な道なのだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇
昼前に、今山の麓に到着した。慈恩密寺の山門を抜けると、境内の畑で尚憲が冬野菜の手入れをしていた。
「久しいな」
尚憲が立ち上がって言った。両手は泥で汚れている。大根の間引きをしていたようだ。
「申し訳ございません。どうも忙しくて」
「よいよい。生きる以上、働かねばならん。そうだ、聞いたぞ? 賊徒退治の一件。見事な武功を立てたそうだな」
「偶然です」
「なあに、お前には剣の天分があるのだよ。宇美津随一の使い手だ。私は誇らしい」
「それは買い被り過ぎというものですよ」
それから住職に挨拶をした後、私室に導かれた。
求馬は、山藤の手紙を手渡した。それに目を通した尚憲は何度か軽く頷いた。
「なるほど。義挙の準備は着々に進んでいるようだ」
「その件ですが」
「ああ。どうだ? 決心の程は」
「それが……」
決心という点では、参加しない方に大きく傾いている。それは父の遺言の意味を知った事が大きいが、自分が抱く勤王の志というものに疑問を覚えたのだ。
(結局の所、俺の志は世間に対する不満のはけ口に過ぎなかったのだ)
事実、決起を聞いて二の足を踏んでいる。それがいい証拠だ。ただ、それをどう伝えるか。
「まぁ、参加すれば失うものも大きい。よく考える事だ」
伝えようと意を決したものの、
「すみません」
と、思わず頭を下げていた。
「しかし、そう長く待ってはいられんぞ。事態は決起へと突き進んでいる」
「事態、ですか」
「そうだ。禁裏のさる公卿が、橘殿に合流された。また、長崎では外国から武器を得られる算段になっている。あわよくば、軍船と兵も」
「外国の軍隊ですか?」
「傭兵というらしい。兵を斡旋してくれる商人がいるのだ。どんなに道理で幕政を非難しても、武力なくては理想を実現できない」
「……」
「求馬よ。最後に物事を決めるのは武力なのだ」
これは予想以上に大きな叛乱になるかもしれない。ただ、外国の軍を使うという事は、内政介入の機会を与える事になりはしないか? だが、求馬は何も意見しなかった。まだ自分は正式な同志ではない。
「先生。一つお話が」
尚憲の話が途切れたのを見て、求馬は話を切り出した。
「わが父、作兵衛も勤王の志士だったと聞きました」
「……」
尚憲が腕を組み、目を閉じた。
「その死の理由も」
「聞いたか、山藤に」
「聞かせる為に、山藤殿と会わせたのでは? と、今では思えます」
そう答えると、尚憲は口許に微笑を浮かべた。
「聞かせる為にか……。やはり、お前は鋭い男だ」
「何故でしょうか?」
「父の話を聞けば、お前は参加する。そう思ったからだ。お前は得難い、優秀な人材だ。是非欲しい」
「私を仲間に引き入れる為に」
「有り体に申せばそうだ。ただ、そろそろ『知る時期』だと思い、山藤に頼んだ。お前に託した書状で」
「そうですか」
不思議と決心がついた。父が、死の直前に示した生きる指針に従い、芳野と生きる。
(その道を俺は選ぶ)
今こうして静かに暮らせるのも、父の遺言を守った以上に芳野の存在があるからだ。大庄屋から迎えた娘が、両親が死んで以降失っていた安らぎを、自分に与えてくれた。
(菩薩なのだ、芳野は)
そんな女を捨てる事は出来ない。勿論、尚憲への感謝はあるが、その為に人生を賭ける事は出来ない。
「お前の父である作兵衛殿も、見事な武士であり、勤王の志士であった。お前には父以上の働きを期待している」
「先生。私は」
と、続けようとすると、尚憲が言葉を遮るように立ち上がった。
「すまんが、これから私は
「笠子に?」
宇美津は、徒歩で一日ほどの距離がある天領である。
「笠子の後は、
「いや、私は」
「よいよい。お前の優柔不断は今に始まったことではないわ」
「……五日後ですね」
その時に、断ろう。それがいい。それまでには、断る為の気の利いた言葉が浮かんでいるだろう。
「それとだ。江戸から
「時間がございましたら」
会っても無駄だ。義挙に参加しない。その想いは揺らがない。もう揺らいで欲しくないと、求馬は思った。
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