第6話 盟神探湯

「う、受け取れません」

 大量の現金に恐れをなし、正座しながら原田は眩暈めまいに倒れそうになった。小市民的だと思わぬところで自覚することとなった。

「これ以上何かを望むとは、いつのまにそんな奴になった、悠介」との釜坂を無視して、原田は緊張に苛まれながらも、どうにか言葉を振り絞った。

「せめて、説明をしていただけませんか? 恵一も協力したことですから、悪いこととは思えませんが」

 原田は心から願うことを伝えきった。剣持忍の表情は読み取れない、原田は自身の予想が当たっていて欲しいと多少の願望込みで話を続ける。

「今日の神社でのことです、これは記憶を取り戻すための一つのきっかけでした。剣持さん、あなたは、私が鉛筆を取り落とす可能性を考慮していましたね、貴方と出会うことで私が恐怖と痛みを思い出すかもしれないと」

 自分の予想を伝えつつ、彼は右袖を捲った。

「恵一、それに私の傷を覚えていてくれたあなたに落ち度があるとは思えない。この傷は負わざるを得ないものだったのでしょう。だからこそ、私はどうしても真実を知りたいのです」

「知ることが出来たら、あなたはどうしたいですか」

 自身がつけた(であろう)痣を、顔をしかめながら剣持は一瞥した、今度は原田にも、彼女の自己嫌悪が見て取れた。申し訳ないと思った、覚えてはいないものの、無用心に、切羽詰った状況に立ち入った己が悪いのだろうなと、原田は予測していたからだ。

「正しい事であり、私に可能ならば、力になりたいです」

 長々と修飾することでどこかに嘘が混じらないように、今の気持ちを手短に伝えた。

「……そうですね、誰にも知る権利はあります。でも、それと同時に目を背ける権利も確かにあるのです。原田君が辛いと判断すれば、いくらでも引き返す道があります」

 「手足を用ゆる力役はやすし」というアレな主張の偉人の肖像を束で突きつけられた、先程とは打って変わって、原田は冷静でありながらも真剣な眼差しを剣持に返した。自身のためではなく、彼女の意見を受け入れるために。

「最も、ここまで来て頂けたのですから、あなたは恵一君から聞き及ぶ通り、退路に千引ちびきの岩を置く方のようではありますが」

 この時の彼女は、もの悲しげな雰囲気を帯びていた。今、剣持が原田に言ったことは、本来は誰かから彼女に向って放たれた忠告なのかもしれないと、原田はぼんやりとだが想像した。

「じゃあ、始めましょうか忍さん」

「君の言った通り、か」

 突如、釜坂は口を開き、剣持は答えた。毎度苦労をかける原田の友は、いよいよ折れてくれたらしい。と、そんなことを思った矢先、原田は異変を認識した、友人の背後に、真っ黒な蛇が一匹蠢いている。

「記憶を取り戻してから説明しよう。その方が早く済む」

釜坂の言葉とともに、黒い蛇は、その姿を崩していった、対応するように原田の頭の中で何かがほどけていく。光景が、感触が、叫びが蘇る。

「どこから聞きたい、悠介。というよりどこから信じられる」

 まだ、意識が混乱しており、釜坂の声が、どこか遠くから響いてくるもののように聞こえた。

「あれは、何を殺したんですか」

あの時の、何かを殺した女性は――記憶が回復してみれば、なんとも解りやすい――剣持忍だった。あの晩、顔を見ることは叶わなかったが、動きも、背丈も、声も、今、原田悠介の目の前にいる彼女とぴたりと照合する。

「化け物さ」

剣持忍への問いは、釜坂恵一が代わりに答えた。

「必ずしも、軍事兵器は「ひもろぎ」の代役を果たせたわけではない。世界には、科学への信仰では打ち倒せぬ悪魔もいた、少なからずね。いきなりで悪いけど、まず、ここから信じてくれるかな?」

 少し、釜坂の態度には妙なところがあった。その比喩に満ちた言葉には相手ばかりか自分をも試すような節が感じられる。

「信じるしかないかな、恵一が出した蛇、明らかに普通の生き物じゃないし、そもそも大道芸を練習しているって聞いてもないし」

 釜坂は、嬉しそうな顔をし、目線を剣持に向けた。何かの了解をとったらしい。

「この街には、そういった忘れ去られたものが、とある理由で無駄に多い。……というよりは、どちらかといえば、そういうものがとある方法でたくさん復権しているとでもいえばいいのかな」

 原田は余計な口を挟まなかった。考察と次なる情報の収集に余念がないからだ。

「まるでこの街だけ天孫降臨てんそんこうりん以前のように、色々なものが好き勝手さ、変な制限はあるけどね。というよりそれこそ、状況的なものに絞り、忍さんの言を借りさせてもらえば、千引きの岩を削岩しちゃって、まずいものが跋扈している……みたいな」

 原田は唖然としていた。記憶消去が行われたということから、何か奇天烈きてれつなことだろうと覚悟してはいたが、正直な所、ここまで現実離れしているとは思わなかった。到底信じられるものではない。原田の奥底で、ふつふつと疑惑の念が沸いてくる。

「それで、忍さんがそのまずいもの、ここの住人にとって迷惑なものを処分しているわけだよ、僕も微力ながらお手伝いをさせて頂いているんだ。まあ、僕が担当するのは、人避けとか、記憶消去とかばかりで、大変なところは大抵彼女任せなんだけど」

 どのような方法でそれが行われているか、興味は尽きないが、原田は現状、より重要と思われることを尋ねた。

「そんな危険なことを剣持さんが何故?」

二人を交互に見ながら、原田は混乱から平静を取り戻し、何とか声を搾り出した。

「巻き込んでしまったのだから、説明の義務があるでしょう。……単純な話です、このような迷惑な状況をつくったのが、私の父だからです」

「呼んだ、忍さん」

「いえ、お父さんのことではなく。『剣持秀長けんもちひでなが』のことです」

 薬缶を持った剣持父(叔父)が、襖から顔を覗かせた。剣持忍は、特に調子を乱さず対処し話を続ける。しかし、剣持忍が実の父を『剣持秀長』とフルネームで呼んだのに原田は違和感を覚えた(そこに、剣持の明らかな実の父への嫌悪も見て取れたからだろう)。

 もちろん剣持の実の父親は、彼女の言う通り迷惑な状況を作ったのだから、恨まれるのは当然であるかもしれないが、果たして生まれてから二ヶ月ほどで亡くなった父に負の方向でそうまで強い感情を持てるものだろうか。

「まあともかく、私の父である秀長が妙なことをしてしまいましてね。せめてもの罪滅ぼしに父が原因であるこの危険を断てないかと思ったのです」

 理由を明かした剣持に次いだのは、釜坂だった。原田の次の問いが解ったのだろう。先回りして彼は回答する。

「――僕の身内もこの件に関わっていてね」

 次の瞬間、原田は口を開いた。

「俺にも協力させていただけませんか」

 釜坂は慣れきっていたが、剣持はこの即断即決に驚きを禁じ得なかった。

「本気ですか?」という意見は、釜坂の小さな笑い声とともに響いてから、静謐な空間に漂った。

 隠滅のため記憶を消去され、自力である程度まで記憶を回復し、その結果記憶を消した張本人である友人の手助けをすることが出来る。こう表現すると、手放しで喜ばしいものではないような気もするが、原田にとって現状は、暗闇から這い出たように清々しいものだった。

 釜坂が自分の知らないうちに傷つくのも、剣持が父親の尻拭いで傷つくのも、原田は許容できなかった。せめて一助になりたかった。

 それから、身の程知らずと知りながら協力したいと、原田が陳情して十数分経った。先に折れたのは剣持だった。

「決心は固いようですね」

「はい」

「では、こちらも、腹を割りましょう。お父さん、あれをお願いします」

 あれとの表現に一抹の不安を覚える。間髪いれず剣持父(叔父)が、台車で煮え立った釜を運んできたのを見て、的中を確信した。えらく早く解が得られたものだと、原田は兢々しながら目の前に来たものを凝視する。

「盟神探湯(くがたち》です。私はよく知らないのですが、ご存知ですか?」

 知っているから恐れたし、知らなくても恐れただろう。それは、あまりに唐突で不可解で、理不尽な状況だった。

「とりあえずこれを付けて、この中に手を入れてください。危険はありません」

 剣持が差し出したのは腕輪だった。

「え、少し待っていただけません……って、何してるんですか!」

 原田が驚き渋ったのは数秒であったろうが、その間に剣持は腕輪を一旦置き、右手を手首まで煮えたぎる湯の中に突っ込んでいた。表情には変化がない、これは精神力とかの問題ではないことは明白だった。

「これが、私達が戦う原因であり、同時に私達の武器でもあります。信じ難いでしょうが、これのせいで不可思議な現象が起こり、不可思議な力が使えるのですよ」

彼女が熱湯から持ち上げた右手には、変色すらなかった。そのまま彼女は、襟の内からネックレスを取りだした。原田が見やすいように、肩と手先を水平にし、ぶら下げる。

「『依代』です。本来の『依代』というものと本質は変わりませんが、目的が違うために酷い実害があります」

 瞬く間に行われていった、デモンストレーションと種明かし。水をワインに変える、指先に炎をともす、こういった奇跡は衆人に確かな効果をもたらす。世界中の宗教指導者が自身を特別な力を持つ者と証明するための要素、その最たるものの一つである。

 原田の眼には曇りがない、起こったことは信じるし、現代的な思想に毒されてもいるので、すぐに理由も求めようとした。つまりこの眼前の状況は、原田にとって効果的だった(原田を熟知する、釜坂がこの手順を考えたのだろうか)。本来なら「アクセサリーで不思議なことが起こせます」と聞けば眉唾としか考えられないし、種明かしがなければ、疑わしきところがなくても、少しは疑ってしまうかもしれない。

しかし、続けざまの提示が、剣持の焦りではなく実直さを証明し、原田は、これから語られることさえ嘘ではないと思うことができた。

 剣持は本気だ。行われたことと、語られたことは真実だと原田は再確認し、再び差し出された腕輪を受け取った。

 熱湯を恐る恐る覗き込む。

 原田にも多少の知識はあった。盟神探湯は、神明裁判の一つであること。真偽正邪を裁くために、神に誓った後に、手で熱湯を探らせるというものというくらいは知っていた。よこしまなものの手はただれ、正しいものはただれないというが、現代人にとってみれば只の理不尽である。これが裁きの場だったら、手を入れる前に自白するところだ。

「腕輪の装着が『ウケヒ(誓約)』になります。後は、如何様にも」

 大丈夫なことは証明されているし(流石に腕輪とネックレスは効果が違うなどの意地の悪いことはしないだろう)、一応、剣持は退路を作ってくれた。

 腕輪を着け、湯気の熱さを感じながら、原田は熱湯に指先を入れた。

「……すごい」

 どうにも恐れを拭えずすぐに引っ込めたものの、全くといって熱を感じなかった。

「邪心なしでしょうか、忍さん」

「すごいですね、本当に、あなたの言った通りだ」

 二人が成功を喜んでくれることはこちらも素直に喜びたいが、何か会話内容が不穏な響きを帯びていることを、原田は捨て置けなかった。

「まさか、恵一」

「まあ大丈夫だったから、いいよね」

「よくねえよ、どんな仕掛けをしていた」

「ほぼ本来通りさ、とても大事な問題だからね。もちろん火傷はしないようにしていたけど」

 原田は更に文句を続けようとしたが、剣持が彼の腕輪を外そうと傍に来たため友人に対する追求を中断した。

「騙すようなことをして、申し訳ございません。勿論、彼が全幅の信頼をおいていたので、大丈夫だとは思っていましたが」

 剣持は、腕輪を父(叔父)に手渡し、再び原田の対面に正座した。

「ありがとうございます。ご協力を願いたいのはこちらのほうです。まずは、何から説明致しましょうか」

 多くのことが起こりすぎて、一体何から聞けば良いのか、期待と不安に満ち、一体何を望んで良いのか、原田は迷った。

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