二章 北の貿易国4

 エグモントの言葉に彼の従僕が動き出す。流れるように自然な動作で上着を用意し着せていく。フレンの従僕も同じように外出用の上着を運んできた。フレンは傍らに控えていたアルノーに目配せをした。

 察したアルノーも身支度を整える。フレンの秘書官なのだから、重要人物の顔と経歴を頭に叩き込むのも必須だ。


 エグモントとフレンは馬車に乗り込んだ。二人の秘書官も馬車に同乗している。リューレアは最後まで不機嫌そうに何かを叫んでいたが、正直今は彼女の家族のことまで考えている余裕はない。

 運河の街と言われているが、なにも道路の代わりに水路が縦横無尽に張り巡らされているわけではない。ハレ湖を起点に数区画の間隔を隔てて環状に水路が敷かれている。北のハレ湖からいくつかの半円状の運河が伸びているのだ。

 半円を結ぶように途中いくつか横に運河が横断している。

水路と並行する石畳みの道も広くとられている。荷物の運搬などに使われることもあるからだ。

 馬車の中は重苦しい空気に包まれていた。楽しい旅行ではないのだから当たり前である。

 ほかの都市に比べて橋が多いため大きく揺れるのもローム市内の特徴だ。熟年の御者はいかに橋を渡る回数を少なくして目的地へたどり着けるか、ということに情熱を燃やしているし、それができて一人前だというのがロームで御者をしている者たちの共通認識だ。


「ついたぞ」

 その言葉でフレンは馬車の窓から外に視線をやった。

 スミット商会のローム本店は市内の商工会議所界隈の一角に構えている。大きな運河に面した道路沿いである。

 フレンらを乗せた馬車はスミット商会正面の運河を隔てた向かいの道で馬車を止めた。街路樹がちょうどいい具合に馬車を隠してくれる。


「ちょっと遠いですよ」

「これ以上近寄ったら見つかるだろう」

「そりゃそうですけどね」

 大体そんな都合よくアウスタインが表に出てくることなんてあるのだろうか。いったい何時間待つ羽目になるのだろう、とフレンが内心あきらめの境地に達したとき。

「そう心配するな。やつは毎日大体この時間に表に出てくる。朝一度目の会合がこのころ合いに終わるんだ。案外時間にきっちりした人間らしい」

 フレンよりもずいぶん先にローム入りしたエグモントは情報を仕入れているらしい。


「ということは寒い馬車の中で男四人肩を寄せ合って白い息を吐く、なんて事態にはならなさそうですね」

 フレンはさっくり嫌味を言った。

 急な外出だったから湯たんぽなどといった防寒具を持ってこなかったのだ。オルフェリアとの外出の時はもちろん湯たんぽも毛布も常に必携だ。

「うるさいぞ。ほら、出てきた」

 エグモントの声にフレンは前方を中止した。スミット商会の正面入り口が開かれた。中から男性らが姿を現した。

 扉を開けて出てきた従僕と思われる仕え人の後ろからゆったりとした足取りで紳士が二人現れた。どちらも細身の背格好をしている。うち一人は帽子をかぶっているため人相までは読み取れない。もとよりフレンらはずいぶんと離れた場所から盗み見ているのだ。


「どちらですか?」

「今帽子をとってお辞儀をしたほうだ。栗色の髪をしている男だ」

 アウスタインと思わしき男は少し大げさな動作でお辞儀をした。返すほうの男は片手をあげて応じただけで、従僕と連れ立って徒歩で商会の建物から立ち去った。

 どちらも上背から、同じような年の頃の男のようだった。しかし客人らしき人物は最後まで帽子を取らなかったためどんな風貌かまではわからなかった。

「今会っていた男は誰です?」

「ここからだと顔は確認できませんね」

 エグモントの秘書、ミケイツが答える。

「そんなことより今はスミットのほうだ。よく顔を覚えておけ。おそらく近日中にも出くわすことになるだろうかなら」

「なんです、その予言めいた言葉は」

「やつはファレンスト商会の不祥事が愉快でならんのだろう。最近やたらと上流層が集まる場に現れる」


 なるほど。だからフレンに婚約者と顔を出せと煽ってきたのか。

 アウスタインは客を見送ったのちすぐに建物の中へと入っていった。

 どんな業突く商人だと思ったら、身なりは派手でもなく、品よくまとめている。遠目からだから顔の細かい造作までは分からない。しかし、顔に無駄な肉はついておらず、どちらかというと骨ばってる。

「もういい。馬車を走らせろ」

 アウグストの言葉を聞いたミケイツが御者に指示を出し、ゆっくりと馬車が動き始めた。


◇◇◇


 シモーネは王宮にほど近い公園の外を歩いている。この先にある柵の中、公園内は上流階級の人間でないと入れない。もちろん、主人に付き従う人間は入れるけれど、あいにくとシモーネは今一人きりである。

 門の前には係りの人間が立っている。しかし、門から少し離れたところから柵の中を覗き込むことは可能だ。

 ということでシモーネは怪しまれないように注意しながら婦人用の望遠眼鏡で公園の中を覗いていたのだ。別にそういう趣味があるわけでもない。単に仕事の一環だ。


 ディートフレン・ファレンストが彼の婚約者を伴ってロームに入ったことは聞いている。上に立つ人間というのは良くも悪くも目立つのだ。行動だってちょっと注意深く観察していればすぐに追うこともできる。


 シモーネが望遠眼鏡で観察していたのはフレンの婚約者、オルフェリアである。

 午後になって宿泊をしているホテルからこの公園に外出したからシモーネは面倒ながらも一応確認をしに来た。

 ボンネットを目深にかぶったオルフェリアの表情まではわからない。王宮近くの公園内には王家所有の絵画などを所蔵している美術館もある。おそらくそれらを見学に来たのだろう。傍らには彼女の侍女が付き従っている。公園の中に入れないのではあまり深追いはできない。

 シモーネは望遠眼鏡を小さな鞄の中にしまい込んでもと来た道を戻った。少し歩くと馬車が見えてきた。

 慣れた手つきでシモーネは馬車の扉を開いて中に乗り込んだ。


「オルフェリアお嬢さん、元気そうでした?」

 馬車に乗り込むと青年が話しかけてきた。デイヴィッド・シャーレンというシモーネの同僚だ。フラデニア風に少しもじるとダヴィルドとなる。

「さあ。遠くから眺めただけだったから表情までわかるわけないじゃない」

 シモーネは冷たくあしらった。


「そうですか」

 デイヴィッドはにこにこと笑っている。こいつはいつも薄ら笑いを浮かべているので志向が読み取れない。オルフェリアに対して通常よりも執着を持っているようにも見えるけれど、それがどういった心から来ているものなのか。シモーネは測りかねている。何しろ胡散臭い男なのだ。

「大体、こんな回りくどく遠くから観察するくらいだったらさっさと拉致してくればいいじゃない。泊まっているホテルだって知っているんだし、ファレンストは今仕事中なんだから」

 シモーネは面倒になっただけだ。人にはアルンレイヒまで行ってオルフェリアを連れて来いなんて無茶ぶりをしたくせに。いざ彼女がロームに来たら静観するだなんて、いったいなんの嫌がらせか。


 シモーネはデイヴィッドを睨みつけた。

「いやあ、そうしたいのはやまやまななんだけど」

「だめだよ。手荒なことはよくない」

 と、ここでもう一人の男性が口を開いた。穏やかな口調だが、この場で一番の発言権を持っているのは彼である。

 シモーネの雇い主だ。

「デイヴィーは色々とやらかしたようだけど?」

「それは本当にね。薬使うとかだめだよ」


「えええぇ~。手っ取り早くていいじゃないですか。ま、失敗しましたけど」

「本当に彼女に使っていたらお仕置きものだよ。まったく」

 年の頃はシモーネよりも二十以上は年上なのに、彼はあまり年を感じさせない。男性にしては細い線だが、しかし弱弱しい印象はなく、どこか気品がある。


「いつになったら彼女を連れ戻しに行くんです?」

「こういうのはタイミングなんだ。私たちが現れるのに最適な状況というか、彼女が驚いてくれる場面が欲しいんだ」

「あのね……舞台じゃないんだから」

 シモーネは呆れた。

 ふつうの生活にそんな演出いらない。シモーネは現実主義なのだ。

「きみ、女優のくせにそういうところこだわりないんだねえ」

 デイヴィッドが茶化した。

「そんなもん、舞台の上だけで十分よ」

「情緒がないなあ」

「うっさいわね」

 シモーネは鼻を鳴らした。この男はいつも人をおちょくるような話し方をする。


「そっか、元女優だもんね」

「さっきからうるさいわよ! あんたわたしに喧嘩売ってんの?」

 シモーネはついに叫んだ。

 現在女優業は休業中なだけなのだ。それなのにこの男は!


「まあまあ二人とも。とりあえず黙ろうね」

 主人にたしなめられてシモーネと、デイヴィッドも口を閉ざした。

「きっと近々いい機会があるよ。役人にも話を通しておいてもらおうか」

「仰せのままに。ご主人様」

 デイヴィッドは芝居がかった声を出す。

「ご主人様なんて、かけらも思ってないのに、デイヴィーは面白いなあ」

 主人の男は軽やかな笑い声をあげた。


◇◇◇


 オルフェリアがフレンと一緒に音楽会に行くことになったのはロームに到着してから三日後のことだった。

 ファレンスト商会の不名誉な事態はあくまで社内の一社員の暴走だということを印象付けるために内外に顔を売っておく必要があると説明を受けたオルフェリアは、フレンの婚約者として同行するよう求められた。

 偽婚約者としての仕事である。

 今回は事態が重いだけにいつもより緊張する。しかし、不思議なのはこういうときオルフェリアのことを利用するフレンが今回に限っては乗り気ではないことだ。


(やっぱり、わたしじゃ力不足だと思っているのかしら)


 偽装婚約者として契約をしてから数か月。失態だけなら片手では足りないくらいやらかしてきたと自覚はある。


「オルフェリア、あそこがダルム広場だ。白い建物が市庁舎だね」

 大きな運河に面した広場はロームの中心部とのことだ。

 運河には今日も大小さまざまな船が行き交っている。

「で、あっちに見える尖塔が一番大きな教会。ダルム広場の東側は治安の悪い一帯だからあんまり近寄らないように」

 フレンの言葉にオルフェリアはこくりと頷いた。そもそもホテルのある南地区以外、オルフェリア一人での外出は認められていない。

「フレン、大丈夫?」

 なんだか先ほどからのフレンがどことなくぎこちないような気がしてオルフェリアは彼に尋ねた。


「……私は通常通りだよ」

「……なら、いいんだけど。その……、わたしのこと、心配してる? ちゃんと演技ができるのかって」

 オルフェリアは自分から懸念事項を口にした。フレンから言われるより、自ら申告したほうが心構えができる。彼に密着しても動揺しないように気を付けているのだけれど、やっぱりどうしてもぎこちなくなってしまう。

「というより……本当はきみをこういう場に連れて行きたくない」

 その言葉にオルフェリアは自分の胸が早鐘を打つのを感じた。

「ごめんなさい、いつまでたっても演技に慣れない契約者で」

 オルフェリアは力なく項垂れた。

 やっぱり、フレンから直接言われるとダメージが大きい。


「違う。違うんだ。これから行くところは、きみにとって愉快な場所じゃないから。だから……、きみをこういう形でファレンスト家の醜聞に巻き込んで申し訳ないんだ」

 フレンは慌ててオルフェリアに言いつのった。

「きみを傷つけたくないのに、きみの手を借りないといけないことが悔しい」

 隣から聞こえるフレンの声はとても消沈しているものだった。普段の自信たっぷりな声からは想像もつかない力のない迷子の声。


「フレン。わたし平気よ。あなたの隣で精一杯明るい婚約者を演じてみせるわ」

「ありがとう」

「フレンらしくもない、殊勝な態度よね。明日は……雪でも降るんじゃない?」

 オルフェリアはわざと茶化した。

「失礼だね。私はいつもきみに対してこんなにも心を砕いているのに」

 フレンがくすっと笑った。

 その声に張りが戻っていてオルフェリアは安心する。やっぱり、フレンはこうでないと。

「それは……」

 フレンの元気が戻ってきたのに、彼から言われた言葉に今度はオルフェリアのほうが撃ち落とされた。心を砕いているなんて言われて、何を返したらいいのか分からない。


「ねえ、オルフェリア」

 オルフェリアが内心反応に困ってあたふたしている間に、フレンは会話を進める。ということ彼にとって今の言葉はあまり重要ではなかったのか。さみしくなってオルフェリアは少しだけつんとした。

「な、なあに?」

「これが終わったら私の……」

 と、ここでごほんと咳払いが聞こえた。

 オルフェリアは正面の座席に座るアルノーを見つめた。今の咳払いは彼が発したものだったからだ。


「ど、どうしたの? 風邪?」

「いいえ。なんでもありません」

 アルノーは淡々と返した。

「そう」

 普段はひたすらフレンの陰に隠れて空気に徹するのに、なんだか珍しい。彼が馬車の中で自分の存在感を示すのは。


「アルノー」

 フレンが先ほどよりも幾分低い声を出す。

「フレン様。そろそろ会場に到着です」

「……」

 フレンはむすっと押し黙った。


「アルノー、風邪なら早めに薬飲んだほうがいいわよ」

「今のは単純に車内の空気を払っただけです」

 アルノーはオルフェリアの心配を一蹴した。

「オルフェリア、彼もああ言っているんだから気にすることないよ」

 フレンはアルノーを睨みつけながらオルフェリアにそう言った。


 どことなく車内の雰囲気が剣呑になったような気がするのだが、そうこうしているうちに馬車は音楽界の会場へと到着をした。馬車寄せに馬車が停まり、御者が扉を開く。

 オルフェリアはフレンの手を借りて外へ降り立った。今日のロームは曇り空のため、外の空気はひんやりしている。

 ミュシャレンから持ってきた冬用のドレスが大活躍だ。せっかくの社交なのに新着ドレスじゃなくてつまらない、とミネーレがぶつくさ言っていた。

 外に降り立ったオルフェリアは別の緊張が自身を襲ってきたことを感じた。


(ロルテーム語、大丈夫かしら)

 オルフェリアは心臓を手で押さえて大きく深呼吸をする。

 会話の勉強もみっちりしたし、単語もたくさん覚えた。


「オルフェリア、行こうか」

「ええ」

 オルフェリアはフレンの腕に手を添えて彼に連れられて歩き出す。


 音楽界の会場となっているホールは中心部から西側の地区にある。王宮と同じ地区にある王立劇場とは違い、今日訪れている『ダーミントン音楽堂』は三十年ほど前に建造された新しいホールである。ダーミントンという羽振りの良い商人がローム市に寄贈した建物で、それにちなんで彼の名がつけられたのだ。

 正面入り口の階段や巨柱はすべて大理石が使われており、一歩中に足を踏み入れるとふかふかのじゅうたんが敷かれている。天井画はディルデーア大陸で信仰されている宗教の聖典を模しており、こちらも宝石から作られる顔料を贅沢に使用しているおかげか発色が素晴らしい。

 オルフェリアは演技も忘れてしげしげと内部を観察する。

「すごいわ……」

 見とれていると何人かが遠巻きに自分らを眺めていることに気が付いた。

 もしかしたらファレンスト商会の者たちだとばれているのかもしれない。別にやましいことがあるわけではないのだから、ばれているという考え方もよくはないだろうが。

 フレンも特になにも意識せずにすれ違う人々に愛想よく挨拶をしている。オルフェリアも慌てて笑顔を顔に張り付かせる。


「ごきげんよう」

 微笑を浮かべれば、すぐ近くですれ違った夫婦と思わしき男女が会釈を返してくれた。

 その後も同じように挨拶を繰り返す。

 しかしフレンに話しかけてこようとする人物はいなかった。

 なんとなく、いやな空気だ。

「ま、こうなることはわかっていたけどね」

 フレンがオルフェリアにだけ聞こえるよう小さな声でつぶやいた。

「みんな出方を考えているんだ」

 ファレンスト商会はフラデニアの商会だからロルテーム国内で彼らの見方をすることで得られる実利を図りかねているのだ。


 ファレンスト商会は、濡れ衣だと主張をしており、ローム支店を取り仕切っているディートマルは行方不明だ。そのため捜査も膠着状態だ。ファレンスト商会は奴隷商売などしていないし、指示もしていないと声高に主張している。

 それを捜査に当たっている役人がどこまで支持するか。役人たちの間でも意見が分かれているとオルフェリアはフレンから聞かされていた。

 ファレンスト商会は普段からローム市内の教会や孤児院などに多額の寄付をしている。慈善事業への協力も積極的に行っており、そういう過去の実績から擁護に回ってくれる役人らもいるという。慈善事業などへの協力の指示をしているのはもちろんフラデニア本店だ。


 ディートマルはそのような社会貢献活動ははっきり言えば重要視していなかった。

 オルフェリアはどうすればいいのか悩んだ。誰かが話しかけてきてくれればこちらから否定することもできるのに。

 社交の場に出てきた初日としてはこんなものなのだろうか。このあたりの機微がよくわからなくて自然眉間にしわが寄る。


(ここは深く考えずに恋人にしか目がない、なんていうほうがいいのかしら?)

 それはそれで自分の中の敷居が高いけれど。けれど、フレンのためだ。


 オルフェリアはフレンのほうに体を傾けた。

「おや、ファレンスト商会の跡取り殿ではないですか」

 オルフェリアが意を決してフレンに密着したとき、男がフレンに話しかけてきた。

 栗色の髪をした壮年の男だ。

 細身の男はフレンよりも少し背が低くとがった鼻が印象的だった。

「これはこれは。スミット商会のアウスタイン・スミット殿ではないですか」

 オルフェリアはフレンの言葉にはっとした。フレンからおおよそのことは聞かされている。目の前の男が、おそらくディートマルと共謀してフレンらを陥れようとした人物。そしてディートマルを切り捨てた男。


「私のような若輩者のことまで存じ上げていらっしゃるとは」

 アウスタインはへりくだったように深々と礼をした。けれど、その瞳は少しも恐縮そうではない。オルフェリアは彼への印象を悪くする。なんだか、ねっとりとした嫌な感じだ。

「若輩者とは、また。一代で立派な商会を作り上げた素晴らしい才覚も持たれているではないですか」

「ええ。私は何も持って生まれてこなかったのでね。この手でつかみ取るしかなかったのですよ」


(この男、フレンに喧嘩売っているだけじゃない)

 フレンは確かに大きな商会の跡取り息子だけれど、それとは別に努力している。ファレンスト家を自慢する言葉を口にすることもあるけれど、それは彼の努力に裏打ちされた自信の表れだ。なにも跡取りの座にどっかり胡坐をかいて何もしていないといわけではない。


「そちらのお嬢さんは?」

 互いのけん制しつつの会話に飽きたのかアウスタインはオルフェリアに目を向けた。

「私の婚約者です。今回彼女に宝石を贈ろうと思いまして連れてきたんですよ。ほら、もうすぐオークションが開催されるでしょう」


「オルフェリア・レイマ・メンブラートと申します。父はアルンレイヒの伯爵です」

 オルフェリアは優雅に腰を折った。


「ほう。アルンレイヒの」

「彼女はディルデーア大陸でも有数の名門なんですよ。ご存じないですか?」

「いやだわ。フレンたら、名門だなんて。古い家系なだけよ」

 フレンの言葉にオルフェリアは謙遜してみせた。オルフェリアの家の名が少しでも牽制になるのなら。オルフェリアはそう願う。

「ほう……。さようですか。メンブラートね……」

「なにか?」

 アウスタインは値踏みをするようにオルフェリアのことを頭から足まで舐めるようにじっくりと眺めた。


「令嬢に不躾すぎますよ」

 口元に嫌な笑みを浮かべながらオルフェリアのことを観察するアウスタインの様子にフレンがにこやかな声を出す。しかし、瞳は笑っていなかった。

「ああ、これは失礼。知り合いと似ていたものでね」

「知り合い?」

「いえいえ。お嬢さんがお気になさることではないんですよ。それはそうと、ファレンスト商会は今大変なことになっているのに、婚約者を連れて優雅に音楽鑑賞とはさすがは跡取り息子は違いますね」

 アウスタインは再びフレンのほうに視線を戻した。

「大変なこと? ああそれは、濡れ衣を着せられたということですかね。大きな商会はやっかみを受けることもままありますから。こういう陰謀めいたことは日常茶飯事なのですよ。いちいち取り合っていたらきりがない」

 フレンはあっさりとアウスタインの挑発をいなした。


「ほう。濡れ衣……と?」

「もちろん。濡れ衣です。我が商会はまっとうな商売しかしておりませんから」

「火のない所に煙は立たぬと昔から言うではないですか」

「出る杭は打たれる、とも言いますからね」

 フレンとアウスタイン、二人の視線が剣呑に絡む。

 二人ともあくまで冷静さを装っているが、ぴりりとした空気がたちまちのうちにあたりを支配していく。

 あまりにも険悪すぎてオルフェリアは口出しするのをためらう。


「まあまあお二人とも。音楽界の前なのじゃからからこのあたりで」

 と、ここでようやくこれまで遠巻きに二人のやり取りを眺めていた人々のうちの一人が仲裁に入った。

 第三者の声にフレンとアウスタインはどちらからともなく目をそらした。


「これはこれは……スホルテン氏ではないですか。貴殿もいらしておりましたか」

 アウスタインは初老の男性に幾分腰の低い声を出した。

「引退した身じゃから、音楽を聴くことくらいしか楽しみがないじゃよ」

 白髪と豊かな口ひげをたくわえたスホルテンはフレンとオルフェリアに目配せをした。どうやら助けてくれたようだ。

「ファレンストの倅も、婚約者が横にいるじゃからあんまり熱くなってはいかんよ。彼女びっくりしていただろう」

「ご忠告ありがとうございます。私のこと覚えていてくださったんですね」

「最後におまえさんに会ったのは私もまだ現役のころじゃったのう。おお、そろそろ始まるな。この続きは後日ゆっくり」


 スホルテンのこの言葉でなし崩し的にそれぞれが動き出す。

 アウスタインは正直まだ物足りなさそうにフレンに挑発めいた視線を送っていたが、スホルテンの手前引くしかないのだろう。何も言わずにその場から立ち去った。

 オルフェリアもフレンに先導されて指定された席へ向かった。

 内心むかむかしていたのでとてもじゃないけれど音楽を聴く気分ではなかったけれど。


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