四章 仮婚約者業の憂鬱5
◇◇◇
王太子との会談も終わりようやく解放された時にはあたりはすっかり夕暮れ時だった。冬のこの時期、年が明けたといってもまだ日暮れの時間は早い。
オルフェリアがリュオンと別れて、迎えの馬車に乗り込もうとした時御者が手紙を渡してきた。
「少し前に言づかったものです」
まずミレーネが御者から手紙を受け取り、署名を確認してオルフェリアに手渡した。
ミリアムの名が書いてあった。
「彼女本人があなたに託したの?」
「いえ。侍女のような使いの者でした。お嬢様にお渡しくださいと」
「そう」
オルフェリアは馬車に乗り込んだ。小さな鞄の中に手紙をしまい、ぼんやりと窓の外を見る。赤い夕陽がミュシャレンの建物を紅く染めていく。
今日は色々とせわしない一日だった。
馬車の中で頭の中を整理して、インファンテ邸に戻り外出着から室内着に着替えて夕飯をお腹の中に納めてからオルフェリアは自室で手紙を開けた。
正直ミリアムからの手紙というだけで気が進まない。彼女は今日もオルフェリアに突っかかってきた。ミュシャレンに出てきてから、彼女と初めて会ったときからミリアムはオルフェリアに攻撃的だった。
今日意外だったのはいつもはミリアムに同調するメイナが泣かなかったことだ。あの二人組を相手にすると途端にオルフェリアが悪者という図になるのに。
最近カリナから聞かされた打算もあったから、メイナの方にも色々と事情があるのはなんとなく察した。
オルフェリアは手紙の文面に目を落として、そして。
手紙をぽとりと床に落とした。
『もうすぐ迎えの人間を寄こします。楽しみに待っていてください。 ダヴィルド』
手紙には簡素に一文だけが書かれていた。
オルフェリアは胸元を押さえた。早鐘が鳴っている。
どうして。どうして。
オルフェリアはよろよろと跪いて手紙を拾い上げた。封筒の裏を確認する。ミリアム・ジョーンホイルと書かれている。
中に入っていたのは現在逃亡中の窃盗犯の名前が書かれている。
(迎えに来るって……どういうこと? まだわたしのこと狙っているの?)
あのとき、ダヴィルドは確かにオルフェリアを連れて行こうとした。なにやら薬まで用意していたから本気だと思った。フレンが助けに来てくれて、その後何事もなく平和に時が過ぎていたからすっかり忘れていた。
どうして今頃こんなものを寄こすんだろう。それにどうしてミリアムの名前が書かれていたのか。御者は女性から受け取ったと言っていた。
ではその女性が共犯者ということだろうか。
一番いいのはミリアムに確かめることだ。手紙を言づけた人間は彼女の名を語ったのだから。しかし、それをするとこちらの事情まで話さねばならなくなる。そうでなくてもオルフェリアがミリアムの名を騙る第三者から手紙を受け取ったと言えば、また彼女は曲解してオルフェリアをなじるかもしれない。
(だめ。やっぱり聞けない)
オルフェリアは手紙を暖炉にくべた。
炎は紙きれをあっという間に呑み込んで燃え上がった。
◇◇◇
レカルディーナ主催のお茶会から二日後。
ミリアムは単身デイゲルン王国の大使館へ乗り込んだ。メイナの現在の滞在先である。
メイナはデイゲルン第三王子の婚約者で、立場的には王家に属する身分になった。一介の侯爵家の令嬢が約束もなしに訪問するのは礼儀に反しているが、これまでの二人の関係性を鑑みれば、そこまで失礼にはあたらないと踏んでの行為だった。
手紙を送ればうやむやにされる可能性もあったからだ。
しばらく待たされた後、ミリアムはようやく大使館の奥にある私的な空間へと案内された。中庭を取り囲むようような長方形の建物である。通りに面した表は大使館の顔を持ち職員たち(デイゲルン人とミュシャレン採用の小間使いがいる)が行き来をしている騒がしい空間だったが、奥は逆にひっそした静けさに包まれている。
メイナは地上階の中庭に面した一室で待っていた。
「ごきげんよう、ミリアム」
メイナは小麦色の髪の毛をふわりと垂らしており、ラヴェンダー色のリボンを飾っている。ドレスは着替えたのであろう、訪問着のように余所行きのものだった。もしかしたらこれから予定があるのかもしれない。
「急だったからびっくりしたわ」
「ごめんなさい。ちょっと聞きたいことがあって」
ミリアムは席についた。
「なにかしら」
メイナは首をかしげた。その仕草ひとつとってもゆっくりとしていて庇護欲をそそる。
「わたしにそんな態度は結構よ。それよりも、あなたどういうつもり? どうしてオルフェリアの味方をするの?」
ミリアムは挨拶の言葉もなしに本題を口にした。
ミリアムは腹に据えかねていた。お茶会で、ミリアムは大恥をかいた。メイナのせいだ。
「あなたこそ、どういうつもりなのかしら。あなたがオルフェリアのことが嫌いなのは勝手だわ。でもね、もうわたしを巻き込まないでほしいの」
メイナははっきりとミリアムの目を見据えた。
彼女の顔から微笑は消えていた。
「なんですって」
メイナは侍女が運んできたコーヒーに口をつけた。
ミリアムの呟きを耳にしたはずなのに、何も聞こえなかったようにゆっくりとコーヒーを味わってから、おもむろに口を開いた。
「ファティウス殿下はファレンスト氏とは大学時代の先輩後輩の間柄なのですって。今でもファレンスト氏のことを先輩って慕っているわ。わたしもね、今後のことを考えると彼の婚約者であるオルフェリアとは良好な関係を作っておかないといけないの」
メイナは分かりやすい説明を聞かせた。
ミリアムはメイナの言葉を聞いて、口元を歪めた。
「あら、そうなの。デイゲルンの王子様が商売人に頭が上がらないだなんて。やっぱり三男にもなると色々と大変なのね」
「でも、王子様ということには変わりはないわ」
「あなたもちゃっかりしているわね。わたしあなたの実家がデイゲルンの王家に伝手があったなんてちっとも知らなかったわ」
ミリアムは矛先を変えた。そもそも、メイナに対しても一言言ってやりたかったのだ。自分を抜け駆けしてさっさと美味しいところを掴んでいった彼女に。
「自分の幸せを考えたら使えるものは使わないと。人見知りの激しいお姉様の縁談がまとまるのをただ待っていたらわたしのほうが行き遅れてしまうもの」
その一言でミリアムはあらかたの事情を察した。
メイナには領地に二歳年上の姉がいる。この姉が過度の人見知りで、寄宿学校も一年と持たずに泣き帰ってきたほどだ。年頃になり娘の結婚に焦った伯爵はメイナの姉のためにいくつもの縁談を持ってきていた。それを口惜しそうにしていたのはメイナだ。長女というだけで優先的によい条件の縁組をもたらされる姉に対して少なからず不満を抱いていた。
「姉だって、結局は人見知りしすぎて部屋に閉じこもってばかりだったもの。まあ、わたしにしてもそちらのほうがありがたかったけれど。部屋から姉を引っ張り出そうするお父様は面白かったわね」
メイナはころころと笑った。当時の光景が浮かんでいるのかもしれない。
ミリアムは少し面白くなくてコーヒーを飲むことして意見は差し控えた。どうしてもやっかみの言葉が頭の中に浮かんでしまう。その場にわたしがいたら、わたしのほうが殿下の心を掴んでいたかもしれない。実家になんて帰らずにメイナの家に押しかければよかった。
「あなたの事情はわかったわ。でも、わたしへの協力だって少しはしてくれたっていいじゃない」
ミリアムは拗ねた声を出した。
「協力?」
「そうよ。だって、あなただって本当はオルフェリアのことなんて好きじゃないでしょう。昔言っていたじゃない。あんな子、面倒なだけだわって」
「たしかに面倒だとは言ったわ。だって、あの子自分を飾るということをしないんだもの。だけど、嫌いとは一言も言っていないわ。それにあの子はすでに婚約をしているのよ。あなたの邪魔にはならないじゃない。どうしてそこまでオルフェリアを目の敵にするの?」
ミリアムはメイナの問いかけに肩を揺らした。
「あなたは、彼女のこと嫌いじゃないってわけ?」
「質問をしたのはわたしよ」
メイナはゆっくりと返事をした。二人の間に奇妙な緊張感が生まれた。おそらく、彼女はミリアムの真意を計っている。ミリアムはきりりと奥歯を噛みしめた。
ミリアムは、メイナがファティウスの先輩の婚約者がオルフェリアだから仕方なく仲良くしなければならないと思った。彼女が言った言葉を咀嚼したらそういうことだと思った。結婚によって今後の人間関係が変わるから、だからオルフェリアとも仲良くならないといけない、本心ではないと思っていた。
「オルフェリアに婚約者がいるからって邪魔にはならないですって。そんなことないわ。あの子、こっちが悔しくなるくらい綺麗になったもの。金持ちの婚約者からいくら貢いでもらっているのかしら。いつも真新しいドレスを着て、宝石を身につけて。男性達だって内心悔しがっているわ。隙あらばファレンスト氏から奪い取るって目を光らせているのが分かるもの」
ミリアムはそこまで一気に捲し立てた。
爵位を継ぐ立場の男性にとって一介の商人でしかないフレンなんて障害の一つにもならない。オルフェリアの身分欲しさに実家の窮地に付け込んで婚約をもぎ取った悪徳商人から彼女を救ったとかなんとか。そんな筋書きを用意してオルフェリアに近づこうとする光景が目に浮かぶ。
「あの子のことが嫌いか、ですって。ええ、正直に言うわ。嫌いよ、大嫌い。澄ました顔も嫌い。由緒ある名家に生まれて、それを歯牙にもかけないで当たり前ですって享受している態度も気に食わない。せっかくいいものを持っているのに使おうともしないだなんて、一体何様なの。結婚相手に身分を求めないですって。高いところから下を見下ろして何様のつもりなのよ。本当、見ているとイライラするのよ。あなたにもわかるでしょう。ただそこにいるだけでどうしてもイライラしてしまうような人間が世の中にはいるってことが。それがわたしの場合オルフェリアなだけ」
ミリアムは自分の持っていた負の感情をすべて吐き出した。
全部ミリアムの本音だ。オルフェリアの澄ました顔が視界に入るのが嫌。綺麗な顔で、こちらの頑張りを嘲笑するかのように自分に素直なオルフェリアを見ていると無性に腹が立つ。貴族社会なんて打算と立ち回りの世界ではないか。なのに、彼女はそんなことまるで気にしない。いや、少しは気にしているようだけれど、その方向性がミリアムとはまるで違う。だから、ミリアムは自分が馬鹿にされているように感じてしまう。
「あなたの言い分は分かったわ」
「メイナも分かってくれた?」
「ええ。だけど、今後はわたしにそれを巻き込まないでほしいの。わたしは別にオルフェリアのことは嫌いではないわ。お互いに張り合うものが無ければむしろ仲良くできるもの。あの子は虚栄心なんてまるで興味がない。だからわたしもあの子とは張り合う必要がない。綺麗な宝石だって、おそらくファレンスト氏が好んで贈っているんだわ。あの子とならきっといい関係が築けると思う」
「なんですって」
ミリアムは愕然とした。
はっきり言ってメイナがそこまで言うとは思わなかった。口では言い訳をしつつも、本心ではオルフェリアのことを煙たく思っているのではないかと思っていたのに。
張り合う必要がないから仲良くできる。彼女は言いきった。
「今後はむしろ、あなたとの距離を考えてしまうわ。だって、あなたこれからも何かにつけてわたしと自分とを比べるでしょう? 王家へ嫁がない限り、あなた惨めになるだけよ」
「ああそう。それがあなたの本心ってわけ。ご忠告どうもありがとう」
ミリアムは鈍器で頭を殴られたような衝撃を受けた。
それと同時に頭に血が上って、早口にまくしたてて部屋を辞した。
メイナは引き留める言葉を吐かなかった。
メイナはミリアムではなくオルフェリアを取った。そういうことだった。
大使館を出て馬車に乗り込んでもむしゃくしゃした気持ちは収まらなかった。
なんなの、あの子。あの勝ち誇った余裕のある態度が憎たらしい。結局、女の価値なんて結婚相手で変わるではないか。少し前まで、メイナはもっと謙虚だったのに。あの一転した顔つきはなんなのだ。
悔しい。
侯爵家の町屋敷に到着して、自室に入っても腹立たしい気持ちは収まらなかった。世話をやく侍女に当たり散らして、それでもやっぱり腹の虫は消えてはくれなかった。
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