三章 自覚した恋心4
◇◇◇
ミネーレの制止の声も無視してオルフェリアは駆けだした。
教会の敷地内の隅にあるベンチの近くまで走ってきて、それから一息ついて腰を下ろした。思えば朝からずっと挨拶のし通しで一息つく時間もなかった。
「姉上」
声のした方に顔をあげると、そこには案の定というか、リュオンがいた。
「リュオンたら。まだいたの」
「今日の僕は姉上の騎士ですから」
リュオンの言葉にオルフェリアは今日何度目かのため息を漏らした。そろそろ十四にもなろうかという少年なのにいつまでも姉にべったりというのも駄目な気がする。
それにオルフェリアにとっての騎士はただ一人だけだ。
「なんか不満そうですね」
長年連れ添った弟というものは、オルフェリアの心の機微にも素早く反応を示すのである。
「別に……」
オルフェリアはリュオンのことを睨みつけた。
今は一人にしてほしい。自分でも心を持て余しているのに、リュオンに気を回している余裕はない。
「あいつから逃げて来たってことは姉上もようやく夢から覚めたってこと?」
「そんなことないわよ」
リュオンの期待に満ちた声にオルフェリアは反射的に否定した。
フレンにどんな顔をして会っていいのかわからなくて、つい逃げてしまっただけ。だって、彼ったらこちらの気も知らないで平然としているんだもの。
オルフェリアがどれくらいフレンに会いたかったかなんて、彼は考えていないに違いない。彼からの手紙に一喜一憂したり、貰った菫の砂糖漬けは相変わらずもったいなくて食べられない。毎日忙しくしていても、夜になればフレンのことを思い出してしまう。
いつ帰ってくるの? 明日はあなたからの手紙は届く? そんなことばかり思っていた。だから、ほんの少しだけ淡い期待を込めて手紙に慈善バザーの日時を書き添えた。
送ってから、これって遠まわしにフレンにアピールしていることになる? なんて青ざめたし、いや、きっと彼は気にも留めないと改め直して心がずんと落ち込んだ。
「でもあいつの顔を見るなりミレーネの後ろに隠れたじゃないか」
「あなた、あれ見てたの?」
リュオンはこくりと頷いた。
「だって……あれは、その……。久しぶりにフレンに会ったから恥ずかしくて。だって、急に現れるのよ。動揺するじゃない。今日のわたし、いつもより恰好が地味だし。ミネーレったら、変に殿方の記憶に留まらないようにってこんな質素なドレスを選ぶんだもの。前もって手紙をくれたらもっとわたし、可愛い恰好をしてきたのに」
オルフェリアはわたわたと手を動かしながら懸命に言い訳をした。
まるで相手がフレンそのものであるように、必死に言い繕う。もちろんオルフェリアが身にまとっているドレスはミュシャレンの一流店で仕立てたものだから、派手さはないけれど、誂えは一級品だとすぐに分かる。
オルフェリアが言い募るにつれてリュオンの機嫌がどんどん悪くなっていくのだが、自分のことに体一杯なオルフェリアはもちろん気付くこともない。
「フレン、気分を悪くしたかしら。だって、急に逃げちゃったし。どうしよう、リュオンわたし……」
「姉上」
リュオンは困ったように口をもごもごと動かした。
教会の前庭で開かれているバザー会場から右手に逃げてきたオルフェリアの場所はちょうど生垣に囲まれていることもあり、会場の様子は分からない。フレンはまだあちらでオートリエらと談笑しているのだろうか。
逃げてきたオルフェリアも悪いけれど、少しくらいは様子を見に来てくれたっていいのに。やっぱり偽物の婚約者のことなんてどうでもいいのだろうか。それとも意味不明な態度を取ったオルフェリアに起っただろうか。
(そうよね。彼怒ったわよね。彼の作ったオルフェリア設定なら、こういうときは絶対にフレンに抱きつくところだもの)
そんな設定なんて忘れるくらい動揺したのだから仕方ない。説教は甘んじることにしよう。ああでも、理由を聞かれたらどうしよう。うまくごまかせる自信がない。
隣にいるリュオンの存在を忘れるくらいオルフェリアの頭の中は忙しかった。
と、そのとき。
人の気配がした。
リュオンがさっと、オルフェリアの前に立ち上がる。
オルフェリアは自分の胸が高鳴るのを自覚した。フレンが追ってきてくれた―? そうだとしたらどんなに嬉しいだろう。
「―っ……」
しかし、こちらに向かってきたのは中年の男性だった。
オルフェリアは素直にがっかりした。世の中そうも甘くはない。どうせ散歩中の紳士とか、そういう人だろう。
しかし、少しだけコートの裾がほつれているものの元は上等な作りなのだろう、それを纏った紳士は二人の方へ近づいてきた。帽子を目深にかぶった紳士は暗い灰色の瞳をこちらに向けてきた。
「メンブラート家のご子息とご令嬢とお見受けします」
オルフェリアは振り返ったリュオンと瞳を合わせた。二人とも、目の前の男に心当たりなどない。オルフェリアはリュオンに小さく首を振った。
年のころは四十代だろうか、目じりに細かい皺が刻まれている。髪の毛は短くて帽子の中に隠れている。鷲鼻が男の顔に凄みを付け加えている。
「そうだ。僕はメンブラート子爵だ。貴様、自分の名は名乗らないのか?」
リュオンは少し横柄な声音で応対した。
オルフェリアは素早く頭を巡らせた。ミュシャレンに出てきて、一人でもしくはフレンや叔母夫婦などと色々な集まりに顔を出した。けれど、こんな風貌の男に心当たりはない。
「私のことなど、どうでもよろしいのですよ。それよりも、『蒼い流れ星』はどこにやりましたかな? 私はそれの行方が知りたいのです」
今度はリュオンが息をのんだ。
彼の背後に庇われるようになっているオルフェリアも別の意味で心臓を鷲掴みされた。
「なんのことだ」
「とぼけないでください。あれは大昔ローダ家から下賜されたと聞き及んでおります。あれを持つものが伯爵家の正当な当主だと。それをね、わたしは譲り受けたのですよ。それなのに……」
男は滔々と述べて、最後に悔しそうに歯がみをした。ぎりり、と奥歯をこすり合わせる音まで聞こえてきそうなほど、大きく歯ぎしりをする。
「あなたの手のものがわたしから取り上げたのでしょう。ずいぶんと卑怯な真似をなさるものだ」
「貴様、何を言っている。『蒼い流れ星』は我が家の奥深くに眠っている代物だ。そもそも貴様ごときが目にできるものではない」
リュオンはきっぱりと言い放った。
しかし、オルフェリアは知っている。ダイヤモンドの首飾りと同じくらいメンブラート伯爵家にとって大事な家宝である大粒のサファイア『蒼い流れ星』が現在伯爵家の手元に無いことを。
「あれはね、本物でしたよ。すくなくとも本物のサファイアだった。だから私は買い付けたんですよ。あの商人は私に囁いたんだ。これを持つ者が伯爵家の土地も財産も好きにできると。だから私は」
「そんなことあるわけないだろう。たとえ宝石を持っていたとしても伯爵家を継ぐことができるのは正当な後継者だけだ」
リュオンは声を荒げた。
現在のアルンレイヒでは貴族の世襲は基本的に当主の長男が務めることになっている。法律に基づいて後継者を定め国に届け出る。宝石を持っているからという理由だけでまったく縁もゆかりもない人物が、正当な後継者を押しのけて自身が伯爵になり替わろうなど、そんなことできるはずもない。
「なんだと……。そんなことは……」
男はリュオンの言葉にショックを受けたようだった。
「おい、貴様出身はどこだ?」
「ふん。私の出身など、どこでもいいでしょう」
それよりも、と男は再び暗い顔をこちらに向けてきた。
「男どもに指示をしたのはおまえたちなんじゃないのか。私から宝石を奪ったんじゃないのか? くそっ! たとえ土地が手に入らなくてもあれ自体に価値があるのは確かだ。あれは私が金を出して買ったんだ。今すぐ返せ!」
オルフェリアは立ち上がってリュオンを庇おうと抱き寄せた。男とはいえ、リュオンはまだほんの子供だ。目の前の男と対峙して腕力で敵うとも思えない。
「わたしたちは知らないと言っているでしょう。だいたい、どうしてわたしたちがそんな回りくどいことをしないといけないのよ」
オルフェリアは強い口調で言い返した。
「それはおまえたち一家が金に困窮しているからだろう。売りさばいた宝石を盗ませるとは卑怯な真似をする」
紳士は、唾をまき散らしながらオルフェリアの腕を掴もうとした。
リュオンがオルフェリアの腕の中から抜け出し、再びオルフェリアの前に立ちはだかる。心意気は立派だと思うが、リュオンのほうが分が悪いことは明らかだ。
「出せ、出すんだ」
リュオンと紳士が揉み合っていると、ふいに紳士の体がリュオンから引き離された。
そのまま男は腕を後ろ手に取られてぎりりと拘束される。
「駄目だよ。可愛いご令嬢にそうも乱暴にいきり立っては」
紳士を締め上げているのは知らない男だった。年の頃はフレンよりも少し上くらいだろうか。飾り気のない、従者のようないでたちをしている。男は唾を飛ばしながら盛大に逆らおうと動こうとしているが、掴んでいる彼は無表情のまま動じていない。
その彼の背後から褐色の長い髪を一つにまとめた青年が姿を現した。
「こんにちは、お嬢さん。危ないところでしたね」
褐色の長い髪に薄茶の瞳の青年が緊張感のない、優雅な礼をオルフェリアに取った。
整った顔立ちをした青年は薄い唇を持ち上げた。年は二十代だろうか、含みのない笑顔を浮かべているがすぐ至近距離で中年男が締め上げられているのを鑑みれば、ずいぶんと場違いである。
オルフェリアは無言のまま突如現れた青年を見つめた。彼の顔を見るが、身に覚えなどなくて困惑してしまう。
「オルフェリア!」
その背後からフレンの声が聞こえてきた。
フレンが急いでこちらのほうへ走ってくるのをみて、オルフェリアは全身から力が抜けるのを感じた。
「フレン」
オルフェリアは安堵した。
心のどこかで彼が来たから安心だと思う自分がいる。
「オルフェリア、何があったんだ? 大丈夫? 怪我はしていない?」
フレンは息を整えるのももどかしいように間にいる人間を押しのけてオルフェリアのすぐ近くまでやってくる。そのままオルフェリアの両肩に自身に手を添えて彼女を覗きこむ。
「おい!」
リュオンが抗議の声をあげたけれど、オルフェリアもフレンもお構いなしだった。
オルフェリアの視界にはフレンのみが映っていた。あれだけ心が騒いで逃げ出したのにやっぱりフレンを間近で感じれば嬉しいし、ホッとする。フレンが駆け付けてくれて心が飛び上がりそうなほど喜んでいる。
「え、ええ。大丈夫よ。どこも怪我はしていないわ。その……お帰りなさい」
オルフェリアはフレンをまじまじと見上げた。見上げて視線が絡まって、恥ずかしくなってすぐに下を向いてしまった。
「ただいま、オルフェリア。さっきはどうしたの。急に走っていって、吃驚したよ」
「その……久しぶりだったから……、あの。その、は、恥ずかしくて……」
最後は消え入りそうな声を出すオルフェリアだ。
「叔母上もそんなこと言っていたけれど、私のことを待っていてくれた?」
フレンが下を向いたままのオルフェリアの頬を撫でる。手袋をはめているのが残念だと思って、そう思った自分の心にぽっと顔を赤らめる。
「あ、あなたわたしの婚約者じゃない。も、もっと早く帰ってきなさいよ」
オルフェリアはどうにかこうにか言葉を出した。
素だと恥ずかしすぎるから、オルフェリア設定を持ちだしてみた。でもフレンの顔は見られなくて、視線は斜め下を向いたままだ。
「うん。ごめん。仕事が山のように積み上がっていて。でも、きみに会いたくてこれでも急いで切り上げてきたんだ」
ああどうしよう。やっぱり無理。でも、こうして触れられると演技と分かっていても嬉しい。
「はいはい。お取り込み中のところ悪いんですけどね。そろそろ現実世界に戻ってきてくれませんか、ファレンスト先輩」
放っておけばいつまでも続きそうな寸劇に飽きた外野が声をかけてきた。その声はとても乾いている。
「って、きみファティウス? どうしてミュシャレンに」
フレンは目を丸くしてオルフェリアを助けた男性に声をかけた。
「おまえ、いい加減姉上から離れろ!」
好機とばかりにリュオンがオルフェリアとフレンの間に割って入った。力を込めて二人を引き離そうとしている。フレンとリュオンの間でびしばしと火花が散っているがオルフェリアは当然気付かない。
「ファティウス様。この男はどうしましょうか」
それぞれが銘々に話を始める中でようやく我に返ったオルフェリアは目の前のにぎやかな光景に目をぱちくりとさせた。
なんだか、べつの面倒ごとが起きている気がした。
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