一章 仮婚約者は迷走中

 とある昼下がり。

 オルフェリアはボンネットを目深にかぶり、ミュシャレンの商業地区へとお出かけをしていた。お目当ては文房具店と書店である。

 文房具店には封筒と便箋を探しに来た。


 というのも、実家から叔母の邸宅に戻るといくつかの手紙が届いていたからだ。差出人はイグレシア子爵夫人であるエルメンヒルデやユーディッテやリエラからだった。

 実家では家族くらいしか話し相手はおらず、ミュシャレンに出てきてからももちまえのはっきりとした物言いで同じ年頃の令嬢たちから煙たがられていたオルフェリアにしてみたら、女性から手紙を貰うというのは初めての経験だった。


 可愛らしい花模様の封筒を叔母ヴィルディーから渡された時はちょっと、いやかなり感動した。


 そして返事を書くために文房具店に来た。筆無精なオルフェリアの持っている便箋なんて、真っ白い無地の物で可愛さのかけらもない。ユーディッテの手紙からはよい香りがした。ミレーネ曰く、『便箋に香水を少しだけかけているんですよ』とのことだった。そんな芸当がこの世に存在するなんて。色々な意味でショックだった。

 そんな小技これまでの人生で教えてもらったこともない。

 オルフェリアも香水を買おうか本気で迷ったが、とにかくまずは女性らしい便箋を買うことだ。

 大きな文具店で色々な紙を手にとって吟味をして、オルフェリアは春らしいプリムラが描かれたものを選んだ。すずらんやすいれん模様も迷ったけれど、たくさん買ってもしょうがないので、今買った物が無くなったら新調しようと思う。


 封蝋やインクも新調して浮足立ったまま近くの書店へと足を運んだ。

 こちらも市内では一番大きな書店である。商会が軒を連ねる商業地区にあるから、客層もこの界隈で働く男性が多い。もちろんオルフェリアのような女性客もちらほらといる。

 今日のオルフェリアはいつものピンク色の外套ではなく、茶灰色の外套を着ている。

 店内をのんびり歩けば、後ろから律儀にミネーレがついてきた。


「店内だし、ミネーレもずっとわたしのことばかり見ていないで、なにか気になる物があれば手にとっていいのよ」

 できれば書店は一人で散策したいオルフェリアはさりげなくミレーネに提案した。

「いいえ。お嬢様から目を離すな、とフレン様からもしつこいくらいに言われていますし」

「そ、そうなの?」

「はい。近頃のフレン様は小姑のようにうるさいのですわ」

 ミネーレが頬に手を当ててため息をついた。

 しかし、フレンが小うるさいのはオルフェリアにとっては通常運転だ。あの男は出会った当時から何かと小うるさい。


「それはフレンの通常運転だからあまり気にしなくていいわよ。ミネーレだって、ファッションプレートとか興味あるんでしょう」

「はい! 実はそろそろ春号が出ている頃なので気になっているんですよ」

「だったら見てくればいいわ」

「ではお言葉に甘えまして。あ、お嬢様。絶対に店内から出てはいけませんよ。絶対ですよ」

「わかっているわ」


 オルフェリアは苦笑してミネーレを送り出した。ドレスが大好きなオルフェリアの侍女は年に数回発行されるファッションプレートの愛読者でもある。大きな図版の載った件の雑誌は値が張るため、ミネーレもこのためにお金をためている。


 オルフェリアは店内奥へと足を踏み入れた。


 書店の客層はこのあたりで働く男性たちが多数を占めている。皆しっかりとフロックコートを着込んだ紳士ばかりだ。時折女性客もいるが、皆地味な服装をしている。

 つい、あたりをきょろきょろと見てしまうのは知った顔がいないかどうか確かめるため。

 知った顔、フレンのことを思い浮かべてオルフェリアは自分の胸が熱くなるのを自覚した。近頃のオルフェリアは少しおかしい。


 フレンのことを考えると意味もなく顔がほてったり、寝台に飛び込んで足をじたばたさせたくなる。小うるさい男とか罵ってみるくせに、すぐに自分自身でその言葉に反論してしまう。

 書架を眺めるふりをしつつ、ついフレンと同じような背格好の男性を見ると、そわそわしてしまう。ファレンスト商会がいくら近いからといってそんな偶然あるわけもないのに。

 店内をぐるりと回って、少しだけ気落ちして。


 オルフェリアはもう一つの目的の本を手に取った。

 『大草原の果てから』という紀行だ。舞台はアルメート大陸の開拓地区。

 オルフェリアの愛読書の一つだ。アルメート大陸に西大陸の人間が入植を初めてほぼ百五十年。アルメート大陸の東海岸に入植した人たちは未開の地を西へ開拓していくことに注力した。

 この紀行はそういった開拓者のうちの一人が書いたものである。


(お父様元気でやっているかしら)


 オルフェリアはぱらぱらと項をめくった。めくった先に父がいるかのように、想いを馳せた。冒険の旅へと出かけた父からは便りの一つも届かない。はたして何をしているのか。そもそも元気でやっているのか。困ったところのある父だけれど、それでもオルフェリアにとっては世界にたった一人の大切な父であることには変わりない。

 エシィルは今年母になるし、リュオンは寄宿舎で勉強に励んでいる。レインだって、フラデニアの寄宿学校へ行くことになった。家族だっていつまでも同じところにいるわけではない。たまには連絡くらいしてくれば、こちらもいくらか安心するのに。


「おや、お嬢さんはアルメート大陸に興味がおありかな」

 突然隣の書架を漁っていた紳士が話しかけてきた。

 見知らぬ、年を重ねた男性である。

「え、ええと。読み物として面白いですから」

 オルフェリアは当たり障りのない返事をした。書店にいると、たまにこうして声をかけられることがある。年頃の令嬢にしてはいささか変わった種別の本が好きなオルフェリアは時々好奇心に駆られた読書好きと思われる客から興味本位で質問されるのだ。

「ときにお嬢さん。お嬢さんはもしかすると……」

 年上の男性はこのあたりでは当たり前に見かける服装をしていた。帽子にフロックコートといった出で立ちだ。少しくたびれてはいるけれど、茶色の髪も灰色の瞳もありふれた色である。


「お嬢様、ほしいものは見つかりましたか?」

 男がなおも好奇心から言葉を続けたちょうどのタイミングでミネーレが戻ってきた。


 腕の中には目当てのファッションプレートの入った紙袋がある。

「え、ええ。これから買うところ」

 男性はすぐに興味をなくしたように別の書架へと移動してしまった。オルフェリアも腕に抱えた書籍を会計へと持っていった。


「そうですわ、お嬢様。これから香水を買いに行きませんか? 明後日はせっかくフレン様とお出かけですし」

 会計を済ませるとミネーレが提案をしてきた。

「ええっ。いいわよ。……似合わないわ」

 ユーディッテの手紙に触発をされて、少し興味持ってミネーレに話したのがよくなかったかもしれない。それに、フレンのために香水をつけたいなんて一言も言ってない。

「そんなことないですよぉ。それにもうすぐお誕生日デートじゃないですか。お嬢様にぴったりの香りを選ぶわたし! 楽しすぎて今すぐロマド河に向かって叫び出したいです」


 ロマド河はミュシャレンを流れる大きな河である。

 そろそろ突っ込むところだろうか。たまにこの侍女はオルフェリアの理解を超える発言をしてこちらを困惑させることがある。

 結局オルフェリアはミネーレに香水店へと連れていかれて、酔いそうになるほど沢山の種類の香水を嗅がされることになった。


◇◇◇


 その日は冬のミュシャレンにしては珍しく朝から快晴だった。

 オルフェリアの誕生日、一月十八日である。


 実家からミュシャレンへの帰り道、フレンが出かけようと誘ってきて、ほんの冗談だと思っていた。フレンはたくさんの仕事を抱えていて忙しいのに。

 気乗りしないオルフェリアの様子に、察するものがあったのか、フレンは『どこか明るい場所に行こうか』と提案してくれた。一月の寒い季節に明るくなるところなんてあるのだろうか。

 オルフェリアは訝しんだ。


 それなのに、いざ約束の日が近づくとオルフェリアはそわそわした。フレンに少しでも可愛いと思ってもらいたい、なんてドレスを選ぶところから散々迷った。

 そして、フレンに連れてこられたのは郊外にあるガラスの建物群だった。

「ここなら薔薇もすみれもプリムラもたくさん咲いているよ」

「ここは?」

「アルンレイヒの王立植物研究所。今の時期でも温室内にたくさんの花が咲いている」

 ミュシャレン郊外にある王立植物研究所はミュシャレン大学の自然科学科の研究所の施設である。外の庭園にも目的別に広大な面積を有しており、薬草園と思しき場所では白衣を着た人らが立っているのが遠目にも分かった。そんなところ、もちろん一般公開されているわけでもないのにフレンは平然としている。


 温室はガラス張りの建物で、日の光がさんさんと降り注いでいる。オルフェリア生まれて初めての光景に頭を上に向けてため息をついた。

 外とは比べ物にならないくらい温かい。本当に薔薇が咲いている。それも満開に!

「すごいわ……」

 それも沢山の種類の薔薇である。

「ありがとうございます。ここにあるのは約百種類くらいでしょうか。もし他の花が見たければ隣の温室へどうぞ」

 二人を案内した研究員が口を添えた。

 五十代くらいだろうか、研究者と思わしき男性である。彼が鍵を開けて温室を案内してくれた。

「百種類も。すごいわね」

「日々品種改良がなされていますから、これでも蒐集が追いつかないくらいですよ。ああ、この薔薇は昨年の品評会で最優秀賞を取ったネイデン王国のものですよ」

 そう言って彼は薄い紫色をした薔薇を指差した。


 オルフェリアは指差された薔薇へ近づいた。顔を寄せるとふんわりと、薔薇特有の香りが鼻腔をくすぐった。

 研究員たちは一通り温室内の注意事項を述べるとオルフェリアとフレンを自由にさせてくれた。

 オルフェリアはつい好奇心に負けて温室内を歩き回る。


「オルフェリア、私のことを忘れないでほしいんだけど」

 なぜだか腕を捕まえれて、自身のそれに絡まされた。


「……ごめんなさい」

 恋人設定をいまだに遵守できてないオルフェリアは素直に謝った。言い訳をするとフレンの小言が倍返しになるからだ。このあたりは学んだ。

「薔薇にばかり気を取られていると、花相手に焼きもちを焼いてしまうよ」

「ええと……」

 叱られているには妙に意味のつかめない台詞だったから戸惑った。

 フレンは最近優しくなったと思う。オルフェリア自身を気にかけてくれるようになったし、よく笑うようになった。知り合った当初の作り笑いではなくて、ちゃんと楽しいと感じていることがわかる笑顔だ。

 今だって、言葉は意味不明なのにフレンの瞳が穏やかに細められているから、オルフェリアは不意打ちを受けたように体が熱くなって、慌ててそっぽを向いた。


 最近オルフェリアはフレンのこととなると情緒不安定になる。


「オルフェリアは自然が好きなんだね。花とか動物とか」

「ずっと田舎の領地で暮らしていたから馴染みがあるだけだわ。ああでも、こんなにも沢山の薔薇は無かったけど。とってもきれいね。香りも素敵」

「薔薇に囲まれているオルフェリアも可愛いよ」


 フレンが堂々とそんなことを言うからオルフェリアは身の置き場に困った。研究員はとっくにこの場から離れているのだから、そんなくさい台詞言わなくてもいいのに、と心の中で文句を言う。

「そ、それにしても。フレンあなた一体どんな手を使って入れてもらったの? まさかレカルディーナ様に頼んだの?」

 気恥ずかしくなったオルフェリアは話題を変えることにした。

 普段ひけらかしていないけれど、実はフレンは王太子妃レカルディーナとは従兄妹という関係だ。コネという意味ではアルンレイヒで最大級の効力を発揮する。

「まさか。オルフェリアとの誕生日デートに彼女を使ったりはしないよ」

「じゃあまさか……。お金積んだの?」

 オルフェリアの顔が曇る。自分のために余計なお金は使ってほしくない。

「それも違う。まあ、似たようなものかな。彼らにはね、アルメート大陸由来の珍しい植物の種を進呈すると言って交渉したんだ」

 フレンは片目をつむって種明かしをした。


「アルメート大陸の?」

「そう。ロルテーム支店経由でね」

 ロルテーム支店といえばフレンの厄介な大叔父が牛耳っている牙城である。そんなところの品物を融通できるものなのだろうか。

「そういう種明かしはここまで。今日はきみに楽しんでもらいたくて連れてきたんだから、裏話のことは忘れて」


 その後オルフェリアはフレンの左腕に自身のそれを預けたままのんびりと温室内を散策した。一足先に春が訪れたこの小さな世界の中には、沢山の種類の花々が咲き誇っていた。薔薇も感嘆するくらいに立派なものが多かったけれど、チューリップもとても愛らしい。目の覚めるような赤いものや可愛らしいピンク色。根元の部分が黄色くなっているものや、八重咲きのもの。沢山の品種が目を楽しませてくれる。

 花にばかり夢中になって気もそぞろに歩いていると、つまずいた。


「気をつけて」

「ありがとう」

 フレンが咄嗟に空いている方の腕でオルフェリアのことを支えてくれた。


 不意打ちに触れられると心臓がまた跳ね上がった。慣れた仕草で彼はオルフェリアのことを支えて、そのまま歩き出す。淑女らしく彼の腕に手を添えているくらいの距離感のほうがまだ平穏を保てるのに。

 こんな風に背中に手を添えられると心臓がとってもうるさく鳴り響くから困る。彼に寄り添うのは仕事のはずで、だいぶ慣れたつもりだったのに。最近になって、オルフェリアは再び彼から触れられると動悸が激しくなるようになっていた。

 こっそり覗いた彼はオルフェリアがこんなにも困惑しているだなんて思ってもいないように涼しげな顔をしている。


(きっと彼は慣れているのよね……)


 自分よりも十一も年上で、これまで好きな人だっていたし、縁談だって色々と持ち上がっていたような素振りをみせていた。

 彼の過去なんて気にならないはずなのに、最近のオルフェリアは顔も知らないフレンの過去の女性たちに面白くない感情を抱いてしまう。

 背中に回った腕の温かさを手放したくない、戸惑う心とは別にそれを望んでいる自身の心も確かに存在する。そんな風に思ってしまう自分がふしだらなような気がしてしまう。

 それなのに、彼に触れられると胸の奥がどうしようもなく高鳴る。この気持ちの正体にまだ名前は付けたくない……。オルフェリアはぎゅっと目をつむった。



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