一章 そうだトルデイリャス領へ行こう
それは衝撃的な知らせだった。
リュオンの最愛の姉、オルフェリアが彼の知らぬ間に婚約をしたという一報を聞いたのはよりにもよってノーマン・フェルペという寄宿学校の同室の友人からだった。
なぜ家族であるリュオンよりも縁もゆかりもまったくない、ただの他人の友人が姉の婚約を知っているのか。
リュオンはただちに実家に手紙を書いて送った。
返事には『そうなのよ、実はオルフェリアったら最近婚約したの。お母さんも突然のことでびっくりしちゃった』と書いてあった。
なにがびっくりしちゃった、だ。
ついでに姉からは『あの子、この春からミュシャレンで暮らしているんだよ』というメモ書きも同封されていた。
婚約も初耳ならミュシャレンで暮らしていることも、なにも聞いていなかった。
あまり筆まめとは言えないオルフェリアからは便りの一つも届かない。
「リュオン、きみも物好きだね。短い休暇に往復で四日もかかる道のりをはるばる、実家に帰るなんてさ」
同室の友人、ノーマンは呆れたような声を出した。
確かに夏季休暇に比べると冬期休暇は短い。二週間あるかないかくらいだ。
「この休暇で姉上が実家に帰ってくるんだ。だから僕は帰らないといけない。どこぞの馬の骨ともわからないふざけたフラデニア商人から姉上を取り戻す!」
「どこその馬の骨って……。ファレンスト商会はすごいやり手の会社だよ」
ノーマンはファレンスト商会がいかにやり手かを得々と説明した。リュオンはすべてを右から左に流した。
彼の実家はミュシャレン近郊にあるため、週末など割と頻繁に里帰りしている。そして実家で王都の噂話を仕入れてくる。リュオンも何度か遊びに行ったことがある。寄宿学校のわびしい食事だけでは成長期の身体は物足りなさ過ぎて悲鳴をあげるからだ。
「ノーマン、そういうことはどうでもいい。一番重要なのは、そのふざけたフラデニア人がよりにもよって、僕の大事な姉上をたぶらかした、っていうことなんだ」
もう何回も説明した台詞をリュオンはもう一度口にした。
「ふうん。王都の人たちによるとそれは仲睦まじい、恋人同士だよって話だけど」
「そんなことあるか!」
世の中間違っている。
リュオンの知るオルフェリアは、静謐な空気の中で生きる妖精のような少女だった。恋なんて俗世なものまるで興味のなさそうな顔をして、一人で静かに読書に没頭していた。
「まあどうでもいいけど。ああでも、きみのお姉さんって……ちょっときついって噂もあったなあ。誰か貴族の令嬢が泣かされたとか」
「……」
それについてはリュオンはだんまりを決め込んだ。
率直な物言いをするオルフェリアが年頃の貴族令嬢の中でうまくやっていけるか、といえばリュオンも半信半疑だったからだ。
「でも顔はめちゃくちゃきれいだって、先輩方も噂していたよね。いいなあ、来年の夏はきみの実家にお呼ばれしようかな。ああ、でも噂のお姉さんはそのころはお嫁に行っているのか。人妻か……。ちょっと危ない響きだよね」
「人妻とか言うな!」
リュオンは叫んだ。
「はいはい」
ここずっとリュオンの悲痛な雄たけびを聞かされているノーマンはおざなりにあしらった。
リュオンは懐中時計を確認した。
ノーマンの軽口に付き合っている暇はない。そろそろ出ないと列車の時間に間に合わなくなる。
リュオンはあわただしく寄宿学校を後にした。
オルフェリアの婚約話がなければリュオンだって、短い冬期休暇に実家になど帰るつもりもなかった。リュオンの上には四人も姉がいて、とにかくうるさい。
小さいころからなにかとおもちゃにされてきたリュオンにとって、静かなオルフェリアだけが唯一心を休ませることのできる存在だった。
少し感情表現が乏しいところもあるけれど、リュオンのことを罠にかけることもなく、着せ替え人形にするでもなく、いたずらを仕掛けることもなく、じっと隣にいてくれる存在。それがオルフェリアだった。
オルフェリアの隣にいると心が休まった。一緒にあざやかな絵の描かれた本を読んだこともある。
こっそり街にでかけたときもオルフェリアが隣にいた。
街のお菓子屋さんで二人で硬貨を握り締めて、お菓子を買ったのだ。生まれて初めての買い物だった。はしたない真似はするな、と口うるさく言う教育係も家令もいなくて、二人で食べたクッキーの味は今でも覚えている。
(待っていろよ……絶対にしっぽを掴んでやる)
まだたったの十六歳の姉が、こんなにはやく婚約をするなんて、絶対に何かあるに決まっている。弱みか何か握られているか、それとも金に物を言わせたか。
おそらくは後半だろう。
リュオンが成人になるまで。あと数年。数年経てば状況は変わる。
だからオルフェリアが結婚などする必要ないのだ。
(絶対に婚約破棄させてやる! フラデニア人商人め! 首を洗って待っているがいい)
◇◇◇
王家主催の晩餐会の翌日。
オルフェリアはイグレシア公爵邸でお茶の席に呼ばれていた。目の前に座るのは次期当主の妻である侯爵夫人エルメンヒルデである。
「まあ。では無事に晩餐会は乗りきれたのね。よかったですわ」
「ありがとうございます」
オルフェリアの報告に耳を傾けていたエルメンヒルデは安堵の息を吐いた。
その瞳からは何の含みもなく、オルフェリアのことを心配していた色が伝わってきて、オルフェリアの心が温かくなった。
「わたくしも早くお姉さまやオルフェリアの加勢に加わりたいのですが、こればっかりはわたくしが希望するだけでは駄目ですの」
金色の髪の毛をゆったりと背中に流したエルメンヒルデは十代でも通用するような若々しい様相だ。頬に片手を添えてため息をつく彼女は思わず抱きしめたくなるほど可憐だった。最初は「オルフェリア様」呼びだった彼女だか、最近は親しみをこめて名前だけで呼ぶようになっていた。
すこしだけエルメンヒルデとの距離が近くなったようでオルフェリアは嬉しい。
「エルメンヒルデ様からお手紙をいただいて、わたし嬉しかったです。あらためてお礼を申し上げます」
「どういたしまして。でも……、肩の荷が下りたというのに、あまり顔色がよくないですわ。なにかほかに気にかかることがあるのかしら?」
「ええと……」
オルフェリアは香りのよいお茶を一口、口に含んだ。
唇を湿らせて、少し逡巡する。
「なにか心配ごとでもありますの? たしか明日から実家に帰るのでしょう」
「ええ……」
オルフェリアの顔が曇った。
正直に言うと里帰りは憂鬱だ。オルフェリアはミュシャレンへ逃げてきたのだ。
小さな箱庭の世界から。箱庭は小さなころから窮屈な場所だった。沢山の目に見張られている気がするから。
「わたし婚約したことを直接家族の者に報告をしていないんです。一度は顔見せに帰らないといけないのと、寄宿学校に入っている弟からも絶対に帰って来いと念を押されていて」
「そうですの。確かに婚約者を連れて帰るとなれば、緊張しますわね」
エルメンヒルデは鈴を転がすような声で笑った。
どうやら恋人を家族に紹介するために緊張をしていると思っているらしい。
オルフェリアはあいまいに笑っておくにとどめた。
「それにしても、晩餐会が終わってしまうとみなさん領地に戻ったり避寒で南の国に遊びに行かれたり、ミュシャレンもさみしくなりますわ」
「エルメンヒルデ様はどこにも行かれないんですか?」
オルフェリアは不思議に思って訪ねた。
「ええ。わたくしはミュシャレンにいるつもりですの。皆さんがいらっしゃらないとなれば、おねえ……いえ、王太子妃様を独り占めできますもの」
にっこり笑うエルメンヒルデは相変わらずだった。
もともとフラデニアの寄宿学校から仲が良かった姉のような存在である王太子妃レカルディーナのそばにいるためにわざわざアルンレイヒで結婚相手を探したとのことだ。
そういえば、彼女の夫はどこにいるのだろう。
最近仲良くさせてもらっているが、オルフェリアはエルメンヒルデの夫君と対面したことが無かった。
「エルメンヒルデ様がいらっしゃれば王太子妃様もおさみしくはないですね」
「ふふふ」
オルフェリアがそう言えば、エルメンヒルデは嬉しそうに笑った。
「ということはエルメンヒルデ様の旦那様もミュシャレンに残るのですか?」
「あら、わたくしの旦那様は領地のお城にいらっしゃいますわ」
「え……」
エルメンヒルデはなんてことのないように微笑んだ。
「旦那様の趣味は少々変わっておりまして。蝶々をたくさん飼っていますの。領地の城館の庭園のすみっこのほうに専用の飼育温室がありますのよ。ほぼ一年中そちらで蝶々を愛でていますわ」
「蝶々ですか」
「彼は蝶々の研究家でもありますの。論文もいくつか書いているとか、いないとか……。どちらだったかしら?」
エルメンヒルデは首をかしげた。
オルフェリアの家族にも動物好きな人がいる。昆虫ではないけれど似たようなものだ。
「実は、あちらの夫婦の部屋にも標本を飾っていましてね。わたくし逃げてきましたの。ちょっと、やっぱり……苦手ですもの」
と、その時。
応接間の扉が勢いよく開かれた。
オルフェリアはびっくりして扉の方へ顔を向けた。
入って来たのは茶色に黒を垂らしたような髪を持つ幾分線の細い青年だった。瞳の色は青灰色だ。
年のころは二十代中ごろだろうか。フレンと同じ年か、もしくは少しだけ若いかもしれない。青年は息を切らしていて、肩を揺らしている。
しかし休む暇すらおしいように応接間へ無遠慮に侵入してくる。
「あら。珍しいですわね」
エルメンヒルデがおっとりとした口調で小首をかしげた。
「エル……」
青年が眉根を寄せた。決して機嫌が良いとは言えない青年の顔を前にしても、エルメンヒルデは動じていない。笑顔を保ったままだった。
「オルフェリア、紹介しますわ。彼はわたくしの夫ですわ。アルフレイド様です」
のほほんと紹介をされてしまってオルフェリアの方が内心どきどきした。この温度差は一体何だろう。
「エル!」
アルフレイドが再び大きな声を上げた。
エルメンヒルデは笑顔を崩さない。
「久しぶりですわね。いまちょうどアルフレイド様のことをお話していましたのよ。彼女はオルフェリア・レイマ・メンブラート伯爵令嬢ですわ。最近仲良くしていますの」
この流れでまさか紹介されるとは思わなくて、オルフェリアは慌ててソファから立ち上がった。
「はじめまして。オルフェリア・レイマ・メンブラートと申します。父は伯爵です」
「……はじめまして。エルが世話になっているようだね」
アルフレイドはじっとオルフェリアのことを凝視した。怖い顔で睨まれる。
(えっと……)
なにかまずかっただろうか。しかし挨拶しかしていない。
「まずいな……」
アルフレイドはぼそりと呟いた。
エルメンヒルデは相変わらず微笑んだままだ。
「この顔、エルの好みじゃないか。エル、これ以上ミュシャレンでお気に入りを増やさないでくれ。でないとますますきみは領地に寄りつかなくなる!」
アルフレイドはエルメンヒルデに詰め寄った。
オルフェリアは目を白黒させた。今、好みの顔とか聞こえた気がする。
「まあまあ、急にどうしましたの?」
「どうしたの、じゃない。ちっともきみが帰ってこないからさすがに親族から迎えに行けって言われたんだ。僕たちだってそろそろ結婚して二年が経つんだよ。いい加減子供だってつくらないとだろう。というわけで今から帰るよ」
「待ってください! 年明けはおねえ……王太子妃様と一緒に花火を見る予定でしたのに!」
年越しの夜、零時を跨ぐころにミュシャレンでは盛大に花火が打ち上がる。
容赦なく腕を掴んでいますぐにでも連れて行こうとするアルフレイドに、エルメンヒルデが悲しそうな声を上げた。
「駄目だ。この冬は僕と一緒に過ごすんだ。というか子供ができるまで離すつもりはないから」
「そんなぁぁ~」
エルメンヒルデはアルフレイドに腕を取られたまま、容赦なく部屋の外へと連れ出された。
「オルフェリア、ごめんなさいですわ! お手紙を書くから、待っていてね」
そんな叫び声も遠ざかっていく。
突然の闖入者になすすべなくエルメンヒルデを攫われたオルフェリアだった。
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