第四章 風花紲月 PART10
10.
10月11日。
朝焼けを眺めながら、いつも通り『月光』を弾き鳴らす。
――ピアノは一人で完結しているからこそ、静寂をもたらすことができるんだね。
旦那の言葉が耳の奥でふっと蘇る。彼の声は情熱的で優しかった。雪奈がピアノを弾くたびに彼はにこやかに微笑んで拍手と共に賞賛してくれた。
――僕の傍で永遠にピアノを弾いてくれないか? 君と君のピアノが好きなんだ。
永遠を誓った約束は果たされた。その期間はあまりにも短かく儚いものだったけれど確かに存在していた。
彼がいなくなった瞬間、自分の心は堕ちていくばかりだった。花織のことさえ頭に浮かばず、ピアノが自分から消えていくことが怖かった。
……私が本当に愛していたのは、傲慢な自分だけだった――。
彼の後ろ盾を失いながらも、命を削るように演奏に励んだ。仕事外でも無料で演奏を引き受け、ただひたすらに鍵盤を叩き続けた。それでも心の痛みは解消されず逆に痛みは増し、重さを持ち続け、日々自分の体を蝕んでいくだけだった。
気がつけば、彼の鎮魂のために演奏するという名目だけが一人歩きし、自分のより所となっていた。心の痛みは頭痛へと変わり、やがて右腕を道連れにしていった。
体に限界がきていた。ピアノの前に立つことが頭痛の原因だと知った時にはもはやプロとして演奏することは叶わなくなっていた。
辛かった。死んで楽になれるのならそれでもいいと思っていた。彼に大丈夫、と一声掛けて欲しかった。
その時に彼のことを愛しているのだと今更ながらに気づいた。
……幻でもいい。現実でなくてもいいから、彼に会いたい――。
頭痛が酷い時は彼を思い出しながら体を横たえ祈り続けた。もちろん彼の助けはなく頭痛もおさまらず、苦痛に耐えるだけの日々が続いた。
彼の初盆を迎えた時、心の中で何かの枷が外れた気がした。花で囲まれた彼の写真を見て彼が微笑んでいるような気がしたのだ。
大丈夫、と柔らかい瞳で見つめてくれている気さえした。
……そろそろ、前を向こう。
ピアノに立ち向かったがテンポの早い曲は弾けず、明るい曲を選ぶことはできなかった。演奏を終えた後、いいようのない絶望感が全身に押しかかるからだ。
相性のいい曲はベートヴェンの『月光』だけだった。この曲を弾けば、自然と体の緊張は解け、頭痛はおさまっていった。
……次の仕事を探そう。
無料コンサートを引き受けた葬儀社に顔を出した時、自分の中で霧が晴れていくのを感じた。この世界は死が当たり前の世界だ。頭痛は消えていき、何気なく目にした湯灌の制服が自分に合う気がした。
……もちろんこの感情は邪道だと理解しているし、歪んでいることもわかっている。
他人の不幸で自分のバランスを取るなんて普通ではない。だが自分にはそれしか方法がない。それが歪んでいるとわかっていてもその魅力に抗うことはできなかった。
そのままその足で湯灌会社『サンライズ』に赴くと、すんなりと職を得ることができた。人手不足が蔓延しているようで次の日から死体を見ることができた。その時に心の奥底で安心している自分がいた。
……死は特別のものじゃない、当たり前のものだ。
この感覚は回数を重ねる毎に常識となり現実感を伴っていく。自分だけではないという感覚が心を軽くしていく。
……君はどうなんだ? 花織。
彼女に胸の中で問いかける。
……私と同じ気持ちを味わうために彼を殺したのか? それとも彼の意思で死んだのか?
『月光』を弾きながら思いを寄せていると、絶望に塗れた自分の姿が思い返された。
雪奈はそのまま演奏に没頭することにした。
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