第拾話
物騒そうな露地小屋通りを横目に、胡蝶神の街を走る。他にもいくつか見どころを教えてもらいながら眺めを楽しんでいると、やがて車夫は人力車をある一軒の建物の前で停めた。
それほど大きな建物ではなく、見た目は一昔前の商家のような風情のある雰囲気の店だった。戸口には紺色の暖簾がかかっており、六角形の内に「六」と書かれたわかりやすい紋が白く抜かれたそれは、わずかな風にゆらゆらと揺れていた。
「……もしかして、ここが?」
人力車から降り立った春臣が志木を振り仰ぐと、彼はにこりと笑った。
「そうとも。先の戦で潰れてしまった小さな商家を買い取って使っているんだ。……さあ、ついておいで、春臣」
こつん、と杖で地面を叩いた志木は、暖簾をくぐって〈六角座〉に入っていく。春臣もその後を慌てておった。
〈六角座〉の中は、古い木の香りで満ちていた。壁には一面に張り巡らされるようにして張り出しがなされており、新聞の妖退治の求人であったり、政府が直々に出した懸賞首の妖や罪人であったり、さまざまな面の悪い人相書きがこちらを見ていた。上がり縁の所は窓口として改装されており、そこから向こう側が〈六角座〉内に通じているようだった。
そして今は、その窓口の所に一人の男性が座っていた。彼は新聞を繰っていた手を止めると、こちらを見た。
「いらっしゃい―――って、ああ、なんだ。
志木はその言葉に肩をすくめた。
「なんだとは随分な扱いじゃないかい?相楽さん」
相楽と呼ばれた男性は、やや苦笑気味に笑うと新聞を畳んで脇に置いた。
「君の恵さんに対する態度に比べれば天地の差があると思うのですがね……と、そちらは?」
ふと視線を向けられた春臣は反射的に背筋を伸ばして深く頭を下げた。
「は、初めまして……結城春臣といいます!よろしくお願いします!」
静かな空間だったこともあって妙に声が響く。春臣はそれが少し、恥ずかしくなった。
「おや、君が!これはこれは」
しかし、男性は特に気にする様子もなく、それどころかいささか嬉しそうに笑みを浮かべて立ち上がった。笑うと目尻にしわが寄って、よりいっそう親しみやすい雰囲気になる人だった。
「挨拶が窓口越しで恐縮ですが……初めまして。私はこの〈六角座〉に属している絵師の
男性――相楽宗介は、そう言うと手を差し出した。春臣がおそるおそるその手を握ると、彼は軽く握り返してきてくれた。男性の手にしてはとてもきれいな手で、そして所々の皮が厚くなっていた。おそらくは長年同じ位置で筆を握り続けてできたと思われる、立派な絵師の手だった。
お互いの紹介が済んだところで、志木が口を開いた。
「相楽さんは僕の兄弟子で歳もいってるけど、たぶん一番親しみやすい人だと思うよ。〈六角座〉で何かわからないことがあるなら、聞くといい」
すると、相楽は少しばかり眉をひそめて言った。
「歳がいっているというのは、少々心外ですね……四つしか離れていないくせに」
「四つ離れていれば十分だろう?」
「君は本当に口が減りませんねぇ……」
「ふふ、褒め言葉として受け取っておくよ」
くすっと笑った志木だったが、すぐに表情を改めると相楽を見た。
「それはそうと、ここから先は引き継いでしまっていいかな?相楽さん」
相楽はその言葉に微笑を浮かべながらうなずいた。
「ええ、もとよりその段取りですし。そのうち、遠くに出ている人たち以外も帰ってくるでしょうから」
「了解した。夕方までには戻るから、他の子たちにも紹介を頼むよ」
志木はそのあと二、三相楽と言葉を交わした。その姿を見ていると春臣の知る志木とここにいる座長としての志木は違って見えて、春臣は所在なく立っているしかなかった。ほどなくして、簡単な段取りの確認を済ませたらしい志木は春臣に向き直った。
「それじゃあ、春臣。忙しなくて申し訳ないが、僕もここで失礼するよ。後のことは相楽さんに任せてあるし、彼の案内が暇なら自分で座内を見て回るといいよ」
「こらこら、聞き捨てなりませんね?芳正くん」
「ふふ……では、また。黄昏時に会おう」
「あ――――」
くしゃくしゃと春臣の頭を撫でると、志木は
「志木さん!」
「?」
振り返った志木に、春臣は持っていた荷物を握りしめて言った。
「あの、これからよろしくお願いします!僕、頑張ります!」
志木は少しだけ素で驚いたような表情を浮かべた後、心底嬉しそうに笑って――
「ああ、楽しみにしているよ」
それだけ言うと、外に待たせてあった人力車に乗っていってしまった。
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