第36話「可笑しなお菓子」


 学園に戻って2日。


 何故か学院の女生徒達に涙ながら迎えられたのは記憶に新しい。


 髪が短くなっているのに卒倒するのが生徒のみならず講師もとは思っていなかったが、どうやら誰も彼も心配していたようだ。


 良かった良かったと涙ながら戻って来た事を祝われ、ついでに御帰還祝いなるパーティーが開かれてしまうまで後2日。


 何故か盛大にやろうという話が講師陣達の間でも言われるようになり、あれよあれよと知らぬ間に友人が進めていたのだろう企画が炸裂。


 その後は講義が終わる度に北部でのお話を聞かせて下さい攻勢で人山が周囲に出来て内心顔(´Д`)を引き攣らせた。


 お喋りとお菓子と噂と可愛いものが貴族子女の華である。


 というのは何ら間違っていない。


 リージの元に戻ったゾムニスにそれを愚痴るといや当然の反応だろうという返しが戻って来て、メイド2人は自分のやった事の責任取れと相手にされなかった。


「フィティシラ姫殿下。じ、時間ですよ~」


「ああ、済みません。皆さん。今日はユイヌ様とお茶の約束がありまして」


『まぁ!? すみません。そうとも知らずお引止めして……』


『どうぞ。此処は気にせず向かって下さい。さぁさぁ、皆さんもお邪魔はイケマセンよ』


 さすが生徒会長の名前は強い。


 こちらに留学させたアテオラは新しい傍付きの貴族の子女みたいに思われているようだが、学校に来てから凄く肩身の狭そうな顔ではあるものの、こちらと一緒に人山を抜けるとホッとした様子にもなったりして、互いに苦笑してしまった。


 あの旅でそれなりに親しくはなったのは間違いないだろう。


「フィティシラ様って皆さんに慕われているのですね!!」


 何故か、目をキラキラさせて通路で言われた。


「噂に夢中なだけだ」


「それと皆さんの前だと公の場での話し方をされるんですね」


「公の場だからな」


「そうなんですか?」


「ああ、そうなんだ」


 通路を歩いて行くと講師陣が少し固まってから会釈して通り過ぎていく。


 どうやら、噂の内容にもはや笑っていいのか泣いていいのか分からないのだろう。


「フィティシラ姫殿下~~」


「あ、カータ講師」


 遠間からトテテテと走って来るのは眼鏡な少し垢抜けない美人新任教師枠。


 カータ講師その人だった。


「どうかされましたか? カータ講師」


「はぁはぁはぁ、現在までの講義で教えた部分をノートに記しておいたんです。もしよろしければ、どうぞ」


 と、手渡されたのはお手製のノートらしかった。


「どうもありがとうございます。此処までして下さるなんて、頭が下がります」


 軽く頭を下げておく。


「いえいえいえ!? わ、私は講師として当然の事をしたまでの事ですから!?」


「きっと、カータ講師は歴史に名を残す方になると思いますよ」


「~~~!? か、揶揄わないでくださいっ。姫殿下!?」


 赤くなったカータ講師に再びノートのお礼を言ってから、また講義でと会釈していつもの自分の館の方へと向かう。


(学園に通えてもやる事は山積みなんだよな……)


 毎日毎日北部諸国への手紙を竜郵便で送り続けているし、各地の進捗を竜郵便で届けさせている。


 航空を征く郵便というこれ程に現代ならばメール一つで済むだろう代替情報交換手段は今のところ伝書鳩よりは確実性がある唯一の代物だ。


 早馬ですらも北部諸国の海辺まで乗り継がせても1か月単位なのだ。


 これをたった7日にしてみせれば、北部の動きの遅延を見逃す事も無い。


 家に届く大量の手紙をリージではなくノイテとゾムニスに手伝わせて仕分けしつつ、返信するというのが帰って数日な自分のルーチンワークと化している。


「あ、あの、フィティシラ様……」


「どうかしましたか?」


「え、ええと学院だとその……そういう感じなんですね」


 何やら今まで言えなかった事らしい。


 どうやら学院でお嬢様的な話し方でいる事に驚いていたようだ。


「何か問題あるか?」


「い、いえぇ!? ただ、お友達にもそういう感じなのかなって……」


 恐縮した様子でおずおずと訊ねて来る姿はまるで小動物のようにも見える。


「ああ、そういう事か。お友達だからこそ、だ」


「お友達だから?」


 学院の中庭を歩きながら肩を竦める。


「誰の前でも同じ人間が表裏が無いわけじゃない。同時に誰の前でも違う人間に表裏があるわけでもない」


「ど、どういう事でしょう?」


「大まかには本当の表裏は相手にどう自分を伝えたいかの違いじゃなくて、内面をどう隠すかの問題って事だ」


「伝えたいか……隠すか……それは同じじゃないんですか?」


「まったく違うな。前者は相手に対する自分の建前だ。後者は建前以前の問題……どう相手に見せないかだ」


「見せないか……」


「見せないように気を遣うのと主張したい事は別って事だ。解るか?」


「は、はぃ。何となく……」


「人間の見せたくない事って言うのは大抵が必要だから、そうする。逆に主張したい事、建前ってのは必要かどうかよりも殆どは自分がそうしたいからそうする」


「そういう、ものでしょうか?」


「アテオラ。お前地図が素晴らしいってトモダチに広めたいと思う事はあるか?」


「え? え、ええと、ありますけれど……」


「それ、普通だと思うか?」


「それって普通じゃないんでしょうか?」


 どうやら、自覚は無いらしい。


 現在、北部諸国の王達が愛用せざるを得ない地図は彼女が知りうる知識と彼女自身がその地図から考え得る総合的な判断でこちらの情報と照らし合わせ、要望に応えて書く芸術品の類だ。


 地図とか地理の情報が欲しいなんてヤツはこの時代では大抵がヤバイのばかりという事がまだあまり理解出来ていないのかもしれない。


「普通の友達は地図に熱中して何時間も語り合ったりしてくれないぞ?」


「え、えええ!?」


 驚愕の真実にアテオラが固まる。


 まぁ、今まで物凄く語り合った手前。


 言うのは心苦しいのだが、そういうものだ。


「そ、そそ、そう、だったんですか……」


「オレはお前と一緒に地図を語り合うのは楽しいからじゃなくて御仕事だからだ。勿論、自分の意見が取り入れられた地図を見れば、愉しい気分にはなるかもしれないが、地図そのものを愉しんでるわけじゃない」


「うぅ、普通の方は地図を愉しんだりしないんですかそうですか。あぅ……」


 ズーンと地図職人というよりは地図マニア、地形マニア、殆ど一人国土地理院みたいな少女には衝撃な真実らしくガックリと肩が落とされる。


「お前の主張は地図は愉しむモノって事だ。じゃあ、隠したい事は?」


「か、隠したい事? と、特には……」


「じゃあ、お前には主張しかないって事だ」


「そ、そうでしょうか?」


「オレは必ず一貫した事を伝えているつもりだ。どっちの仮面を被っても相手に分かり安さの点で合ってる方を使ってる。勿論、隠したい事はあるが、それは伝えたい事とは殆ど関係ないな。こんなオレは相手に嘘を吐いていると思うか?」


「ぅ……何か答え難い気がします!!」


「まぁ、今までの行動からそう思うのは妥当だと思うけれども……じゃあ、オレが交渉相手に毎回一貫した事を言ってないと思うか?」


「それは……はい。確かにそういう事は無いと思います!!」


「オレが伝えたい事は明確なんだ。裏の顔とか言われてもオレの主張はお嬢様の時も御仕事の時も変わらない」


「な、なるほど。何となく解りました!! 隠したい事はそういう交渉事や伝えたい事に全然含まれてないって事なんですね!?」


「物分かりが良くて助かる。お前の言う表裏があるって言うのは世間的に建前と見せたくないものが関わっている時に感じられるものって事だ」


「主張と見せたくない事が同じものに関連してるって事ですか?」


「まぁ、大体はそういうのだ。大抵の人間は隠す理由が疚しい、裏があるんじゃないかと他人を勘繰る」


「自分もしているから相手もそうだって事でしょうか?」


「ああ……だが、もしも相手に隠したい事が主張と関係無いなら、そいつは嘘を吐いても相手にバレ難いだろう。何故なら主張と嘘に関連が無い以上、そこに表裏があるという状態とは掛け離れてるからだ」


「な、なるほど……」


「本当に隠したい事は主張と無関係なものにする事だ。それが人に嘘を信じ込ませる第一の方法でもある」


「おお、つまり、今までのは嘘を吐き通す方法だったんですね!? べ、勉強になります!! あれ?」


 相手が煙に巻かれている間に館へ辿り着いた。


 嘘に少しの真実を混ぜておくのが嘘のコツという意見もあるが、その程度の事は分析する知恵と情報があれば、大抵バレる。


 一番の嘘を信じ込ませる秘訣はいつでもソレが嘘でなければいいという自身に対する自信だ。


 どんなに巧妙な嘘も人間は信じ込まなければ、不審な行動や所作に全てが出てしまうし、視線や仕草は対面で隠しようが無い。


 演技ではない演技。


 嘘を信じ込んだ完璧な人物になれるのならば、話しは別だが、それ以外では人の嘘を敏感に感じ取る人間がいれば、そんな真偽はすぐ言い当てるだろう。


 それは今までの経験からも言える。


「お帰りなさいませ」


 ノイテがアテオラと共に戻って来るとすぐにこちらに近付いて来た。


『二階に呼ばれていた集落の方がお見えです。それにしてもよくこの学院へあの手の方を入れる事が出来ましたね』


「女なら別に問題無い」


「問題しかないのはいつもの事、ですか……」


 アテオラがデュガに鞄を持って貰い割り当てられた私室へと恐縮しながら戻っていくのも日常と化している。


 現在、必要な地図を作る作業場が屋敷の一角に設けられていて、それを作るのに必要な大量の羊皮紙や製紙、製図用の機材が大部屋にあるのだ。


 そこがアテオラにとっての仕事場、という事になるだろうか。


 一応、食客的な立ち位置の上で留学生なのだから、屋敷に私室も置いたのだが、こちらからのオーダーで地図を作る仕事と学業の二足の草鞋という事で現在はこちらにいる時の方が落ち着いているかもしれない。


 大量の地図に囲まれた部屋の内部の製図室で常に書物と情報の睨めっこをしている彼女を見るとまったく北部諸国の地図なんてものを書いた一族の血筋は争えないものがあると頷ける様子だった。


 陰謀などせずとも、サイコパス的な気質を持つ者は幾らでもいる。


 度が過ぎてさえいなければ、正しく優秀な人材として、こうしてお付き合いしていく事が今後の計画でも肝要だろう。


「では、隣室に控えていますので」


「ああ、そうしてくれ。今回の客のお前の感想は?」


「少し臭いましたが、良い子そうでしたよ」


「ならいい。人物評が大丈夫そうなら問題は左程の事じゃない」


「……何をさせるつもりです? あの手の集団はかなり何処でも慎重に取り扱うものとして位置付けられていますが」


「ちょっと利益集団としては解散させて、企業体として再結成して貰うだけだ」


「きぎょうたい?」


「商会の別名称くらいに覚えておけばいい」


 言い置いて二階の応接室に向かう。


 扉をノックしてから入ると革製の黒布でパンクロッカーよりは肌は出していないだろう一張羅な黒尽くめの少女が1人、緊張した面持ちで待っていた。


 黒い指先……臭うというのは確かなようで実際、僅かに悪臭が少女の手からは出ているようだった。


「お、お招きに預かり!! こ、光栄です!! わ、わたくしは苦芸の集落より参りました。カニカシュ・ジーデと申します」


 黒い縮れた髪に雀斑。


 翡翠色の瞳と革製の手袋は穴開きだった。


 15くらいだろうか。


 これで一杯一杯ですと言わんばかりに目がグルグルしていそうなくらいに緊張した少女に微笑んで置く事にする。


「苦芸の集落の方に無理を言って此処に来られる人材を頼んだのはこちらです。そう硬くならず。初めまして、カニカシュ・ジーデさん」


 手を差し出すと相手が驚きに目を見開いた。


「大丈夫ですよ。此処では外の風評は気にしなくても」


「で、ですが、その、わ、わたくしの手はその……」


「人間の腸の中身はみな一緒です。衛生に気を遣って頂いているこちらが頭を下げねばならない職業なのですから、此処では誇って手を取って下されば」


「―――」


 どうやら固まってしまったようだが、すぐに何やら物凄い決断をしていますと言いたげな顔になった少女が手を恐る恐る震えさせながら握ってくれた。


 握手を済ませてから対面に座る。


「さて、今回そちらから出向いて頂いたのは本格的に帝国議会で議決される前に事前に情報を差し上げる事と同時に皆様に色々として頂きたい事があるからなのです」


「て、帝国議会!?」


 カニカシュが驚いた様子で固まる。


「ああ、済みません。唐突でした。では、まず結論から申し上げます。2か月後に帝国議会は帝国各地での牛馬及びバルバロスの解体と商用精革を牛耳る苦益階級……つまり、苦芸の里と呼ばれ、それに属する全ての集団構成員の所属組織を改編する事となりました」


「え、あ、う、ど、どういう事でしょう?」


「里の解体と再編が決まりました」


「な、何か我々が無礼を働いたという事でしょうか!!?」


 少女が思わず身を乗り出して震えながら叫ぶ。


「いえ、どちらかと言うと栄転の類だと思って頂ければ」


「え、えいてん?」


「はい。牛馬の解体技術と利権集団化した苦芸の里はそれなりにニカワと精革、それを用いる装身具や製品の販売で儲けていらっしゃいますよね?」


「え、は、はぃ……」


「それと同時に臭い汚らわしいと忌み嫌われる差別階級でもある。でも、皆さんが軍部に大いに商品を降ろして頂いているからこそ、帝国陸軍は今も戦えている。それを理解する一部の高級将校の方々との癒着があるのも別に構いません。ただ」


「た、ただ?」


「状況が変わった為、里を解体し、技能者とその家族を新しい商業利益集団に迎え入れ、帝国領土各地で新式の製品を作って頂きたいと思っているのです」


「そ、その、あまり、学業は得意ではなく。もう少し分かり安くお教え頂ければ……その……」


「つまり、今周辺地域や集落や街から嫌われている貴方達と同じ立場の人間を全う


 に高度な商業を行わせるという事です」


「しょ、商業?」


「原材料の加工工場は臭いの届かない圏外に置くでしょうが、現在の工程を全て現代化。資金は掛かりますが、臭いも抑えて穢らわしい場所ではなく。誰もが羨ましいと感じる国家の重要産業にしたいと思っています」


「う、羨ましい!?」


「ええ、一部の方達には街中などに店舗を迎えて商売と新しい商品の研究開発をして頂きたいと申しています。無論、競争に敗れ、努力を怠れば廃業ですが」


「え、あの、ど、どうしてそんな事を……」


「貴方達が差別階級であると同時に利益集団である事を鑑みて、再出発する立場と具体的な商業計画を国の方で立ち上げたという事です」


「………その、それを我々に何故?」


 カニカシュの疑問は最もだ。


 奴隷に類する差別階級。


 特に牛馬の解体や鞣革製造などを行う人々は大昔からいるが、その集落が一般的に多くの国家で仕事柄、あるいは文化的な立場、低い公衆衛生観念から疫病の大本だと忌避されてきた事は大陸でも普通の話だ。


 その相手をわざわざ呼び出して新興国家たる帝国が此処を立ち退いて商売しろと一言命令すれば済むというのは帝国内ならば想像の範疇だ。


 理由は単純明快であり、帝国勃興までの利益集団の多くは帝国が出来たと同時に殆ど改組されるか。


 または単純に各省庁の制御下に置かれているからだ。


 旧い時代の価値観を持つ旧指導層は帝国に靡くか。


 もしくはそれを嫌がって降ろされたので帝国議会の命令に逆らえる組織は今のところ存在しない。


「左程の事でもありません。今後、差別を理由に国家内で建前上の思想で利権化を訴えられるより、普通の商人と職業従事者として働いて貰おうと思っただけです」


 カニカシュがよく分からないという顔になった。


 まぁ、年頃の少女などそういうものだろう。


 この話が解る程に大人なのは学院でも少数派だろうし、講師の人員辺りならば、差別意識バリバリの層も混じっているかもしれない。


「難しい事が分からないのならば、こうお考えを。わたくしが必要と思った事だから、帝国議会に働き掛けた。そして、里の者は差別され難くなり、差別されていた事も後半世紀もすれば、誰もが忘れるか。過去の話になる、と」


「……その、それは本気で……」


 カニカシュがまるで正気を疑っているかのような表情になり、ハッとしてから、すぐに俯いた。


「詳しい話はこちらの封筒に入っています。それを里の上層部の方々にどうぞ見せて下さい。勿論、現在の居住地に留まる事は自由意志を尊重しますが、職人は商業地への数年の出向を繰り返す事になるとだけ」


 相手に封筒を渡すと。


 すぐに驚いた様子になり、そのこちらにとっては何の変哲もない茶封筒をマジマジと少女は見ていた。


 未だ羊皮紙が主流である事を考えれば、製紙の封筒なんてのは商人や貴族が用いるものだからだ。


 それを儲けているとはいえ、大貴族が差別階級に渡すというのは一種のパラドクスなのだろう。


「ああ、それともう一つ。苦芸の里の長にこの世界で最も臭く尊い革を加工してくれる最高の職人を何人か我が研究所に送って欲しいと言い添えて頂ければ」


「……何をなさるおつもり、なのですか?」


 怯えた様子にも見える彼女に微笑んでおく。


 ちょっと、わたくしが狩って来た神の革を加工して欲しいだけです、と。


 それから幾つかの細かい話をした後。


 お茶を一緒にしてから、何やら現実感が何処かに飛んで行ったらしいカニカシュは呆然としたままにフワフワした様子で学院から去って行った。


 その周囲を固めるのは女性騎士達だ。


 ちゃんと、護衛して集落まで送り届けてくれるだろう。


 それから数日後。


 何だか未だに呆然としている少女カニカシュとその父親と祖父が一家揃って研究所にやって来たのは中々に面白い偶然というものだろう。


 だが、最も彼らが驚いたのはきっと帝都に一部が運び込まれていた北部諸国からの空輸品……臭気放つ者の遺骸より切り出した革に違いなかった。


 *


―――5日後。


 本日は学院がお休み。


 という事で研究所の大規模な調理用キッチンで大量の小麦粉と砂糖とバターと牛乳を相手に格闘する事になっていた。


「うぇ~~もう疲れたぁ……」


「言ってないで手を動かせ。ノイテは黙々とやってるぞ?」


「死んだ魚の目になってるぞ!? ノ、ノイテぇ!? 大丈夫か!?」


「折って伸ばして手を冷やす。折って伸ばして手を冷やす。折って―――」


 現在、研究所の北側にあるセントラル・キッチンと名付けた30人くらいなら料理人を受け入れられる場所ではデュガ、ノイテを筆頭にして帝都のディアボロから集めた選りすぐりの調理師がこちらのレシピ通りに手渡された材料で生地を捏ね、研究所で造らせた麺棒で伸ばし、クリームを炊き、大量の砂糖を前にしてガクブルしながら慎重にお菓子を作っていた。


 この帝都でも貴重な砂糖は超高級菓子店……貴族御用達の店でくらいしか扱わない事もザラな代物だ。


 だが、生憎と研究所内に運び込ませた砂糖の量はt単位。


 これだけで小規模な村や街なら一年の年間予算くらいにはなろうという超高額な食材である。


 それをあるだけ市場から買い占めたので本日の調味料相場はヤバイ事になっている事だろう。


「ふぅ。それにしてもゴムベラやら型やらふるいやら濃し器やらホイッパーやらゴムマットやら……何でも作らせてみるもんだな。お菓子作りが科学なら、お菓子用の機材も軍事様々と……」


 ジャムを練ったり、クッキー生地やパイ生地、パン生地を作って休ませたり、この程度でも手に入る材料でお菓子作りをしていると嘗て幼馴染に何かある度に小麦粉と格闘していた事が思い出された。


 それを可能にする現代ならば百円ショップでも売ってるだろう製菓用の器具の多くはこの時代には半分も存在せず。


 それらは研究所の部門ごとの研究開発での成果で何とか代替品を作る事が出来た。


 大陸南部からの輸入品であるゴムを筆頭にしてステンレス製の機材や加工が難しいものは全て職人のお手製だ。


 それを数十人分揃えたのは各種の軍需品の製造技術が流用されている。


 しなりのあるホイッパーから始まって、薄い銅鍋や薄い鋳物の鍋。


 他にも各種の合金や簡易の冷蔵庫。


 どれもこれも現状の冶金工学や化学の知識があればこそ出来る代物だ。


 軍事用の製紙技術もまた紙を多用する関係上、製菓とは切り離せない。


(フッ素樹脂系の知識があんま無かったのが痛いな。テフロン加工はかなり何にでも使えるんだが……一応、造るのは成功してるけど、加工精度は全然……今後の課題だな。テフロン加工した紙とかフライパンとか。料理を愛する人間としては是非欲しいもんだ)


 取り敢えず、ベリー系のクッキー生地なクリームを使ったケーキを一つ。


 更に複数の人間に食べさせる用のシュークリームを40個。


 パイとキッシュを8種類程を作って一息吐く。


 惜しむらくはチョコレートとバニラが手に入らなかった事か。


 それらしい原料や香辛料が流通しておらず。


 帝国の伝手で存在する事は解ったのだが、明らかに無理のある流通距離だった為、頼んではいない。


「では、皆さん。後は指示通りに。ノイテとデュガは終わるまで護衛の任を解きます。終わって竈に入れて完成品が出来たら、此処での仕事は終了と言う事で」


「ふぃーのあくまーひとでなしー!!」


「手伝ってもいいぞと言った過去の自分を恨む事です」


「あぅ~~~菓子に殺されるぅうぅ~~~~!!?」


 背後の悲鳴を置いて調理場を出る。


 していたエプロンも料理人達に預けて、研究所内に菓子を詰め込んだカートを引いて歩き出す。


 そして、研究者達に菓子を配り始めると何故か泣かれた。


『ぼ、ぼぼぼ、僕らにお菓子を!? 姫殿下自ら!!?』


『おお!? おおおお!? これを見よ!? これこそは姫殿下の焼かれた菓子である!!? ああ、一生の宝物にします』


「いえ、賞味期限1日なので食べて下されば」


 どうやら研究者という輩は誰も彼も女性に何かを貰うのが慣れていないらしい。


 この技術進歩著しい帝国でも女性研究者はまだ少数であり、この研究所にも2人程度しか存在していない。


『ふわぁああぁ!!? い、いい香りが!? ああ、これが姫殿下の薫りぃい♪』


『これ食べたらオレ死ぬんじゃないか!? 大丈夫か!? オレは今日幸運を使い果たしてないか!? ああ、薬品の調合が狂いそう!?』


「切実に狂わないようお願いします」


 マジで爆発物扱う部署で手違い起こすなと釘を刺しつつ、菓子を配り回って数十分……本日に限り、研究所の独身研究者連中はダメかもしれない。


 こうして研究所の水辺に新規に立てた皮革の加工研究室へと辿り着く。


 内部に入ると凄まじい臭いが充満していた。


 普通のお嬢様なら吐くだろう。


 が、これでもマシになったのだ。


 研究所職員達に大量の両面活性剤とアルコールと中和剤で悪臭の元を断つ消臭剤を毎日作って貰っていて、これなのだから、本当に頭が下がる話だろう。


 内部では既に鞣し革の製造を行っている三人の男女の姿が見えた。


「ひ、ひひひ、姫殿下!? こ、こんなところにお越しを!?」


 驚いた様子のカニカシュだった。


 慌てて牛皮製らしい黒いエプロンに手袋姿でやってくる。


 研究所内で手に臭いが直接付かないようにと誂えたものだ。


 だが、それとはまるで正反対にこちらに2人の男が背を向けて真剣に大量の水と薬品を横に鞣革を見つめていた。


「どうですか?」


「お、お父さん!? お爺ちゃん!? 姫殿下がいらしたよ!? ちょっと作業止めて!?」


 その言葉に2人が振り向く。


「おお、もう昼時か?」


「何じゃ、もう昼か?」


「2人とも!? 此処の一番偉い人だよ!?」


 それを聞いて2人が驚いた様子になりながらもすぐにエプロン姿のままこちらにやって来て頭を下げる。


「こんにちわ。進捗を聞きに来ました。どうですか? 任せた皮の方は」


「ああ、いや、オレは学が無いんで話し方はどうぞご勘弁を……ええとですね」


 おずおずと職人気質なのだろう男がたどたどしく現状を話し出す。


 空輸させた革は一部だが、基本的には川で大量に水洗いした後、乾かしてすぐに石灰で殺菌してアンモニア臭を発生させないようにした後油紙に包んで石灰と交互に降り重ねて持って来た代物だ。


 塩漬けにして送る手法もあったのだが、重要な戦略研究に必要な代物なので臭いを出来る限りさせないよう工夫して帝都まで持ち込まれた。


「丁寧に処理されてたんで良いには良いんですが、金属が多くてですね」


 どうやらバルバロスの革はやはり普通の処理の仕方ではダメらしい。


 研究所で竜の遺骸で外套を作って貰ったが、あれも一着作るだけで研究者達は四苦八苦していたのだ。


「ここに来て新しい革の処理方法に驚いたもんじゃが、金属を変質させず、バルバロスの生きていた時のような毛皮の能力を使うのは現時点では不可能じゃろう」


「なるほど?」


 白髪の少し剥げた柔和な老人と黒髪に白髪の混ざるゴツイ顔の男。


 カニカシュの父と祖父の言葉はまだまだ研究は始まったばかりという事を理解するには足りた。


「ただ、此処の研究者達が行っておったように含まれている金属を変質させて新しい性質の毛皮として加工するのは何か出来そうではあるとだけ」


「一応、あちら側からは聞いていますが、毛皮そのものの強度を保つのは変質のさせ方……要は苦汁以外の薬品の使い方次第、ですか?」


 コクリと2人が頷く。


 一応、この世界のバルバロスの革を加工する技術は南部ではそれなりにあるようで北部の情報や工程、方法を収集しているので、こちらに資料として置いていたのだが、2人ともどうやら読んではくれたらしい。


「北部のやり方を見て、工夫してるんだが……強度よりも含まれる鉱物の変質、主に水気で錆びた後の状態を何かしらの役立つ機能として使う方がいいと判断していて……」


「だのう。錆びた後のバルバロスの毛皮も色々と使い道があると北部の資料にはあって、それ以外は毛と革を薬品で色々試行錯誤しなければ、何とも……」


「そうですか。お願いします。それと加工方法として一つ試してみて欲しい事がありまして」


「試してみて欲しい事?」


「それは一体……」


「鍛冶師の方と共同でやってみて欲しいのです。毛皮とはいえ金属。金属を焼いて打つのは彼らが担当し、薬品に浸けて鞣し製品としての能力を考える。もしくは有用な能力を引き出すのはお二人。いえ、3人に任せたい」


「か、鍛冶師と共同……私達が……」


 その提案にカニカシュが驚いた様子になる。


「それは面白い!! 確かに金属は鍛冶師の仕事だ」


「我々は革の仕事か。うむ……理に適っとる」


 三人があれやこれやと話し込んでいる横で手を差し出す。


「っ、臭いのでさすがにそれはどうかと思いますが……」


「だのう。此処にいるのも辛いのでは?」


「臭いのは臭いですが、慣れてしまえば、そういうものでしょう。ちゃんと後で手も洗いますし、消臭剤も使います。ご心配なく」


「「………」」


 2人の男達が顔を見合わせると、カニカシュがその両手を取ってこちらの手元まで持って行く。


「御父さん!! お爺ちゃん!! この方は信頼出来ると思うの!! だから……」


 その言葉に男達が驚いた様子で娘を見ていたが、すぐに気を取り直し、僅かに汗ばんだ手で恐る恐る交互に握手してくれた。


「では、今後ともよろしくお願いします。恐らく、多忙になるでしょうから」


「た、多忙、ですか?」


 カニカシュが目を丸くする。


「20m四方の革が届く予定なので。そちらは全て一繋がりで半分溶けていますが、危険性もあり、しっかりと準備をして調べて頂ければ」


「「「!!?」」」


「ああ、それとこの研究所にある薬品と薬品に関する知識や知見に付いての勉強も皆さんにはして頂きます。その為の講師役の研究者もお付けしますので是非とも歴史残る仕事を……それが皆さんにとっても利益になるよう努力致しますので」


 頭を下げてから菓子の箱を置いて、開けっ放しの窓の下にお茶の入った瓶。


 冷蔵庫で冷やした水に塩を入れて更に冷やした紅茶の入った瓶を置いて行く。


「次に会う時があれば、お菓子とお茶の感想をお願いします。では」


 そのまま研究所の除染用ルームに向かう。


 水車の動力でシャワーを浴びられる場所で臭いを消臭剤を浴びつつ落とす作業が待っている。


 臭いものは臭い。


 だが、それを慣れない場所に持って行くのはTPOとしてはよろしくないだろう。


 無理こそしていないが、嫌な顔をせずに何とか話通せた事は自分にとっては痩せ我慢の練習にもなった。


「さ、次だな」


 仕事は山積みだ。


 帝都では未だ会うべき人物達が大量に渋滞中だ。


 やるべき事はまだまだ消化されていないのだった。


―――精革研究室内。


「ありゃぁ、出来た人だな。カニカシュ」


「うん……嫌な顔一つしないで話そうとしてくれた人なんて、あの人以外、あたし知らないよ……」


「はは、ああ、うん。さすが、あの方の孫娘だけある」


「お爺ちゃん?」


「昔、一度だけ集落一の職人だからと視察に来た方に激励して貰った事があるんじゃ……その方も嫌な顔一つせず。これから軍には貴方達が必要不可欠だと握手を求められてな。今生で二度集落外の者とこの悪臭漂う手で握り合う事になるとは……何とも因果で何とも面白い婆さんへの土産話じゃ。はっはっはっ♪」


「お爺ちゃん……」


「今の苦芸の里の収入があるのも全ては大恩ある大公閣下の先見の明があればこそ。差別されながらも、生活が安定し、集落への攻撃が止んだのもな」


「そうだったの?」


「まぁ、オレが子供の頃の話だ。戦争の度に必要になる馬具や手綱。軍用の皮製品の受注はそれまでオレ達から安く革を買い叩いた連中のものでな。それが一括受注で集落に仕事として降ろされてオレ達はまともに食ってけるようになったのさ」


「そうだったんだ……」


「軍は資金を余分に使わず生産者であるオレ達から直接買い入れる事で商品を安く大量に仕入れられ、我々は今までよりも遥かに良い生活が出来るようになった」


「そう、だからこそ、我が身は最後まであの方へ奉公せんと名乗りを上げてみたが、何とも……カニカシュ……お前もまた忘れるでないぞ。あの家の、大公閣下の血筋は我らを導く安寧の太陽なのだと……」


「……うん」


 ひっそり、研究所で研究所の所有者への好感度が上がった頃。


 少女はシャワーを浴びつつ、臭いを落としつつ、次の仕事の準備に取り掛かっていたのだった。


 仕事は待ってくれないとばかりに……。


「―――お、美味し過ぎる。こ、こんなものがこの世に在るの!?」


「甘い。甘い? 甘ぁああああああああああい!!?」


「うお!? 茶が冷えておる!? おおお!? これは新しいぞ!? 井戸より冷え冷えじゃ!!?」


 悪臭に漂う芳香はユラリと夏の空の彼方へと抜けていった。

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