間章「虚空に座せる物延」


 小さな二畳程の押し入れはよく秘密基地として祖父母の家で色々なものを持ち込む場所になっていた。


「あらあら。こんなところにいたの?」


 柔かな物腰。

 柔和な笑顔の老婦が青年を前に微笑む。


「ああ、ばーちゃん。ちょっと昔のものが何か無いかと思って」

「そうねぇ。全部片付けちゃったからねぇ……あるかしら?」

「無い、みたいだな。うん。まぁ、それならそれでいいんだ」

「ふふ、ありがとねぇ。引っ越し手伝って貰っちゃって」


「別にいいさ。この家はオレが毎年責任以て夏場は管理しに来るからさ」


「じゃあ、下で素麺作ってるから、もう少ししたら来なさいね?」

「ああ、分かった。ここちょっと片付けたら行くよ」


 和室の外に老婦が出ていく。

 青年は一人。

 懐かしい祖父宅の一室を見渡して。

 数日後には伽藍とするだろう田舎を風景を窓の外に見る。

 吹き抜けて来る風は山間だけあって冷涼。


 陽射しの中に移る田畑は荒れ果てているが、鬱蒼と茂る山林は青々として未だ景色としては色彩豊かだろう。


「ふぅ」


 今年、大学院に入ったばかり。

 専攻は母親とも父親とも違う臨床心理学。

 カウンセリングの技術は一通り。

 精神病院での実習に数か月。


 博士号は取れているが、だからと言って就職先は無かった。


 結果として現在は都心近くのメンタル・クリニックでバイト中。


 それも一月はお休みだ。


 都心に戻ってもまた雇いたいという話は出ていたので青年は一応自立している、とは言えるだろう。


「熱いな」


 この数年、異常気象と言える程に熱波が続いている。

 暖冬のせいで春には桜の開花が1か月早まったとの話。


 青年の両親は今やどちらも脳が減ってしまいそうな賞を取って時の人。


 国外の研究機関を転々としながら、色々と教えたり、自分達のパトロンを集めたりというのに忙しいらしい。


 ネットさえあれば、研究論文も課題も提出可能だし、研究にも然して支障はない。


 どちらもその内に審査が終わって結果が出る事だろう。

 まぁまぁな論文でまぁまぁな結果。


 卒業後は単純にカウンセラーとして自立して個人経営で小さな相談所でもするか。


 あるいはバイトがてら、メンタル・クリニックの求人を見てウロウロする人物になる事だろう。


 一応、貯金は数年で数百万は溜まった青年である。

 数年は喰うのに困らない。

 そもそも買いたいものなんて殆ど無いのだ。

 車の免許こそ取ったが、引っ越しは全て運送業者任せ。

 移動は自動二輪である。


 同居する事になっている祖父母が住むのは両親が三年前に新築した東京の奥の奥。


 大自然一杯だが、東京にある家だ。

 此処よりもアクセスだけは良く。

 ちゃんとバスも通っている。

 それだけで全てが何もかも違う。


 ちゃんとネット通販が届くなら何も文句など無いのは彼にとって自明だろう。


「縁~」

「はーい」


 もう物も殆ど片付き。

 明日から業者に届けてもらう荷物も玄関先に纏まっている。


 夏に管理しに来る以外は恐らくもう来ないだろう場所を何処か感慨深げに眺めながら、青年は狭い階段を降りて下に向かう。


 すると縁側に即した仏間が解放されており、陽射しの当たらぬ漆塗りの脚の短いテーブルの上にはソーメンが薬味付きで五人前はあった。


「オレ二人分なのか?」

「若いんだから、喰え」

「じーちゃん……」


 眼鏡の下。


 精悍な顔立ちの少し無精髭が残る老人が肩を竦め、団扇で仰いでいた。


 Yシャツとズボン姿。


 後ろからの扇風機の風で靡いており、一仕事終えた後の休憩か。


 汗を拭う手拭が首元に掛けられている。


「はーい。天麩羅も出来ましたよ~」


 老婦の声に2人が振り向けば、通路の先から銀とも金とも付かぬ色合いの髪を短く簪で纏めた少女。


 いや、女性と言うべきか。


 そんな相手がエビやらサツマイモやら掻き揚げやら入った大皿を運んでくる。


「フラム。別にオレが運んでも良かったんだぞ?」

「何? 私に任せられないって言うの?」


 ジト目の絶世の美人が青年に瞳を細める。


「いや、そうは言わないが……」

「いいから、ほら」


 大皿がテーブルの上に置かれる。


 そうして、青年の横に澄ました顔で彼女は正座した。


「ふふ、仲がいいわねぇ。最初に連れて来た時はお話出来るか不安だったけど、フラムちゃんは良い子よ。うん本当に……」


「ぁ、いえ。お婆様。そんな……」


 僅かに照れたか。

 少しだけしおらしい美人に老人が笑う。


「はは、お前。その辺にしとけ。若いもんには若いもん同士で話させてやろう」


「そうね。縁……こんな良い子を泣かせてはダメよ?」


「ぁ、うん……いや、泣かせるどころかオレが時々泣きそうだけどな」


 美人の手が横から青年の脇腹を抓る。

 その瞳は言っている。

 後で覚えてなさい、と。


「さ、食べましょうか」


 昼間の暑さも氷一杯のタンブラーに注がれた麦茶と風鈴の奏でる音色。


 そして、家を吹き抜けていく風があれば、然して問題は無かった。


 昼時を終えて、片付けをし、明日の荷物の確認を終え、少し涼みに出て来たらと言われて青年と美人は二人。


 近くの川縁へと向かう。


 森林に囲まれた砂利道の上は多くがまるで緑のトンネル。


 山間の小道の先。


 小さな谷のような場所の下にある小川は鳥の声と蟲の声が唱和していた。


 桜色のワンピース。


 肩も剥き出しだったが、美人はしっかりUVカット用のローションを塗り込んでおり、麦わら帽子で涼やかに。


 青年は同じものを被ってこそいたが、ワイシャツにジーンズのまま。


「………こんなところまで来させて悪いな」


「今更、そんな事を言われるとは思ってなかったわ。それに……嫌いじゃないもの……お爺様もお婆様も本当に良くしてくれて凄く嬉しかった……」


 川縁で片手を水に遊ばせながら、背を向ける彼女に青年は頬を描く。


「取り敢えず、今年の夏はどうする? 一応、バイトは一月休みだし、一緒に旅行でも行くか? まぁ、恐らく安い宿になるけど」


「いいわよ。時々、映画にでも連れて行って。それからゲームも一緒にやってくれるんでしょう?」


「教えた時は興味無さげだったのにFPSとか戦略SLGとか嵌るとは思わなかったな」


「誰かさんのせいでそうなったんだから、責任取りなさいよ」


 振り向いた少女のような彼女の微笑みにまともに顔を合わせられなくなった青年は僅かに視線を逸らす。


「何? 今更、照れなくてもいいでしょ。こ、子供だって来年には生まれてる予定なんだし……」


 僅かに彼女がそっと腹部に手をやる。


「う……そういうのはもう少しオブラートに包んで欲しいんだが」


「全部、自分のものにしておいて、本当に今更よね」

「はい。ソウデスネ」


「まったく、甲斐性はあってもそういうところだけは治らないのね。まったく、困った父親になりそうね」


「お前は良い母親になると思う」

「な―――セクハラよ?」

「ぇえ……褒めたらそう来るのか」


 互いに苦笑するのも束の間。

 不意に小雨が降って来る。


「そろそろ戻ろうか。山の方は天気が変わり易いからな」


「うん……」


 手を繋いで。

 2人が帰ろうとした時。

 山の上流からまるで何かが崩れるような音。


 そして、少し深い谷状の底を流れる小川から出るには途中の僅かに草が生い茂った坂道を上るしか無く。


 走る2人を追い掛けるようにして大きな濁流が土砂と共に押し寄せ。


 その手が石の躓きで僅かに離れ―――。

 いきなりの鉄砲水のその美人は呑み込まれ―――。


 しかし、不意に青年は自らの拳が土石流にも等しいソレを殴り飛ばした事を知る。


 巨大な衝撃に押し寄せて来たソレがルートを一時的に変え、衝撃に崩れた反対方向の山肌を削るようにして遠ざかっていく。


「縁?」

「………悪い。時間みたいだ」

「え?」


「お前が隠し事してたようにオレも隠し事してたんだが、どうやら戻らないと」


「戻るって、何を言って……」


「分かってるだろ。此処は現実だが、


「ッ」


「薄々気付いてはいたが、確信は無かった。まぁ、数年も平和な日々を謳歌出来たんだ。良しとしとこう」


「ッ―――馬鹿」

「ああ、馬鹿だとも」


「馬鹿野郎ね。ホント……馬鹿……嬉しかった事も楽しかった事も全部本当の事じゃない」


「でも、コレはオレ達の現実じゃなく。こいつらの現実だ。並行世界追体験型の恐らくは時間経過で同化させて、オレ達そのものを消滅させるタイプだな」


「……全部、自分のものにした癖に……」

「責任、取るって言ったろ?」

「ぁ」


 流れが変わるよりも先に青年は彼女を引き寄せて、地を蹴る。


「オレを此処に引きずり込む為にあっちは因果律的に一番近い奴を引き込んだんだろうが、当然のようにオレもお前もちゃんと取り込まれる前に次善策は施してたわけだ。スイッチ入るのが互いの危険の時だったってのが何とも……まぁ、帰ったら記憶は無くなるかもだが、何とかする」


「何とかって……何よ?」


 抱き寄せられたまま。

 彼女は胸元に僅か顔を埋めて。

 昔の自分だったら、きっと出来なかっただろう身の寄せ方で。


「浮気は男の甲斐性とかいう言葉を嫁達に納得させる。世界統一よりは難しい話を真面目にやろうって、それだけの事だ」


「………馬鹿」


「馬鹿だから、開き直るし、悪党的な事をしていいのが、魔王様の特権だからな。それに……」


「?」


「自分の愛せる人間くらい。自分で説得出来なきゃ、新婚生活は多難だろ?」


「ッ、馬鹿……なんだから……触れられて……嬉しかった……一緒にいられて愉しかった……初めてだったこんなの……だから……」


「そんなのいつだって経験させてやる。生きてる限り、オレがお前らの傍にいられる限りだ……だから、行くぞ。昨日も今日も明日も未来も、宇宙が終わるまでだって、オレは、オレの望む食卓の為に戦えると証明してやる!!」


 青年と彼女の上空。

 空に浮かぶ巨大な蜃気楼。


 夢幻にも思える山岳のような何かに向かって彼らは突き進む。


 世界はやはりその境界に接触する瞬間、暗転した。

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