第105話「男がハーレムに負けた日(最後にエロは勝つ)」

 雪に塗れた庭先に煌々と紅の灯かりが行き交う。


 小さな小さなソレを追い掛けても、決して捕まえられる事は無い。


 蟲のように捕まるならばと虫篭と蟲網を出してきたのに。

 確かにそれは何もかもを擦り抜ける。


 どうしてと傍で久方ぶりに日本で正月を迎えた母に訊ねれば、答えは情報の津波になって返ってきた。


 何も分からないと頬を膨らませると。

 父が苦笑気味にやって来て、餅を焼いたから食べろといい。

 縁側から上がって障子戸の奥へと走る。

 明日、海外に立つからともう家の中は空っぽ。


 しかし、台所の冷蔵庫は無くても、寒い通路には生物もカチンコチン。


 温かい炬燵とテレビしかない居間には人数分の皿。


 少し冷めた餅は砂糖と醤油に絡まり、器へ引っ付くようにしてフニャけていた。


『まだ縁には早いだろうに君はまったく……』


『いいじゃない。いつか思い出したら、少しは興味を持ってくれるかもしれないわ』


『で、何て説明したんだい?』

『量子力学上。未来というのは―――』


『ダメダメ。そんなんだから、困った顔をされるんだ……もうちょっと例え話にするとかしないと』


『注文が多いわね……じゃあ、これならいいかな』

『さすが主席。頭の回転だけは速い』

『だけはって何よ。だけはって……』


『はは、気にしない気にしない。未来の博士に興味を持ってもらいたいんだろ?』


『ぅ……いいわ。こほん……実は未来からも今には影響が及んでいるのよ』


『ほうほう?』


『未来で御餅を食べてる貴方が実は庭で遊んでいる貴方に小さな聞こえない声を掛けてるの』


『それでそれで?』


『同じように現在の庭で遊んでいる貴方も未来でお餅を食べてる貴方に同じような声を掛けられるの』


『うんうん』


『お母さんの研究は未来の貴方に今の貴方の声をそっくりそのまま届ける研究なのよ』


『おお、分かり易い。君にしては上出来だ』

『一々、引っ掛かる言い方ね。はぁ……』

『続きは?』


『……未来の貴方に声を届ける時、今の貴方の全てを届けられたら……きっと素敵だとお母さんは思うの。だって』


『だって?』


『それは幸せな時間を永遠に残し続けられるって事だから』


『う~ん。永遠は無い、かな』

『少し注文が多いんじゃないのかしら?』

『君の凄さは君にだって語り尽せないってことで』

『あ、逃げたわね』


『いいじゃないか。君の論文を読ませてもらったけど、詳しい公式やよく分からない専門用語のところを除けば、何がしたいのかは何となく分かる……でも、その凄さが分かる人間なんて極一部だと僕は思うよ。研究者としては、ね』


『そうね……場への直接干渉……情報の永久保存……本来的には量子力学というより物理学分野だもの……私はそっち方面の工作と知識には詳しいから、何となくで出来るけど』


『君の書いた論文の実験装置がそもそも専門的過ぎて僕には付いていけないんだが、アレは結局何をする装置なんだい?』


『量子テレポーテーション関係の実験は日本が一番進んでるし、高キュービット量子コンピューターのプラグマ・モデルが量子プログラミング言語や新型量子ゲート込みでもう造られてるってのは知ってる?』


『前者は知らないが、後者は新聞に載ってたな確か……今より計算が速くなるなら、僕の研究に是非使わせてもらいたいくらいだ』


『まぁ、普通の人はそういう感じよね。でも、それすら必要なくなるかもしれないわ』


『どういう事だい?』


『あらゆる場はね。普遍ではないの。破れがあるというのもそうだけれど、今の科学で分かっている事を延べれば、少なくとも変化させる事が出来る』


『何とか付いていける、かな?』


『ふふ……それでこの研究は場の変化そのものを使って計算が出来ないかって所にあるの』


『何か一気に雲行きが怪しく』


『いいから聞いてよ。どうせ自分の研究じゃないからすぐ忘れちゃうんでしょうけど。基本的には場に消えない情報を刻み付ける事が前提よ。限られた空間を専用の機器で囲んで、波を残し続けるの。どんなに減衰しても復元可能な光量子通信と同じように……違うのはこれがどんな環境下でも可能って事』


『どんな環境下でも?』


『ええ、それこそマグマの中だろうが真空の海だろうが、深海の底だろうが』


『何かSFになってきたような……』


『もう……分かり易く言えばいいのね。つまり、タイムマシンよ』


『タイムマシン?』


『いえ、タイムカプセルって言った方がいいのかしら。けど、ただのタイムカプセルじゃない。情報を残す事が可能なら、場への干渉と情報の差異を使って計算も可能じゃないかと思ったの』


『……そもそも、その場への干渉って奴が僕にはまるで理解出来なかったんだが……』


『貴方も見てたじゃない。アレ』

『アレ?』


『貴方、冬に蛍がいるのかなんて驚いてたけど、アレは場へ干渉した結果なのよ……場が変異する時、書き換えと同時に空間内の波が影響を受けるの』


『……もう出来てたのか?』


『それはそうよ。まだ、学会にも出してないけど。貴方と出会う前くらいの日だったかな。宇宙の多数派な粒子の正体が分かっちゃったのよね。それを捕まえて言う事を聞かせる日々って言うのが本当の私の研究……それが完成すれば、人は……きっと、いつか宇宙の終わりまで行けるようになるわ……時間的にも空間的にも、ね……って、何で私の額に手を当ててるの?』


『いや、熱は無いかと思って……』

『ッッ~~~もう!! もうもうッ!!』


『冗談!? 冗談だよ!? あはははは!! そう怒らないでくれ!?』


『いいわ!! 絶対、貴方の事を未来に残してあげる!! どんな事が書かれてても気にしないで!! 未来で見てる人が…うわ、こんな奴がいたのかよとか言っててもね!!』


『悪かった。悪かった。さ、そろそろ冷えてきたから入ろう。家で一番僕達のせいで割りを食ってる人物が後ろから覗いてるしな』


『……何、ケンカしてるの? 母さん。父さん』


『あ、み、見てたの? あ、あはは、ケンカなんてしてないわよ!! 私達は仲良しよ? ね!! 貴方!!』


『いや、実は悪口を書き残されるかもしれない瀬戸際なんだ。息子よ。一緒に戦おう!!』


『あ、貴方ッ!?』


 世界には人の思いが満ちている。

 それが叙情的な表現ではなく。


 科学として成り立つならば、それこそが人の叡智だと誰かが言うだろう。


 夢の中。

 小さな小さな自分は何も知らずに笑っている。


『忘我の果てより来たりて』

『彼の者は夢よりの使者とならん』


 色褪せぬ世界に声音が響く。


『明日の時へ思い募らせ』

『有無の波を超えて』

『行き着いた楽園で』

『輩の歩みを辿らん』


 奈落の底のような暗がりから震えた人の声。


『深淵に分け入る稀人まろうど

『その身を焦がして劫火を掴み』

『亡国を侍らさん』


 何一つ分からずとも一つだけ分かる。


『世は最中、人は過去、果てを目指せ』

『……どうか良い旅を……いと高き御主に永久の安息を……』


 それはたぶん願う声だった。

 夢の先を信じる声だった。

 声は続ける。

 終わり無く。

 淀み無く。


『それが貴方にとっての義務であり、責任であり、懺悔であり……祝福なのでしょう。救い主よ』


 いつの間にか。

 白いローブ姿の男女が老若男女問わず。

 自分を囲っていた。

 寝台の上で一人。

 泣き声が満ちる寝室からは雪が降る窓が見えた。

 此処にそんなもの降るはずも無いというのに。


『死んではダメです。死んでは……ッ』


『貴方に救われて、ようやくこの安住の地を……なのに、こんなのって……ッ』


『貴方の好きな麺を今沢山病院の方に揃えて貰っているんですよ!! だから、頑張って下さい!! みんなでまた食べましょう?! 貴方がいなかったら、あんなに食べられませんよッ?!!』


『クソッ!! クソッ?!! 委員会のやつらッ!? 絶対に許さないッッ!!!』


『どうして……どうしてですかッ!! 神よッ!? どうしてこの人がこんな姿にならなきゃいけないんですかッッ!!? この人が何をしたって言うんですかッ!? 皆を助けてッッ!! 戦争を止めたのにッ!!? どうして、こんな終わり方なんですかッッ!!!?』


『ッ?! 医者をッッ!!! 何処からだっていい!!? 薬もありったけだ!!? 今は大変だって!? そんなの知ってるよ!? 早くしろッ!! 早くしてくれ!! お願いだからッッ!!! この人は戦争を止めてくれた人なんだぞッ!!?』


『馬鹿野郎ッッ!! あんな場所で何時間もッッ!!? アレを分解して起爆したら、どうなるかなんて分かってただろうッッ!!!』


『ごめんなさいッッ!! ごめんなさいッッ!? 私達がいたからッ!!? 足手纏いだったからッッ!!?』


 世の中にはこういう諺もある。


 とりあえず、笑え。


 いや、諺だったかどうかは分からないが、とにかく泣かれているというのも気が引ける。


 だからだろう。


 ちょっと小粋なジョークで笑いでもと思ったのだ。


『なぁ、知ってるか?』


―――ッッ?!?


『世の中には空飛ぶ麺類を信じてるぶっ飛んだ奴らがいたりするんだぞ?』


 声はしているか。

 掠れているか。

 定かではなく。

 しかし、最後の力はもう無いか。

 声帯が溶けたか、消えたか。

 静かに瞳は閉じていく。

 もう誰の声も聞こえない。

 しかし、誰かが沈黙の先で言った。


―――ああ……それじゃあ、今日からオレ達は……アンタの言うぶっ飛んだ奴になってみるよ。


 誰かが追従する。

 誰かが声を張り上げる。


 懺悔のように……滂沱の涙の先で……その宣言は告げられた。


【今日からオレが、オレ達が―――空飛ぶ麺類教団だッッッ!!!】


 カチリカチリと何処かで時計の音がする。

 そして、見知らぬ男等が目の前にいた。


 白い世界の中心で、歯車の上に揃うのは顔も見えない誰か達。


 ローブを被り、塩を零し歩く誰か。

 オリーブの葉を齧り、剣を手にした誰か。

 本を持ち、椅子に腰掛ける誰か。

 白衣を着て、小さな木に腰掛ける誰か。

 試験管のような培養器の中で、こちらを見る誰か。

 そして、空の白い器を持って、食事を終えたばかりの誰か。


「悪いがオレはそろそろ空挺降下の時間なんでな。行かせてもらう」


 背を向けて歩き出せば。

 背後から声は掛からない。

 しかし、二つだけ。

 たった二つだけ。

 確かなものが目の前にあった。


「これは?」


 目の前にあるのは扉だ。


 片方は―――祖父の残した家の居間から台所へと続く磨り硝子と木の古びれた引き戸。


 片方は―――見慣れたファースト・ブレットのオールイースト邸にある寝室のパンの彫刻が入ったドア。


「はぁぁ……」


 溜息を吐くしかない。

 やれやれと肩を竦める必要すら無い。

 迷わず扉を開ける。


「オレの居場所は此処だ。少なくとも……こんな物好きを好きだと言ってくれる奴なんて、あいつら以外にきっとどんな時代のどんな世界のどんな場所にもいない……不健全なヲタクの夢はまだ発展途上……だから!!」


 躊躇なく。

 光に満ちていく世界の中、告げる。


「とりあえず、あいつらを幸せな皺くちゃババアにして一緒に死んでからじゃなきゃ帰れないさ!!」


 走り抜ければ。

 墜ちていく。

 何処かへと。

 きっと、もう戻れない場所へ。

 それでも確かに日々は耀く。


 この冗談のような場所に辿り着いた時から始まった思い出が過ぎ去っていく。


 そして、ようやく目覚めるのだろう。

 温かなものに包まれて。

 今日もまた飯が上手いと笑い合える人の傍で。

 幸せは此処にある。

 胸は今日も高鳴っている。


 ああ、そうだ。


 いつだって、人間は即物的な快楽に負けまくりなのだ。


 少なくとも、この人に誇れるものなんて何も無かった輩には……少女達の笑顔以上のものなんて、この世に一つとて無いのだから。


――――――。


『……シ殿』


「?」

「エニシ殿!!!」


 バツンッと脳裏でスイッチが切り替わったかのような勢い。

 自分が今どうなっているのか。

 不確かながらも吹き付けて来るハッチの先からの風で分かる。

 辺りは丁度、明け方直前。

 僅かに棚引く雲の隙間はもう紫に染まり掛けていた。


「どうしたのでござるか!!? いきなり、固まって!? まさか、怖くなったのでござるか?」


「あ、いや、悪い。少し立ち眩みが」


「主上は既に後ろに控えておる。あの二人は先に出た。某達も一緒に行くでござるよ!!」


「ああ、頼むッ!!」

「ではではッ!!」


 事前に予定していた通り。


 二人でタンデム式のスカイダイビングのスーツを着て、空に飛び出した。


 一気に機影が遠ざかっていく。


 降下ポイントは中央からやや離れた上下水道整備用の地下通路。


 そこへのアクセスが可能な水道局の大型庁舎。


 首都の水回りを前々から調べていた甲斐はあって、そこそこ道にも詳しくなった。


 それを踏まえるなら、地下へ潜る最適な場所は其処だろうとヒルコとの会議では一致した。


 輸送機の遥か上空に陣取る視線。


 魚群の如き【統合バレル】の飛行船達はまだ輸送機に釘付けだろう。


 着陸可能な大型道路へとゆっくり降下していく方が本命と見て戦力を送るなら、囮としては十分。


 敵がこちらの動きに勘付く前に速攻で合流しなければならないだろう。


 僅か遅延はしたものの。


 降下先のポイントからは然程ズレずにパラシュートが低空で開いた。


 落下の衝撃はこちらで緩和し、百合音を抱える形になるのだが、今は……少なくとも今だけは気が抜けてしまうのも許して欲しいと思った。


「……すごい」


 百合音が目を輝かせている。


 あの百合音がまるで本当の幼女のように都市の夜明けに目を奪われていた。


 これで人の活気があったなら、きっと尚良かった。

 そうする為に。

 また、こんな景色を見る為に。

 生きて帰る。

 コレ程の理由は他に早々無いだろう。


「勝つぞ……誰の為でも無い。オレ達の為に」

「うむ!! それでこそ我が伴侶でござるよ♪」


『ワシはお邪魔かのう』


 耳元のインカムからの声。


 横を見れば、一緒に降下してくるヒルコがこちらよりも大きなパラシュートの下。


 手をヒラヒラさせていた。

 黒猫の方は輸送機の方だ。

 着陸後、未だジリジリと撤退している共和国軍のトップ。


 巨女ベアトリックスへある程度の情報とこちらが練った作戦を伝えに行くという事で合意している。


 どうやら百合音と同じく。


 離れていても体は見聞き出来るし、伝えられるという話。


 その特性を最大限に活用しようというのである。

 此処からは戦場。

 気を引き締めるというよりは覚悟を持って。

 そう拳を僅かに握る。


「着陸まで後二十秒!! 用意は良いでござるか!!」

「ああ!!」


 着陸地点は水道局近くの河川敷のグラウンド。


 芝生の植えられた其処は前日に雨でも降ったのか。


 僅か旭日の光に耀いていた。

 もう後戻りは出来ない。

 そんな言葉、今更過ぎて思う必要も無く。


 この手の中にある温もりの先にあるものを見たいと顔が綻ぶ。


 戦いは目前だが、人生の一大事も目前。

 夢は大きく。


 一姫二太郎×6(たぶん7にはならない……たぶん)。


 この逆上せた夢から醒めるにはきっと死ぬしかないだろう。


 それでいいのだと心から思えた。


 本当に胸の底から………。

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