第32話「聖女様ノーフライド」

 身動きが取れなくなって4時間。

 検問を突破して、首都近郊の森で気を失わせられてから9時間。

 目が覚めたら、何故か空の上にいた。


 一体、何を言っているのか分からないと思うが、実際何を言っているのか分かってしまうので、かなり絶望的な状況である事は確かだ。


 持たせられていた懐中時計はまだ没収されていない。

 それを信用するなら、既に十三時間も経っているのは間違いなかった。

 周辺は小さな鉄製の寂れた牢獄。


 しかし、それよりも問題なのは嵌め殺しの格子窓の外に雲海が見えるところだろうか。


 隣にはサナリがスヤスヤと眠っている。

 まだ飲まされた薬が効いているのだろう。

 夜の十時くらいか。

 周囲には推進機関と思われる重低音が響いている。

 手足は縛られていない。

 牢獄の格子は錆びれていたが指先で触ってみるとヌルリとした。

 どうやら油の類が塗られているらしい。

 これでは格子を外すような力技は不可能だろう。

 無論、筋力が無いゲーマーに最初からそんな気は微塵も無いわけだが。


(………とりあえず、飛行船の類か……水素かヘリウムか……前者は切に遠慮願いたい……)


 格子越しに見える通路には見張りの一人も立っていない。


 それが単なる人材不足ではないと感じるのは確実にこの世界で空飛ぶ何かがオーバーテクノロジーの類だと分かるからだ。


 こんなものの情報をホイホイ渡せる人員がいるわけもない。

 フラムが言うには今も昔も陸軍と海軍こそが軍隊。

 空軍なんて言葉はパラダイムらしく。

 集めた情報の中には無かった。

 そこら辺の常識は第一次大戦の頃と何も変わらないらしい。

 チラリと周囲を見渡してみるも、トイレのようなものは見付からない。

 このままでは何がどうなっているのかが分からない。


 危険を犯しても情報を手に入れるべきだろうと通路の先の扉へと声を掛けてみる事とした。


「すいませーん。漏れそうなんですけどー。すいませーん」


 そうやって一分程、リピートしているとようやく扉が開いて、通路に電灯が点る。


 コツコツと靴音を響かせてやってきたのは月桂樹の葉らしきものがデカデカと緑の糸で刺繍された麻布らしいローブを纏った男だった。


 たぶんは40代くらい。

 その背丈や顔はゴツイものではなく。

 何処かのサラリーマンでもしていそうな至って普通の白髪が混じり始めた風貌。

 ただ一つだけ異なっているのはその顔と眼光だろう。

 少なくとも表情が読み取れない。

 無表情に近い。

 ついでに瞳の光は少なからず熱くも冷たくも無かった。

 機械に覘かれているような錯覚を受ける程に情動が読めない。

 これでは今から撃ち殺されるとしても、咄嗟に避けるのは難しいかもしれない。


「こちらだ」


 牢屋の錠前が小さな鍵で外され、背が向けられる。

 大人しく付いていくと通路もやはりかなり錆び付いていた。

 しかし、底が抜けそうな程ではないし、電灯もしっかり点っているので危うげなく歩ける。

 通路を脳裏でマッピングしながら通り過ぎる扉や周囲の様子を視線だけで伺う。


 壁のアチコチには何やら日本語で調査中とか英語が横文字にされてドントタッチ等々と奇妙なくらいにコレが遺跡関連の代物と示す情報で溢れていた。


 中には遺跡調査隊という署名入りのものまであり、確実に掘り出された遺失物である匂いがプンプンしている。


「此処だ」


 男に指差された扉を開くと確かに便座が見えた。

 扉を閉めて鍵を掛け、一応水が出るかと背凭れに当たるタンクを除き、使える事を確認。

 紙はロールではなく。

 オールイースト邸でも使っていた一枚一枚重ねられた厚手で灰色の代物だった。


 格子窓の外には相変わらず雲海が広がっており、何処を飛行しているのかはまるで分からない。


 我慢している程ではないにしても何があるか分からないからと用を済ませて外に出る。

 すると、何故か。

 男がこちらに鍵を差し出してきた。


「!?」


「そろそろ良いだろう。聖女様のご希望によってお前は救われた。しっかりとこれからは聖女様の為に励む事だ。それが我らオリーブ教の礎となる。隣に寝ていたお嬢さんも起こして差し上げなさい」


「あ………はぃ」


 そっと鍵を受け取ると男がこれで仕事は終わったとばかりに通路の先へと歩いていく。


「あの!!」

「何だい?」


 振り返った男に尋ねる。


「パ……聖女様はどちらに?」


「ああ、今は油浴中だ。会いたいならば、左の通路を右に道なりで突き当たりを左。その先に浴場があるから」


「あ、ありがとうございました」

「しっかり励むんだぞ」


 男の背中が通路の先へと消えていく。


(これは……いや、罠だったら相手の意図が……それともアレか? オリーブ教徒とやらが善良過ぎるのか? この飛行船に乗ってるにしては機密について何も言われなかった。此処が共和国だったら、何か変な事をしたら即銃殺だろ絶対。状況と人員が噛み合わない? 考えるのは後だな。まずは……)


 言われた通りに道を引き返し、今後の脱出計画を練る為にも一度会っておかねばとパシフィカがいるらしい浴場へと向かう。


 この際、オリーブ教とやらに入信する建前で情報を仕入れるのもいいだろう。


 あの信徒がサクッと情報を漏らしたのはたぶんパシフィカの権威で連れてきた相手が逆らうような行為をしないと思っているからだ。


 ならば、それに従って会いに行くのは早い方がいい。

 途中で止められても待たされるくらいはどうという事も無い。


 まず相手の心象の改善から取り組むべきなのは逃げ場の無い空の上では唯一出来る行為だった。


 錆び付いた通路は電灯で明るい。

 先程よりも詳しく貼り付けられた紙を見る事が出来た。

 中には接触するなとか。

 調査中以外にも開放禁止やら絶対触るな大変危険などの文字もあった。

 その殆どが常識的に見れば、問題ない機器ばかり。

 掘り出してからの調査はあまり進んでいないのが見て取れる。


(それにしても飛行船をこの規模で? 数十m近い構造物を吊り上げてるとしたら、一体どれくらいの大きさなんだ?)


 全容は要として知れないが、三十秒も歩くと目的地に着いた。

 古式ゆかしい温泉マークの暖簾が掛かったドアが一つ。

 ノックするも、中からの反応は無かった。

 更に二度ドアを叩いたが声も音も戻って来ない。

 開くか確認しようとノブを回して内部を覗くと。

 其処は6畳程の部屋で、電灯が付いており、少し深そうなバスタブが備え付けられていた。

 内部に入ってみるが人はいないようだ。

 洗面台と人を包めそうなくらいに広く薄い黄色いスポンジのようなものが一つ。

 天井から吊り下げられている。


 衣服らしきものを探すとローブが洗面台横に張り出した金属製の棒へ丁寧に折り畳まれて掛けられていた。


「どうやらいない、か。はぁ」


 緊張が解ける。

 銃弾が飛んでこなかったからだ。

 オリーブ教徒がどれだけ善良だろうが、兵隊に類する人間が乗っていないわけもない。

 即座に射殺されないとも限らない。

 バスタブの方に向かって中を覗き込むと。

 其処は薄い桜色の花びらで埋まっていた。

 生ではない乾燥されたもののようだ。

 少し指を水面に差し込んで、すぐソレが水ではないと気付く。


「これ、油か? いや、さっき言ってたな。ユヨクとか何とか。オリーブ教徒……油に入るのか。何処のクリーニング店なんだか」


 ツッコミは真っ当だろう。

 少なからず油で汚れを落とすのはクリーニング店くらいなもの。

 人の身体の汚れを油で落とすなんて聞いた事が無い。


 現実でもそういう人はいるかもしれないが、少なくとも聞いた事は無いのだから絶対少数派だろう。


 油の匂いを嗅いでみるとほのかに爽やかで、それでいて少し濃厚な甘い匂いが交じり合っている。


(此処はハズレか。とりあえず、次の場所へ―――)


 踵を返そうとした時だった。

 突如として水面。

 否、油面が波打ち。

 ザヴァアアアアアアアアアアッと周囲に油が飛び散った。


「ふぁああ~~~♡ サッパリしたの~~♪ ん?」

「―――」


 油の上に乾燥した花弁。

 その上、油の明度が足りなかったせいで内部に誰かがいるとは思ってもみなかった。

 目の前にいるのは間違いなく。

 全裸で油に塗れた少女。


 パシフィカ・ド・オリーブだった。


 その姿態はヌラヌラと油に照り輝いており、所々に花弁が湿って張り付いている。

 実際、電灯の光を反射して眩しい裸体は極めて健康そうだ。


 スラリとした体型ではあるが、やはり幼さが体付きに出ており、薄い鎖骨や華奢な肩、細い腕や脚は壊れてしまいそうな儚さを漂わせていた。


 フラムは体質的に、百合音は年齢的に、貧乳というか。

 無い属性なのだが、それはパシフィカも同じらしく。

 愛らしい素顔と僅かにまろみを帯びた胸部のコントラストは犯罪チックですらあるだろう。


「あ、A24だわ」


 思わず顔が引き攣る。

 視線を外そうにも次の瞬間に叫ばれたら、やってくる兵隊に殺される可能性もある。

 故に取るべき選択は……そっと、人差し指を唇に当てた。


「しー?」

「悪いが静かな声で話してくれるか?」

「わ、分かったの!!」


 相手が子供っぽくて良かったと心底、神様とやらに感謝する。

 どうやらパシフィカにとって羞恥というのは少し縁遠い感情らしい。


「って?! ダメなの!? A24!!? 大丈夫なの!? 死んじゃうわ!!?」


 何やら大変な事に気付いた様子で少女が……こちらの肩を掴んで揺すった。


「な、何が?!」

「この油は沢山の油を足して創ってるのよ!? なのに、浴びたりしたら!?」

「あ、ああ、そういうことか」

「……A24苦しくないの?」

「まぁ、普通に話せるぞ」

「ん~~? もしかして下層民は粗暴で野卑で蛮族だから鈍感なの?」


 小首を傾げて愛らしい仕草でサラッと無自覚にディスられたが、とにかく今は落ち着かせるのが先決だと小さな声で体質を控えめに自己申告する。


「油とかは耐性あるからな」

「そうなの?」

「ああ」


 とりあえず、拉致られた時のまま着込んでいた外套を被せる。


「パシフィカ以外でこのお風呂に入れる人なんて初めて見たわ!! A24は下層民で粗暴な癖にスゴイのね!?」


 何やら興奮した様子になるパシフィカがズイッと身を乗り出してくる。

 だが、そんな事をしたらどうなるか分かるだろう。

 浴槽内部は油なのだ。

 ツルッと滑った様子のまだ発展途上な身体は前のめりでこちらに倒れてきた。


「ちょ!?」

「あう!?」


 ベチャァアッと油によって着ていた服が濡れる音。

 人肌に暖められた油が少女の上からの圧力で染み込んで来る。


「ぅ~~痛いわ。でも、ありがとうなのよ。あ、お顔が汚れちゃってる」


 身体を起こしたパシフィカが顔に付いた油を手で拭った。

 無論、油塗れである以上、更に汚れるのは必然だろう。


「あ……」


 前髪がヌルヌルの手で分けられ、こちらを少し赤み掛かった瞳が見つめる。


「綺麗な色……A24、本当にあなた下層民なの?」

「何でだ? それと退いてくれると嬉しい」


 素直に上から退いたパシフィカが外套の合間から見える身体を隠す様子もなく。

 こちらをジッと見つめてくる。


「知らないの? だって、その瞳の色は【御主様みぬしさま】と同じよ? みんな、そういう色に生まれてきたいって思ってるんだもの。もし下層民でも一杯養子のお話があるはずでしょ?」


 久しぶりに瞳の事へ触れられた気がした。


 いつも目付きが悪いからと隠しているので家族以外ではまったく知られていないのだが、父親が言うには先天的な遺伝らしく……右目だけが蒼いのだ。


 何でも祖父の父親に外国人がいたとか何とか。

 血筋も殆ど日本人なのにと思わなくも無いが、隔世遺伝らしく。

 前髪を伸ばす前はよく幼稚園で珍しがられていた。


「みぬしさま、とやらが誰かは知らないが、生まれ付きだ」


「……それに案外お顔は格好良いのね。あ、もしかしてちゃんと奥様がいたりするの? 下層民でも、その瞳でお顔もいいなら、GENPUKU済みで結婚してないわけないわ」


「そういうのは現在いないとだけコメントさせてもらう」


 『おかしいの……』と何やら不審そうな瞳を向けられながら、とりあえず視線を逸らしつつ、これからの事を相談しようとした時だった。


 急激な傾きに体が油で滑った。


 扉はゴムの類で密封され、油は排水溝に流れているので外には漏れなかったが、ズルリと室内で滑り落ちた拍子に頭部を衝撃が襲った。


【A24?! あう!? だ、ダメなのよ!? そんなところ触っちゃ、ひゃうん?!!】

【聖女様ぁあああああ!!!! 大丈夫でございますか!!!!?】

【扉は開けちゃダメなのよ!!? まだ、此処には油が一杯だから!!】


【現在、シーレス殿が船体の均衡を保っていますが、どうやらこのまま不時着する運びとなりそうだとの事!! 室内の油を全て流し終えた後にこちらで保護致しますのでお早めに!! 後、何かにお掴まり下さい!! 不時着時の衝撃に関してはまだ何とも言えないと報告が!!】


【わ、分かったわ!! 二人分の服を用意して頂戴!!】

【はッ!! はっ?! お二人分でございますか!?】


【今ね!! 此処に、ひゃうん!? A24ったら、くすぐったいからそこ触っちゃダメなのよ!? あうぅ!?】


【そ、そこに誰かいらっしゃるのですか!!?】


【今ね。A24が……あら? A24が寝ちゃってるわ!? い、一緒に掴まらないと危ないのよ!? 起きてA24!!】


【ななな、そこにいるのは誰か!? 聖女様に一体何を!?!】


 混濁した意識の中。


 最後に覚えているのは………やけに柔らかい感触に包まれながら、空中を落下するような浮遊感に襲われたという事だけだった。

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