第33話 二系統に分かれているものの、賢く温和で子供との相性も良いイングリッシュ・セター。しつけの飲み込みも早く、飼い主に従順な気質ですが、十分に運動させてストレスを発散させることが必要です。

〔明日のサークルの後、話したいことがあるんだけど時間取れるかな? 〕


 金曜日の夜に届いた池崎さんからのLINE。


〔大丈夫です〕

 とだけ返すと、

〔サークルには仕事の後に車で行くから僕はお酒が飲めないけど、食事ができるところを探しておくね〕

 と返信がきた。





 話題はきっとあのひとのこと。


 ほんとうは聞きたくない。

 聞いてしまうのが怖い。


 でも、逃げずに自分の気持ちと向き合うって決めたんだ。





“了解です” と送って携帯をテーブルに置くと、横にあった完成間近の白いセーターを取り上げて、無心に針を動かした。


 🐶


 翌日、市民センターまでは歩いて向かい、サークルの後に家路につくおばさま達を見送ってから池崎さんの車に乗り込んだ。

 車が向かった先は、駅近くのコインパーキング。

 池崎さんに案内されたのはそこから歩いてすぐ、雑居ビルの二階にある小さな創作和食のダイニングだった。


 会社から直接サークルに来た池崎さんは、今日はグレーのスーツ姿だった。

 スーツの時に二人で会うのは初めてで、こんな時にもこの嬉しい緊張感を宝箱にとっておこうとしている自分に苦笑する。


「僕は運転あるから飲めないけど、ココちゃんは何か好きなの飲んで」

「いえ! 私ひとりだけ酔っぱらうのも恥ずかしいので、ウーロン茶でいいです」

 そんなやりとりの後、二人でメニューを覗いて適当なものを注文する。

 ここまでだけなら、まるでいつも通りのデートみたい。


 なのに、その後はどちらからも話題を切り出せなまま沈黙が続く。

 そんな中、店員さんが二つのウーロン茶を運んできた。


「亜依奈と話をしたよ」


 ウーロン茶を一口含んだ後で、とうとう池崎さんが単刀直入に切り出した。


「そうですか……」


 緊張で乾いてきた口に、私もウーロン茶を少しだけ流し込む。


「僕と付き合う前の話なんだけど……。彼女、不倫してたんだ」


「えっ?」


「相手は彼女がフライトで知り合った若手の実業家だった。

 奥さんとうまくいっていないから離婚する、ってずっと言われていたらしいけど、結局相手が離婚をしないままずるずると付き合い続けて、最後は亜依奈が愛想を尽かして別れを切り出したんだよね」


 突然明かされた亜依奈さんの過去の恋。


 池崎さんと付き合う前ということは、今の私よりほんの少し下くらいの歳の頃だ。

 亜依奈さんくらい綺麗な人なら、妻帯者に執着しなくても楽な恋が選べたはずなのに。


 いくら綺麗でも、恋の選択肢がそこらじゅうに転がっていても、選んでしまった恋に苦しむのはみんな同じなんだ……。


「その直後に、僕が大学を卒業して、家業を手伝うために実家に戻ってきた。

 僕は中学生の頃からずっと亜依奈に憧れていたから、傷ついた亜依奈が僕に寄りかかってくれたのがすごく嬉しかったんだ」


 池崎さんは、ウーロン茶の渋みが残ったかのように、微かに口元を歪ませる。

 私が手にしていたままのグラスを少し傾けると、濃い琥珀色の液体の中で、カランと氷が音を立てた。


「三年間付き合った。僕は亜依奈を大切にしていた。彼女も僕のことを好きになってくれたんだって思っていた。

 順調にいっていると思い込んでいた僕は結婚も考えていた。

 ……でも、彼女は違ったんだ」


「違った……?」


「うん。彼女は不倫相手のことを忘れてはいなかったんだ。

 付き合ってまる三年の記念日にプロポーズしたら、別れを切り出された。

 僕の気持ちにきちんと応えられていないのに、僕の愛情が重くて辛いって。

 ……ココちゃんと同じような理由で僕は振られたんだ」





 ああ、そういえば──


 いつぞやの公園で、トラウマに傷ついた私を池崎さんが優しく励ましてくれた。

 同じ言葉に傷ついた者同士だったから放っておけなかった。

 亜依奈さんへの思いを初めて聞いた雨の夜、そんなことも言っていたな──





「それでも僕は彼女のことを諦められなかったんだ。彼女の愛情が僕に向いていなくても、彼女の傍にいようって思っていた」


 池崎さんの口から告げられる言葉で、彼の心のフィヨルドの峻険さがはっきりと見えてくる。


 その強く険しい決意があったから、私の思いはなかなか彼に届かなかったんだ。



「でもね、自分の気持ちにちゃんと向き合った方がいいってことを、ココちゃんが教えてくれたんだ。

 僕は自分の気持ちと改めて向き合ってみて、彼女のために自分ができることをしようと思った」





 池崎さんも、きっと澱をためていたんだ。

 ためていた澱に気づかないふりをしていたんだ。


 きっとそれは、亜依奈さんも。





 ロメインレタスのサラダや里芋の煮っころがしなどの料理が運ばれ、話が一時中断する。

 いくつかのお皿が並べられると、箸を取った池崎さんが「食べながら話をしよう」と穏やかに微笑んだ。


「それでね。一昨日の夜、彼女を連れて元不倫相手の会社まで行ってきたんだ。

 僕が同行すれば社員にも怪しまれないだろうと思って、躊躇ためらう亜依奈を半ば強引に連れて行った。

 会社から出てきた彼は、亜依奈の姿を見て驚いたけれど、僕から話があると言って近くのカフェバーに誘ったんだ」


 箸で料理を取りながら、どこまでも穏やかに話を続ける池崎さん。

 話を聞いたまま固まっている私の目の前の小皿も手に取って、サラダや煮物を取り分けてくれる。


 彼がこんなに穏やかに話をしているのは、その澱が流れたということなんだろうか。


「相手の出方次第では、僕はその場に亜依奈を残して去り、後は二人で話をさせるつもりだった。

 でも結局その男は四年経った今でも結婚生活は続けていて、亜依奈と付き合っている間や別れた後に子供が生まれたりしていたんだ。

 亜依奈に申し訳ないことをした、その当時は本気で離婚を考えていた、って言い訳をしていたけれど、それを聞いて亜依奈も吹っ切れたみたいだった」


 そこまで言った池崎さんがくすりと笑いを漏らす。


「痛快だったよ。亜依奈はグラスに入った水をその男にバシャッと引っ掛けて、ずんずんと店を出て行ったんだ。慌てて僕も追いかけたよ。

 てっきり涙を流していると思ったけれど、追いついてみたら随分とすっきりとした顔をしていてね。“あんな男に未練をもっていた自分が馬鹿みたいだ” って」


 一度言葉を区切る。


「“これでようやくきちんと馨に向き合える” って言われたよ」




 痛い──





 柔らかな池崎さんの笑顔に、胸の痛みが増幅される。


 失恋の瞬間は、やっぱり辛い。

 でも、不思議と後悔はない。


 私も池崎さんも、自分の気持ちにきちんと向き合った。

 これはその結果なのだから──





「でも、ココちゃん。僕はね――」





 何かを言いかけた池崎さんの言葉を「失礼しまーす」と料理を運んできた店員さんの声が遮った。

 魚介たっぷりの和風パエリアやソースが芸術的なカーブを描く鴨肉のローストが並べられる。





 だめだよ、瑚湖。

 ちゃんと気持ちを切り替えなくちゃ!


 元々池崎さんをけしかけたのは私なんだから、暗い顔なんかしてちゃだめだ。





 お店の人が下がったタイミングで、私は精一杯の微笑みを顔に貼りつけた。




「よかったです! 池崎さんの気持ちが亜依奈さんに届いて」




「え……っ?」




「さ! お料理そろったし、美味しく食べましょう!」


「あ……。うん」




 池崎さんと過ごすこの時間は、私にとってはきっと最後の宝物。

 だったらせめてキラキラとした楽しい時間にして、そっと宝箱に大切にしまいたい。




「そういえば、池崎さんは聞きました? 征嗣くんのこと」

「征嗣くんのこと?」


 取り分けられた料理と辛い気持ちとを一生懸命喉の奥に押し込みながら、私は高めの声を出す。


「はい。来月から半年ほどオーストラリアに行くらしいですよ。

 来年からは二年間、会社の出向っていう形で修行に行く予定だって言ってました。

 ライフセービングでそれだけ期待されてるってすごいですよね!」


 征嗣くんがそれを私に伝えた後に起こった出来事はできるだけ思い出さないようにして、明るく話題を提供したつもりだった。


 なのに、池崎さんはアーモンドアイを一瞬丸くした後に、長めの睫毛を伏せた。


「征嗣くんに誘われたんだね。一緒にオーストラリアに行こうって」


「えっ!? どうしてそれ……」


 思わずこぼれた言葉に慌てて口を覆ったけれど、もう遅かった。


「夢にね、出てきたんだ。ココちゃんがセージ君に誘われてるっていう話」


「そんなことまで……?」


 それを夢に見てるってことは、もしかしてその先の未来もすでに見えているのかな──


「池崎さんの夢の中では……私はどうなったんでしょうか?」


「……」


 池崎さんの表情が曇る。

 伝えにくいことを口に出そうと、揺れる瞳が言葉を選んでいる。


「それからココちゃんがどうしたかはわかっていない。

 僕の前からいなくなってしまったから」


「──そう……ですか」





 やっぱり痛いよ。


 やっぱり私は池崎さんの隣にはいられないってことなんだ。






「夢はあくまでも夢だから、現実はココちゃんが自分の気持ちに向き合って決めればいいと思ってる。

 でもね、これだけは言いたいんだ。

 夢の中でも現実でも、僕はココちゃんの幸せをずっと願ってる」


 穏やかで柔らかい声がまっすぐ心に届く。

 顔を上げてその優しい瞳を見たら、きっと私は泣いてしまう。


「ありがとう、ございます……」


 俯く私の向かい側で、ロメインレタスのぎざぎざの葉を箸でつまんだままだった池崎さんの手がようやく動き出した。



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