第17話 インギーなど長い垂れ耳をもつ犬種では、ご飯や散歩のときに耳が汚れやすくなるのが困りもの。そんな時はスヌードと呼ばれる頬かむりを装着することで、耳の汚れを防止できます。

「きゃああぁっ!! キャシーちゃん! キャシーちゃんっ!!」


 インギーイングリッシュコッカースパニエルの飼い主の女性が甲高い叫び声をあげて、身を縮こまらせて震える愛犬の元に跪く。


「やだ……! ちょっと、なんで……」

 一緒にいたワイマラナーの飼い主の女性がおろおろと狼狽したけれど、それはほんの一瞬で、いきなり非難の色を含んだ眼差しを池崎さんに向け始めた。


「ちょっと、お宅のワンちゃんかしら、これ……」


「いえ、うちの犬は僕がずっと見ていましたが、襲い掛かったりなどはしていません」

「だったら、うちのマキシがいつも仲良しのワンちゃんを噛んだっていうんですか!?」


 きっぱりと否定した池崎さんに、ますます非難の色を濃くした声色でワイマラナーの飼い主さんが迫る。

 ワイマラナーのマキシもアリョーナも、唸ることも興奮することもなく立ち尽くしたままで、どちらにも異常は見られない。

 突然の犬の叫び声と騒然とした雰囲気に、ぱらぱらと座っていたカフェコーナーのお客さんもこちらの様子を伺っている。

「どうしました?」と店員さんもやってきた。


「うちの子が突然噛まれて……」

 インギーの飼い主さんが愛犬キャシーを抱えたまま声を震わせた。

 幸い流血はそれほどひどくないものの、肩に滲み出た鮮血は先ほどよりも少し面積を広げている。


「どちらのワンちゃんが噛んでしまったのかわかりますか?」

 店員さんの問いに、池崎さんもマキシの飼い主も無言になる。


 張り詰めた空気が息苦しくて、焦りの感情が胸の中でもがき始める。

 なんとかしなきゃ……!!

 池崎さんとアリョーナを助けたい……っ!!


「ボルゾイの子は噛んでいないと思います……!」


 勇気を出して言葉を発した私。

 すると、店員さんが尋ねてきた。

「では、お客様はこちらのワイマラナーのワンちゃんが噛んだところを見たということですね?」

「あ……それは……」


 事故の起こった瞬間、私は顔を舐めてきたチョコ太郎に気を削がれて、事故そのものを目撃はしていなかったのだ。


「うちの子はよくキャシーちゃんと遊びますけど、噛んだりしたことは今まで一度もありません」

 マキシの飼い主さんがきっぱりと言う。


「でもっ! このボルゾイの子だって、私はトリマーでいつもシャンプーしてますけどとても大人しいんです! 突然他の子を噛むなんてこと有り得ません!」

「うちの子が噛んだ瞬間を見たわけじゃないんでしょう!? 」

「そう、ですけど……。でも……っ」


 カフェで休んでいた十数人の視線がこの場所に集中している。

 このままじゃ、アリョーナに無実の罪が着せられてしまう……!


「でも、あなただって、アリョーナが噛んだところを見たわけではないんですよね?」


 私が放ったこの一言は、マキシの飼い主を逆上させてしまった。


「な……っ!

 あなた! 証言や証拠もないのに、マキシに罪を着せようっていうの!?

 自分の店のお客だからって、そっちの犬の肩を持つのは卑怯よ!

 だったら私もお客になるから、どこの店か教えなさいよ!」


「そんな……」


 こんなトラブルに巻き込まれた状況で店の名前なんか出せるわけがない。

 私が絶句したときだった。


「ココちゃん、もういいんだ。ありがとう」


 池崎さんが険悪な空気の流れを、穏やかな声で静かに遮った。


「僕は自分の犬を見ていましたが、この子が飛びかかったり噛みついたりはしていないと思います。

 ……ただ、事故の瞬間を見ていたわけではありませんし、この状況を作ってしまった責任の一端は僕にもあると思います」


 そう言うと、池崎さんはお財布から名刺を取り出し、跪いてキャシーの飼い主さんにそれを手渡した。


「病院での治療費は僕に負担させてください。こちらにご連絡いただければ誠意をもって対応させていただきます。

 このたびはワンちゃんにも飼い主さんにも辛い思いをさせて申し訳ありませんでした」


 飼い犬キャシーの状況と険悪なやり取りにオロオロするばかりだった飼い主さんは、戸惑いつつも無言で名刺を受け取った。


「僕も譲歩しましたので、今回の件はこれで納得していただけないでしょうか」


 池崎さんは立ち上がり、ワイマラナーマキシの飼い主に向かって、穏やかに、けれども毅然とした口調で言った。

 彼女は無言のまま微かに頷く。

 マキシのリードを持つ手が震えていた。


 そして、「すぐに病院に連れてった方がいいわよ」と友人とその愛犬を促すと、こちらへ視線を向けることなく足早に立ち去った。


 静まり返っていたカフェの緊張が揺れながら解きほぐされる。


「結局あの白い犬が噛んだってことなのかしらね」

「ボルゾイってオオカミ狩りをしていた犬なんですってよ……」

「やっぱりちゃんとしつけていないと、ああいう犬は……」


 ひそひそとささやき合う声。


「お客様同士のトラブルは当施設の方では一切関知いたしませんので、今後はこのようなことのないよう十分ご注意願います」


 店員さんが無機質に放つ言葉に「すみませんでした」と頭を下げる池崎さん。


 その状況に私が耐えきれなくなった。


「どうして!? 池崎さんもアリョーナが噛んでないってわかっているんでしょう!?

 あれじゃ、まるで認めて……」

「誰かが大人にならなきゃいけなかったんだよ」


 頭に血が上った私の声に、池崎さんが諭すように穏やかな声をかぶせてきた。


「僕はアリョーナしか見ていなかった。あの二人の飼い主は話に夢中で自分達の犬を見ていなかった。誰も噛まれた瞬間を目撃していなかったんだよ。

 あの二人は友人らしいから、今後の付き合いを気まずくしたくなくて、ワイマラナーが噛んだってお互い認めるわけにはいかなかったんだろう。

 ああいう場面では、他人の僕が監督不行き届きを認めるのが一番丸く収まるんだよ」


 一度言葉を区切ると、池崎さんはいつものようにほんの少し口角を上げた。


「それに、あれ以上ココちゃんの立場を悪くするわけにもいかなかったからね」


 熱くなった私の頭を、池崎さんの一言が急激に冷やした。


 池崎さんが自分の非を認めて謝罪したのは、私を守るためでもあった。


 でも──


 私の胸に沸き上がってくるのは、嬉しさよりも悲しみだった。


「私の立場が悪くなっても構わなかった……。

 これじゃアリョーナが可哀想です。

 こんなに大人しくて良い子なのに、他の犬を襲う子だなんて思われたら……」

「確かに、当分このドッグランは利用できないだろうから、アリョーナには申し訳ないと思ってるよ。ただ、夏でも朝晩の散歩は公園でできるし、遠出すれば他のドッグランにも行ける。アリョーナは走ることさえできればどこでも楽しいはずだから」

 アリョーナに語りかけるように、彼女の頭をゆっくりと撫でた池崎さんがリードを持ち直す。


「せっかく誘ってもらったのに、ココちゃんにも嫌な思いをさせてすまなかったね。

 他のお客さんもアリョーナがドッグランにいては不安だろうし、悪いけど僕達はお先に失礼するよ。

 君達はゆっくり楽しんで。

 征嗣くんには僕からも後で事情を説明して謝るけれど、水谷さんにはココちゃんから申し訳ないって伝えてくれるかな」

「池崎さんが帰るなら私も帰ります!」

「そんなことをしたら、ドッグランにいる二人も帰るって言い出すだろう? せっかく楽しんでる犬達が可哀想だよ。

 僕とアリョーナは大丈夫だから、また公園やサロンで会おう」


 池崎さんはいつもの穏やかなアルカイックスマイルのまま片手を上げて、アリョーナと共に施設を出て行った。


 他の犬に突然襲いかかった恐ろしい大型犬がいなくなった、という安堵がカフェの中で静かに広がっていく。


 私はその真ん中に立ち尽くしたまま、池崎さんやアリョーナを助けられなかった自分をひたすらに責め続けた。

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