第53話 姫巫女の帰還

 クナの北にはミノのクニがある。河に隔てられて、三つの野原があるから、ミノのクニ。私は輿に乗せられて、ミノのクニの田を遠くに見やりながら運ばれる。ここは田を作るのにかなり向いていそうだが、このクニは山が近すぎる。その山は大きく、高すぎる。だから河の流れが速くなる。こういう河は大水の時は暴れる。他のクニを見れば見る程、我がクニが恵まれたところにあるとの思いが深まる。

 そういう我がクニで、正しく時を占えば、かならずやコメを多く獲ることができる。私は《女たち》から継いだことがらをもとに、晴になるか雨になるか、はたまた曇りか雪か……そんなことがらを伝えることを周りから求められている。ま、私じゃなくたっていいんだけれどね。

 ミノのクニからアワミのクニに入る。ここはあわの海、すなわち湖がある。兄が言うには、ここと同じように、東には同じくアワミのクニがあって、そこにも大きな湖があるのだそうだ。同じ名前のクニがあるなんて!

 ここのアワミのクニは水が多いのは良いが、じめじめ、じめじめ、じめじめしている。輿に乗っているにもかかわらず、持つ者どもが足をぬかるみにとらわれるのが伝わってくる。大いなる湖のそばに、やつこのように小さな湖を幾つも従えている。これでは田はなかなか作れない。それに、水に棲む魚や貝を獲った方が手っ取り早い。大きく田を作れなければクニは大きくならない。

 舟に乗ってヤマシロに至る。ここは古くからヤマトのクニのなか。だが、戦を起こした者はこの辺りに故郷があるとテルセは言っていた。いくつか、焼け落ちた村を見た。雨が降っていて、多くは望めなかった。まるで悪いことを隠すかのようだ。


 こうして私は、我がクニに還ってきた。私の斎の宮は、半ば焼け落ちていた。真新しい、小さな社に落ち着く。見覚えのある端女が着物を持ってきた。着替える。その後しばらく誰も来なかったので、幾年も過ごした斎の宮に歩みを進める。

 宮の中は饐えた臭いがした。《書》は、チョウセイと読んだ時のように乱れて床に落ちて広がっていた。ただし、今は……。竹を結ぶ紐がほどけて、あるものは破れている。またあるものは焦げて読めなくなっている。水に当たったのかふやけて読めないものもある。そしてどう見ても、もとの嵩から足りていない。思わず《書》の切れ端を手ですくい取るようにして持ち取る。昔読んだ、『老子道徳経』と『孟子』とがほつれて一つになってしまっている。文字を見ているのに、なにも頭に浮かんでこない。佇んでいて、確かにここは長い間暮らした宮なのだけれど、宮が壊れてしまって、なにか極めて大きな隔たりがあると覚える。

 ほつれた《書》を落として、まつりごとをしていた神棚に近付く。ここは大きく壊されているほか、品々が持ちだされている。とても一人では直せない。ナシメのことを思い出す。ナシメはいつも努めて、私にわかるように、色々なまつりごとを指し示してくれた。壊れてしまった今だからこそ、ここにはそれが染みついて、確かにかつてあったように思えた。だがそれは失われた。それが悲しくて、明日からやっていけるのか苦しくなって、裾で顔を覆って、なにもしないでいた。涙は出なかった。


 外で声がするので、宮から出て新たな社に戻る。私が帰ってきたということで、人々が集っていたようだ。色々な人から声をかけられる。文身をよく見て、誰が誰だかおおよそ考えながら話をする。名前を言ってくれる人の時は、助かる。皆疲れた声色だ。私もそうだろうけれど。

 アキマがいた。アキマはいつもの通り笑うけれど、その顔色は真っ白で、角髪みずらや髭は乱れたままだった。私はアキマは生きてるのがわかって驚きつも心を安らげた。

 アキマの右腕がないことに心づいた。アキマは言う。

一族みうちを守っていたら仇に手を切られてしまいました。命が助かったのはまことに幸いでございました」

 アキマがオオヤケの言葉で話すのは初めて聴いた。相手を慮る言葉を探しているうちに、アキマの妻のキナが目に入った。

 私にはあんなかおはできないと思った。夫の身体を深く慮り、これからのことを思い心を痛めているのだろう。私は宮でまじないしかしてこなかったから……夫や息子や娘を得て育んでこなかったから。あれは出来ない。

 もういい、と思ってなげうったはずのことがらが、色々と湧き出してきた。巫女としての私に求められていることも良くわかるし、それを全うするべきこともまた、よくわかる。それでも……。

 心が激しくどこかとどこかとを行き来していて、現の言葉としてアキマにかけるものは、いつまでも出てこなかった。

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