第47話 記号のやりとり

 ほどなくして、長の家の前にある浜辺の借屋で、果たして宴が始まった。柱が左右に立ち、壁はなく、藁で葺かれた屋根のみがある。位の高い者が座るべきところには、それとわかる机が置いてある。床は粗い藁敷きの床で、下は砂浜のために柔らかく心地よい。海の魚や貝が、やはり大きな器に盛られている。私は大婆とその子と思しき男の側に座る。テルセににやり、と微笑んでから食べ始める。お酒が大きな容れ物に入っている。飲むための器もまた大きい。村の者どもは大騒ぎ。私たちが来たことをきっかけにただ騒ぎたいのだろう。獲れたての魚や貝は我がクニでは珍しい。生臭いけれども美味しい。しっかりと「美味しい」とか「この魚は何と言う名前か」とか、色々心配りをしながら食べる。私たちの前にはとても食べ切れない品々がある。のちに他の者へ配るよう心掛ければ、さらに親しくすることができるだろう。

 テルセは強張った顔色で口数も少なかったので、上手く皆の話に乗れるよう促す。村の者どもは、次々と私たちのことについて尋ねてくる。どこから来たのか、どこへ行くのか。遠くのクニでは何をしているのか。

 やがて、唄が始まる。聴いたことのない唄。

 昔、クニの大婆に、市に集まる他所の《女たち》の唄を集めさせたことがあった。だが、いずれの女も、この村の唄いのようなものは聴いてこなかった。海辺での男と女とのやり取りの短い唄が、大きな声で語られる。そのあとも、海と関わりのある物語が続く。

 思うにこの村は小さく、他の村との繋がりも少ないのだろう。

 『老子道徳経』に《小国寡民》という話がある。目指すべきクニというのは、クニの広さも人の数も小さくするのが良いのだそうだ。そこにいる人々は《十伯の器》だとか《舟輿》だとか、良い品物があっても使わず、今の暮らしで満ち足りている。

 この村は『老子』で述べられた《小国寡民》とはあり様が異なる。確かにクニも小さく人も少ない。だが、器は大きく、また数多い。舟は巧みに操られ、海の品々をもたらす。《書》と異なっているけれども、よくまとまって良い村だ。宴に出す食べ物も酒も足りている。この数を保つかぎり、飢えて死ぬことはない。我がクニに集ってきて飢え死にした者どもとは異なる。

 村の有り様から考えるに、《小国寡民》の要になるのは、他所と交わりの少ないところと、人が少ないところと、それと恐らく、獲物が程良く獲れること。生きる助けになるよい品物は、人の思いのまま、どんどん使われていくだろう。それは良い品だから。そんなことは止められぬ。そして、やがてはこの村も、他の村と交わることになれば変わっていく。《小国寡民》なんて世が進めば無くなってしまう。

 もし我がクニに還ることができたならば、このあたりチョウセイに問うてみたい。そんなことを考えると、賑やかな中にも拘わらずにわかに寂しくなる。チョウセイは生きているのだろうか。

 周りの者から語りかけられて我に帰る。何か唄え、と言うことらしい。

 まず、一度で覚えた先程の海辺の男と女とのやりとりの唄を語ってよいか、長の家の男に尋ねる。「構わないが知っているのか?」と言われて、「今覚えた」と応える。

 犇めく者どもは村の唄いが語られて、驚き惑うとともに、唄が仕舞いに近付くにつれて歓びの声を挙げ始める。

 次に、村の唄とは全く異なる唄を選ぶ。昔、我がクニとシマのクニとの《大婆》たちと唄を確かめ合ったことがあった。似ているが少し異なる唄は、どちらが正しいのか諍いになる。だからここでは、我がクニにしかなかった唄を選ぶ。あらすじを男に告げて、「そうした物語を聴いたことがあるか?」と尋ねる。男は「知らない」という。この村がシマのクニのなかにあるのであれば、我がクニにあって、シマのクニにない、村の者どもが全く知らない唄を語るのが良いのだ。

 そうして選んだ唄を、大いに物語る。語りながらたまたま目を瞑る。目の裏に、鮮やかに故郷と、その思い出とが湧き上がってくる。山に囲まれた穏やかな平かな陸。人が多く働いて、コメを作っていて、溝や道を掘っている。母や族に育まれて、日々占いまじなう。ミワ山やカグ山があって。アキマやチョウセイがいて。ナシメだっていて。少しく長い時を目をつむったまま語っていた。

 語り終えると村人は大きな喜びの声を上げる。酒を注がれて、半ば羽交い締めにされながらあながちに飲まされる。男は、それがここでの貴い旅人をもてなすやり方なのだ、と言う。次の唄は、村人の中の喉に覚えのあるものが継いでいった。

 酔いつぶれたものからそこかしこで寝たり、家に帰って行ったりした。大婆の息子が眠そうにし始めたので、ずっと静かに楽しんでいた《大婆》と、その男とに話しかけて、退く旨を告げる。酔った者どもは、私たちの退きに半ば心づいてももうどうでもよくなっていて、酒やまどろみなど各々の楽しみに勤しんでいた。


 宴のあと、真っ暗な臥所ふしどでテルセと横たわる。家で寝るのは久しい。斎の宮ほどでないけれども心地よい。

「テルセ、まだ起きてる?」

「はーい」テルセはいつもと異なる可愛い声を出す。

「少しだけ話し聴いて。今日の昼の出会いの時の言葉なんだけど、私が語ったものについて、ここの《大婆》は祖から聴いたことがあると言っていた。それで言葉を返してくれたのだけれど、私、返されたまじないの言葉を全く知らなかった。しかも言葉が古いのか……何を言っているかわからない所さえあった」

「どういうことでしょうか」

「恐らく、我がクニとこの村は交わりを持ったことはない。だけどお互いに、初めて会う者に掛ける言葉は持っていた。だから、見かけの上では差しさわりが全くなく、出会いの仕草を全うすることができた」

「そんなことが、あるのですね」

「相手も、我が言葉が初めて会う時の言葉だとわかっただけで、中身の細かいところまでは知らなかったのだと思う。祖から聴いたことがある、とだけ言っていたのだから。……それに心付いて、ちょっとさっき怖くなった。もし何かが少し違えていたら……。楽しく過ごせなかったのかも」

「でも楽しくできましたよね」

「うん。そうだ。そう。ありがとテルセ。もし、クニに還れたら改めてまじないや物語を《女たち》から聴かなくてはいけないかもね」

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