第44話 彷徨

 彼の山の兎は美味しい。これは私が疲れていたから。

 陽はまだ高くある。だが、山あいのここではすぐに暗くなるだろう。テルセはこれを正しく読んでいた。

 一息ついたところで、テルセが静かに語りかけてきた。

「あの……」

「なーに?」

「明るいうちはなるべく遠くへ行くのがよい、とお思いになるかもしれませんが……逃げるのならば、幾日も逃れなくてはなりません。そのためには、力を蓄えて、長い間逃げられるように心がけなくてはなりません」

「飯を食べたり夜露や雨をしのぐために野屋を構える時をたっぷりと取るのが、長い間逃げるために要るのですね」

「はい! ですがこれは賭けなのです。あだに追い付かれるかもしれませんが、長く逃げるためには……このようにしなくてはなりません。あの、追手をあざむけるように歩いてきたつもりです」

「うん。わかってるよ。あの、もし追いつかれたって、怨んだりしませんから。ここまで努めてくれたのですからね」

 山あいの風が強まる。いつの間にか空には雲が満ちていた。

 山の菜とともに煮た兎の肉を食べる。食べられる肝も、あまりおいしくないけれど食べる。人心地がするとともに、疲れがどっと出てくる。

 丸い巨きな石に、水の滴の跡が現れた。音もなく雨が降り始める。やがて雨が葉に当たる音が聴こえてくる。

 私たちは野屋に退く。テルセは、逃げて来た後が少しはこれで消えるのではないかと言っていた。私は川の水かさが増えることを恐れたが、テルセは河原の草木の生え方から大水でも水が届かない所に野屋を構えたという。

 野屋の薄暗い間は、二人の身体の温かさが基いになり、過ごしやすい。テルセはこれを考えて、大きさを測って野屋を作ったのだろう。

 テルセは、先ほど捕えた蛇の皮を、刀と自らの歯とでバリバリ裂いている。生で食べるつもりなのだろう。「食べますか?」と問われた。お腹が満ちていることを告げ退ける。テルセこそここまで疲れがあるだろうから、たくさん食べて力を蓄えてほしいと述べる。

「トヨ様、お父様のこと、お悔やみ申し上げます」

「私、父とは数えるほどしかあったことがないの。だからあまり悲しい心が、どうしても湧いてこなくて。子供のころ、母の一族ともがらやナシメにはぐくまれたから」

「そうなんですか、親が揃っているから羨ましいと思っていました」

「テルセは若い頃にもう親はなかったのね」

「父が亡くなった後、すぐに斎の宮いつきのみや端女はしためとして入れられてました」

「そっか。ナシメが死んでから……何もかもが変わってしまって……父が亡くなるのも何にも思わなくて。ぼーっとしちゃって。テルセも聴いていたカラクニの《書》には、親を敬うべきことが数多あまた書かれていましたね。私は、《書》を学ぶのに、深いところでは向いてないのかも、ね」

「そうでしょうか。そんなことないと、思います」

「それに、世が乱れれば、《書》を学ぶことなんてすぐにできなくなってしまうし。それに《書》を学んだって何にもできなかったし」

「私は、靴を履いて戦うことしか習ってきませんでした。けれど、靴が壊れてもここまで何とか来れました」

「ありがと。はーそれにしても、他の者は生きてるのかね?」

 互いに言葉をいくつか交わして、やがて時をおかず、うつらうつらと眠りに落ちてしまった。


 目覚めると、夜の入り口。鼠色の空。夜闇はすぐそこにある。テルセが起きているかどうか、何となく解るようになっていた。

「寝てしまいましたね」

「もう暗いですね。あああああ、もっと明るいうちに備えたかったのに」

「はは、もう叶いませんね」

 向こうの森の木の根の辺りは、まだかろうじて見える。小降りになった雨音と、河の水音が聴こえる。テルセは雨漏りしている所を仕立て直して、すぐに野屋に戻ってきた。

「一人でこんなところにいたら、心がふれてしまうかも」

「トヨ様でもですか?」

「斎の宮より厳しい」

 再び眠りに落ちる。お腹が満たされていて、すぐに寝られるのだ。

 真夜中に、テルセが大声を出して起きあがった。

「ど、どうしたのです。落ち着いて」

「初めて人を殺しました」

 テルセを抱きしめて、そのまま時を過ごした。

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