第37話 暇乞い

 ナシメの咳がひどくなってきた。私は幾度も身体をいとうよう申し述べた。だが、そう言った所で効き目は少ない。ナシメはヒミコおばさまの世からいて、よくものごとを治めるから、皆から頼られるのだろう。だがもう老いて久しい。

 斎の宮からは何もうかがうことができない。ただナシメがやってくるのを待つだけだ。私にできることは、ナシメの障りを少なくすること。それと、長い間お話しできるようにすること。

 去年の事を思い起こす。さらにそれより前の事も。このころならば、どのようなまじないをするべきなのか。

 ナシメがやってくる足音がする。

「ナシメ、身体はいかが」

「それなりです」咳をしながら言う。

「ええと、近ごろに来るべきまじないと言えば、冬の星祭だと思うのですが、いかがでしょうか」

「おっしゃる通りです。今日はそれをいつ行なえばよろしいか占っていただきに参りました」

「はい。心得ておりましたよ。ここからは……梯子を登った先の話をしますね。まず、このままの日の出日の入りでしたら、十七日後にもっとも昼が短く、夜の長い日が訪れます。星祭はその日でよろしいでしょう。それで、そのような兆しが出た鹿骨をあらかじめあぶっておきました。はい、どうぞ」

「ありがとうございます」

「ナシメ、身体いたわってください。せめてこの宮では心を安らげてもらえればと思って……」

「ありがとうございます。余った時で、色々と語りましょうか」

「ええ! もっとまつりごとや、クニのことについて知りたいです」

 ナシメは今のヒコの代替わりについて語ってくれた。ヒコのような大いなる人が身罷ると、クニはやはり乱れることが多いのだと言う。ヒミコおばさまが死んだ後、そうだったように。「これは心の中に留めておいてほしい」と頼まれて、ヒコが亡くなった後にどのような者どもがどのような動きをするであろうか、語ってくれた。「留めておいてほしい」と言われても、私そのものがまわりから隠されているのだから、誰かに洩らしようもないのだが。

 ナシメの話や、老いて咳をする姿から、いよいよ代がわりが近づいているように思えてくる。今の大きな我がクニを築いた人々が、いよいよ去ろうとしている。

「ナシメ、ナシメは忙しいと思いますが、まつりごとの色々から退いて、家でゆっくりしたいと思わないの?」

「ずっと昔からそうしたいと思っていたのですがね。誰もそれを許してくれません」ナシメは笑いながらそう言って、次いで咳をする。


 日々ナシメの咳の有り様を気遣う。占いは省けることは省く。年のうち、いつ何を占うか、思い出してあらかじめ備える。


 冬に差し掛かろうとするある日、ナシメがやってきた。空は灰色で、風のあり様からは、雪が降りそうな、そんな日。今年はコメが獲れたから、ナシメは心を安らげたのか、ここいらは咳をしなくなった。私も、これに心安く思う。

 占いやまじないはさっさと済ませて、ナシメとまつりごとについての話をする。何をいつどのように下々に指し示すのか。どうすれば、指示した事柄に下々の者が快く従うのか。上の者としてどう振る舞うのか。チョウセイから学んだ《書》と似ているところもあるし、我がクニならではの考え方もある。そういうのを学ぶのは楽しいことを、ナシメに笑いながら申し述べた。ナシメも笑っていた、と思う。

 いつものやり取りが当たり前になってしまっていた。また私は鈍ってしまっていた。


 次の日とその次の日、そのまた次の日もナシメはやってこなかった。その日の夜、私は灯しに来たテルセに、久しぶりに語りかけることにした。

 テルセとは、刀を突き立てられそうになってからも話をすることは……まったくなかったわけではない。だが近ごろはすっかり話すことがなくなっていた。刀のせいではない、と表向きは思っている。互いに大人の女になったから、だと思う。そもそも、テルセから話しかけるのは許されていないし、テルセは自ら話しかけてくるたちではない。

 やはり私が彼の女に隔たりを持っているのかもしれない。で、その源には刀を突き立てられたことがあって、知らぬ間に心の深い所で退けているのかも知れない。

「テルセ」

「……はい!」

 テルセがはっきりと応えたので、そんな女だったか、と、少し驚く。

「あの、ナシメが来ないのですが……」

「ナシメ様、お身体がかなり悪いようです」

 まるで備えていたかのように手際よくテルセは応える。

「そうなんですか、わかりました」

 そうと応えるしかないことに、応えながら心づく。私は宮に篭められて、何も知りえないし、何もできない。自らに思い耽ってしまわぬうちに、テルセがまだ私の事を見つめていることに心づく。

 ため息をついてから「すっかり老いたのに、忙しく休む暇もないのはさぞつらいことと思います。もし会えたらよろしくお伝えください。火をつけて、下がってよろしいですよ」と語る。

 テルセは流れるような美しい仕草で頭を下げて「まことにそのように思います。トヨ様のこと、お伝えします」と応えて去っていった。


 さらに二日の後の朝、端女はしための務めの最も長い、年老いた女が現れた。冬の、風のある晴れた日のことだ。遠くで鷺が鳴く朝。この女が一人で斎の宮まで来ることは今までなく、私はうろたえる。女も声が張り詰めている。

「トヨ様、……お話し申上げてもよろしいでしょうか」

「は、はい。なんでしょうか」

「ナシメ様が暇乞いとまごいに参られます」

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