第30話『水平石獅子神楽 4』
着地した瞬間に、疾駆けだしていた。
足首から胸板までを使い軽減した重みは、そのまま推進力となって骨の背を捉えている。瞬きすら忘れたかのように、彼の目は窓辺で敵の姿を映したまま、いまもなお死臭漂うその姿を捉え続けている。
逃がしてなるものか。
追う側となったいま、行動の先手を取るのは相手方だが、骨は逃げの一手を打ってきている。クライフは「わざと追いつかせようとしているな」と感じつつ、短刀の鞘に仕込んだ投げ針を掬い弾くように投げ打った。
ギン。
後ろも見ずに骨はそれを肘のひと振りではじき返す。小細工の効く相手ではない様子に、しかし足を緩めるわけにもいかずにクライフは水平石の南側の縁まで追うに任せて走り抜けた。
「たいしたものだ、心の臓は跳ねていても呼吸は乱れておらん。よぉ鍛えている」
骨がゆるりと足を止め、五歩ほど離れて立ち止まったクライフを振り返りつつそう呟いた。確認するかのような述懐であったが、目がしっかりと彼を、いや、落葉に落とされている。
その落葉が、スッ――と抜き放たれた。
川面に映る灯りよりもなお澄んだ鋼色の夜が緊張の糸をゆるりと巻き上げつつ上段に構えられる。左肘と頭を晒す誘いの構えだ。
「漆黒の魔獣だな」
「落葉の剣士。――銀の合歓、破魔の擾乱たれるや否か」
骨にとっては初の顔合わせではない。死体置き場で剣士の顔こそ拝んではいなかったが、認識はしていた。クライフにとっては、嗅ぎなれた瘴気と右目の奥に痛くしみる茫洋たる光が、この人物が導師ゆかりの魔性の者であることを感じさせていた。
「南は河、北は水路、往くは旅籠に、退くは落葉か」
「何を画策しているかは知らんが」
すとんと、上段に構えた柄を顔の右へ。左拳は口元に。右に開いた八相のまま一歩、二歩と間合いを詰めるクライフ。骨は「手練れよの」とククと笑うと重心をやや落とし両腕をだらりと……地に擦れるかと思うほど垂らす。
関節が外されているかのような長い腕。
いや。
クライフはその体躯こそが元の骨の身体であると察知した。
縮めて皮を被る。いや、肉をかぶる。想像を超えた悪鬼の業に、しかし呼吸は乱れることもなく。吸い、吐く。湖底を循環する流れのように、腹の底がずんと重みを増していく。
「返すぞ」
その手首が跳ね上がった瞬間、鋼鉄の針が点となってクライフの右目を襲う。利き目を狙ったのは彼自身が先ほど投擲した武器だった。
クライフは斜めに進みこれを躱し、するすると踏み込めば斬れる一足一刀の間合いへと突入した。そこは骨の強靱な両腕に抱かれる距離。
「えいやぁ!」
剣士の気迫とともに切っ先が流星のごとく奔る。落葉は真一文字に骨の纏う肉の肩を裂き、彼の身体を浅く斬り裂き腰へと抜ける。
頭蓋を狙う骨の両肘を体当たり気味に鎧の肩で受けるクライフだが、その思いのほか重い打撃に膝を折るように弾き飛ばされる。
後転、膝で緩め、深く腰を落とし立て膝に構える。
「この身を斬られた? 鋼すら弾くこの身を? ……落葉、果たして名刀というほかなし」
追撃を躊躇うほどの激痛だった。文字通り、骨身に染みるその斬撃に彼は素直に瞠目した。かの導師が危険視していたとはいえ、たかが武門の道具ではないかと侮っていたが……。
「女王の加護か、面白い」
「肉の先、骨を断たねばならんか」
「すじ肉を絶つ技を振るう剣士には酷よのぅ」
「そうでもないさ」
クライフは佇立し、探るような骨に軽く返す。
「以前、骨だけの魔獣と戦った。それに比べれば、マシだな」
「なんだと?」
骨だけの魔獣。――セイリスの影に骨は苛立った。
「あの女よりもマシだと? あの魔女の下僕ごときに比べたか貴様」
「火でも吐くなら別だがな」
軽口の中、クライフは呼吸を整える。
命を投げ打つような一撃は一合ごとに魂をすり減らす。
しかしその際に、クライフははたと気がついたように息を漏らす。魔女とは違う、その一点で、骨の異様性と異常性を掴みかける。
「ただ――」
クライフは左肩手に持った落葉を己が右肩に担ぐ。右手は身体の真正面、みぞおちのあたり。
「魔女は切っ先がかすっただけで魔気を散らせていた。漆黒の魔獣、お前は魔性が薄いと看た」
クライフの看破に骨の頭に血が上った。
魔気が足りぬ、魔性が足りぬ、おまえはアイツに劣っている、そう言われたに等しいからだ。握りしめた拳が纏った肉を押しつぶし、伸ばした背筋が音を立てて皮を破る。実に身の丈3メートルはあろうかという死体を纏いし針金の如き怪人が姿を現した。
クライフは斬り込めなかった。そこは彼の間合いの外であり、しかし骨の間合いの中だった。一方的に打ち振るわれる撓りを上げた鞭の腕が、石畳を割り飛ばしながら竜巻く打撃で襲いかかるのを凌ぐだけで精一杯だった。
伸びきらんとする腕に真っ向から斬撃を加えるも刃筋を寝かせるように弾かれてしまう。逆巻く水流に立て板を突き刺すようなものだった。
技術が通用しないと理解した瞬間、剣士はさらに前へと出る。
「ふッ!」
呼気一閃。
撓りを上げるため力をためる一瞬で間合いを詰め、クライフは糸のような胴へ渾身の薙ぎ払いを叩き込んだ。
悶絶する骨が針金の肉体をまとわりつかせるように後退しなければ、間違いなく両断せしめていたであろう。
しかし深追いはできなかった。
クライフもまた交差する一瞬、骨の蹴りで胸板を掠め打たれていたのだ。
「殺す」
屍肉とともにそう言い残し、骨はするりと川面へと消え失せる。
逃がしたか。そう悔やむまでもなく、疼痛に彼は左胸を押さえうずくまる。鎧がなければ掠れ当たりでも胸骨は砕かれていたであろう。頭蓋なら即死だ。
「あれが、敵か」
クライフは独りごちる。
奮い立つように落葉の柄を握りしめると、遠く、駆け寄る気配が聞こえてくる。
聞き覚えのあるアンゼルマの声だと分かるや、どう申し開きをするか考えねばならぬなと、またひとつ頭を抱えるのであった。
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