第38話『獅子の瞳 4』
離宮の裏手には、炊事場と洗濯場が用意されている。
客――主賓ではなくレーアのようなお付の者が利用するために用意されたもので、しかしそれでも充分なものが整えられている。
レーアが大きなタライに張った水の中で石鹸を泡立てながら自分の服を洗っているのを、クライフは少し離れたところで旅の往路で酷使した己が鎧の手入れをしている。
「他に洗うものがあれば、一緒に出してくださいね」
「そうだな……」
少し考えるようにクライフは手を止めるが、そもそも彼の、客の洗濯物は離宮の洗濯婦が請け負うだろう。無理に彼女に任せる必要はない。
が、鎧下を脱いだクライフは、シャツと肌着を脱ぐと彼女に手渡す。背中の火傷の跡は、先ほどレーアに薬を塗り替えてもらった後だ。そのときから彼女はクライフの洗濯を狙っていたのかもしれない。
「じゃあ、頼むよ。下は、あとでここの人に頼むから」
「あ、はい。そうですよね。すみません、家族の洗濯はいつも自分がしてたからつい。それにけっこう汚れている様子でしたし」
「魔獣の火にさらされたりしたし、まあ、その。男所帯だったから無頓着な部分はあるのかもしれない」
アカネあたりに顔をしかめられかねない体たらくではなかったとは思うが、そばにいる分には、かなり気が付くのだろうなと彼は頭を掻く。
「家族。姉妹、兄弟、そして……」
「ええ、夫妻のもです。こんなことになったとはいえ、あのときのことが懐かしく楽しく思えるんです。おかしいですよね、丘であんなことを言われたのに。それに自分自身も、人を――」
言葉を飲み込み、クライフのシャツも水の中に漬け込む。
レーアは手を動かし続けながら、水面に浮かぶ泡を見つめ言葉を探している様子だった。
「いまのあの姉妹兄弟は、そうあるべきとして植えつけられた人格なんだろう。君が過ごした普通の日々が、偽りだったとは思えない。――歌。君がひどく怯えていたその歌が、何かのきっかけになるんだろう。本来なら、君はエレア殿下のもとで保護された方がよかったのかもしれないが……」
「歌、ですか……」
手を動かしながら、レーアは呟いた。
クライフも鎧の焼け跡のついた皮を丁寧に確かめながら、錆が浮きそうな部分を砂で丹念にこすり洗う。
「確かに、ディーウェス夫人に歌を歌うと言われたとき、ものすごい悪寒が走りました。その正体まではわかりませんが、きっとよくないものなのでしょう。……こんな私は、保護ではなく投獄されても仕方がないのに」
むしろ、そっと首をなでる手。その手に着いた泡が首を真一文字に跡を残す。
「罪のありかがどこにあるかを問うのは、国に任せよう。今この場に君がいるということは、少なくとも殿下――エレア姫は、今は罪を問うのはしないでおこうという表れだろう」
クライフの手が止まる。
「それに、助けてと。殺してくれとも言われた自分としては、レーアを死なせたくはないよ。斬るべきときには、とは約束したものの、果たせるかどうかは、正直分からない」
「そう、ですか。…………あの」
手を止めたレーアは、泡にまみれた自分の手の甲を、そして掌を見つめながら、クライフを伺う。鎧を擦っていたクライフも手を止め、耳を傾ける。
「クライフさんは……」
言葉は続かなかった。いや、何を言いたいかは、よく分かっていた。クライフも自分の右掌を見つめながら、自分が初めて人を殺害したときのことを思い出していた。
「戦場の倣いとはいえ、故郷で傭兵を何人も斬ったよ。殺さなければ、守るべき人を殺されてしまうから。抵抗はあったと思うよ、そのあとうなされるくらい参ったからね。でも、体は動いた。その瞬間だけは、自分が殺されないためだけに相手を殺したよ」
斬った、ではなく、殺した、と正直に吐露した。それが礼儀だと思ったからだ。直接的な殺害を口にしなければ、彼女の抱えているものに礼を欠くと思ったからだ。
脇に置いた落葉を手にする。
「騎士見習いの持つ長剣で幾人も。そして、剣の師匠から受け継いだこの落葉でも、何人も。――シャールに来てからも、魔獣や人であったものも問わず、いくつもの命を奪ってきている。あの三傭兵のうちのひとりもそうさ。どこか壊れているんだ、人としてやってはいけないことをすることで、命を繋いでいるんだという罪の意識はある」
それでも、譲れないものがあった。それでも剣でのみ解決できる数少ないどうしようもなさをなんとかしたいと決意した。
「殺人狂に陥る恐怖はある。日頃笑っていても、昔のように笑えていない気持ちもある。剣を棄てることも考えたことがあるけれど、だめだな。少しできるという思いがあると、なかなか棄てられない。師匠に見透かされたような気がする。俺はこれがないと生きていけないんだってね」
「でも、傭兵としてはまっとうな生き方なのではないでしょうか」
小さいがはっきりとした言葉を少女が口にすると、クライフもひとつ頷く。たぶんそうなのだ。彼はそのどうしようもなさと、これから生涯を掛けて戦っていかなくてはならないのだろう。
「――善悪好悪は抜きとして、暗殺者として生きるなら、殺人はひどくまっとうな生き方であると思うよ」
今度は、クライフが口にした。
その斬り捨てるような言葉に、しかしレーアは静かに彼を見返す。
「本人の納得があれば、ね。だから、おそらく今は許せないのは……そうだ、たぶん、君が、レーアが自分自身、納得ずくで殺人を行っていなかったからだ」
ス……と数センチばかり落葉を鞘から抜き、刀身に照り返す日の光に目を落とす。
「人を殺すなら、納得していないと。後悔は別として」
だから、薬、催眠、歌を用いた暗殺者としての別人格を植え付け、道具として使うことに違和感と憤りを感じているのだと、このときクライフははっきりと意識した。
「何者にもなれぬと紡いだ君の兄弟の口も、誰かに植え付けられた人格によるものとしたら、どうして受け入れられよう。罪も、後悔も、自分のものだ。納得して受け入れられなければ……」
納刀し、目を閉じる。
脳裏に思い浮かぶのは、自分が戦ってきた面々の命消えるその瞬間。
「君の納得に決着を付けなければと思うのは、俺が同じく、殺傷を生業としてるからだね。わがままだ」
「自分自身納得ですか」
そうですね、と彼女は頷いた。
このときは少女と青年ではなく、同じ心のもやを抱えている同士として話せたのではないかと、少し感じていた。
「近衛のみんなは、もう少し割り切った感傷があるのかもしれないな。俺なんかより、よほど斬った張ったの世界にいた者たちが多そうだし」
「アカネさんや、シズカさんもですか?」
「彼女たちは、その生い立ちもあるんだろうけれど。……生い立ちか」
思えば自分の師匠の生い立ちを、聞いたことはなかった。想像を絶する生き様なのは、片目の由来からでも伺える。
「だから、人を殺した実感と納得が得られたら、たぶん君は誰かに罪を問うてもらえるはずだ。変な話だが、そうできるように、まずはこの地で『楽団』と決着を付けよう。なぜか相手は、それを狙っている節がある様子だしな」
奏者の導師、魔女、その影がちらつくということはそういうことなのだろう。
「……おや?」
その接近に気がついたのは偶然だった。
クライフがふとそちらに顔を向けると、見知った女性が炊事場の向こうから姿を現した。
近衛に似た制服の、髪をまとめたあの少女だった。
「探しましたよ、クライフ=バンディエール。獅子の瞳に来たらお礼をするから顔を出してとお願いしたと思いますけれど?」
「たしか、コートポニーさんだったね」
クライフは立ち上がり礼をする。
上半身が裸なのは我慢してもらおう。
「このような格好で失礼。――そうか、そんな約束もあったね」
「アリッサでいいですよ。宝玉の一件ではお世話になりました」
浸着装甲の騎士、獅子王子が懐刀の三人の内、そのひとり。その腕前は、鎧を着込んだ衛士を頭蓋もろとも叩き潰すものであることを思い出す。曰く、シャールが産んだ魔道の兵器。
「ここに来たということは、獅子王子殿下と、姫殿下の近衛たちとの会合はもう済んだ様子で?」
「とんでもないことを聞いたわ」
アリッサは、隙のない表情でレーアを一瞥する。
エプロンで手をふいたレーアは立ち上がり目礼をするも、そのやや胡乱な視線に息をのむ。
「なるほど、レーアのことも聞いたのか」
「自分の中に何かがいる恐怖は、私もよく分かっているわ。……まあ、ちょっとそれでも信じられないけれどね。ええと、レーアさんだったかしら」
呼ばれ彼女は「はい」と頷くと、アリッサに吸い寄せられるように二歩ばかり前へと進む。
「どういうことだ?」
それに言葉を投げかけたのはクライフの方だった。何故か。それはレーアの背後に控えるように佇む、もうひとりの――おそらくは浸着装甲の騎士に気がついたからだ。
年の頃はアリッサよりもやや上。綺麗に切りそろえた濃緑の髪は陽に透かすと鮮やかな緑柱石のように艶めかしく輝く。その手足も美しくしなやかだ。
そんな少女が、隙も気配もなく立っていた。
レーアも言われて気がつき、振り返って目を丸くする。
レーアがアリッサの元に二歩ほど進んだのではなく、この少女がレーアの背を促したのかもしれない。
「お初にお目にかかります。イシュタリスと申します。アリッサの同僚ですわ」
なるほど、やはり三騎氏の内のひとりか。と、クライフは得心した。
「見た目通りの淑女ではないということですね。私は、クライフ=バンディエール。ただの傭兵です」
「あらあら。――虎口丘の魔獣を倒した剣士が、ただの傭兵なんて。謙遜かしら、それとも……?」
イシュタリスのつかみ所のない表情と言葉に、毒は感じられなかったが、かすかな伺いは感じられる。
ああ、そういうことかと、クライフは内心覚悟した。
「レーアさんの監視に、イシュタリスがつきます。まあ、事情が事情だけにごめんなさいね」
アリッサがレーアに告げると、覚悟していたのかレーアも「ですよね」と頷き返している。
「わざわざ監視と言うからには、ええと、アリッサ、君は?」
「もちろん、あなたを持て成そうかと。ええ、コートポニー家に、これから来て頂きます」
「持て成すだけではないんだろうね」
アリッサは頷いた。
「獅子王子殿下からの頼まれごとを」
「そうくるか」
どうも、自分は便利に使われるところにいるらしい。
レーアの監視に、浸着装甲の騎士を充てることといい、それなりのものが聞かされるのだろう。
「そうくるよな」
と、こちらは独り言となった。
「着替えてくるよ。――こいつは?」
「傭兵然とした姿でいらっしゃってくださいな」
「わかった。――レーア、あまりのんびりも出来なかったが、すこし出かける。なにかあったら、遠慮なくそこのイシュタリスさんに言うといい。獅子王子殿下が持ってくれるはずだ」
「……そうきますか」
と、これはイシュタリスだ。しかしどうやら、まんざらでもない様子だった。よほどうまくアカネとシズカが言付けていたのだろう。
「馬車を待たせています。準備が出来ましたら、どうぞ表に」
アリッサが小首をかしげるように促す。
長い一日になりそうだった。
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