第6話『そして姫は北に向かえと命を下す』
命からがら逃げた先で気を失い、自分が自分と分からぬままに目を覚まし、歩き付いた果てで自国の姫君と卓を囲んで甘苦い茶を喫している。
レーアは右手にクライフ、左手にシズカと挟まれる形で、向かいの長辺の中央に座るエレアに、そっと目を向ける。その艶やかな髪、意思のほとばしる瞳、濃く細い柳眉。瑞々しい肉体とは裏腹の、獄囚の如き枷の数々と、赤黒いドレス。足下は裸足だったように思える。重い鎖を座った腿の上に垂らし乗せながら、慣れた手つきでカップを上下させては一息ついている。
「良い香りですわ」
と、アカネがエレアの右手から卓上の焼き菓子に手を伸ばしながらスンスンと鼻を鳴らす。つまみ上げたそれにも鼻を鳴らすと、にっこり笑いながら実に美味しそうに頬張る。
「レーアと言ったな。遠慮せずに摘まんでくれ。どうせろくに味もしないまま朝ご飯を流し込んできたのだろう? 軽く味わって、まずは腹に収めなさい。落ち着くから」
「ご、ご配慮……あり、がたく――」
「無理にかしこまらなくてもいいんですよ」
と、これは使用人姿のままのコティだった。レーアの横合いから取り分けた菓子を乗せた小皿を彼女の前に置く。気の利かない近衛にジロリと目を向けると、受けたベイスは「なにぶん、こんな所帯なもんでな」とレーアに肩をすくめてみせる。
「このエレアからして、堅苦しいのは嫌いでね。次期女王、この言葉の意味は五つの子供でも知っている」
レーアはどう反応したら良いか考えあぐねたが、横合いからクライフが小皿から菓子を一枚摘まみながら音を立ててかみ砕くと、「だからこそ人使いが荒いんだ」と文句を言う。
そんな小さい助け船のなかで、姫の後ろに控えるコティが使用人然としたまま居住まいを正す。その合わせる踵の音に、ベイス始め近衛は揃って話を区切る。
威圧であった。
それでもエレアが泰然自若とカップを置くと、コティはおかわりを注ぎにそれを回収し、姫は静かに口火を切った。
「依頼の内容を整理しよう。まあ近衛は私の身内みたいなものだから気にしないように。……まずはレーア、貴女の保護。兄弟姉妹たちの保護。それでいいのね?」
「はい」
そこにはしっかりとレーアは頷いた。
「だとすると、私たちはまず車輪の蔵周辺を調査し、馬泥棒たちの足取りを追いながら、ほんとうに暗殺者の逃げた先を突き止める。これが初手。ここまでは近衛も手を貸しましょう」
ベイスも腕を組み、菓子を二三枚いちどにかみ砕きながら「だな」と頷く。思い出したかのように「ヴァルとイーモンは内側だったか?」と、壁に掛けてある白墨板に目を向ける。二人の名前のところには、東西の内側街区のいくつかが書かれていた。
「アリステラは? 彼女はどうしてる? あそこには害獣駆除と書いてあるが」
「東岬の先、人が入れぬ岩場にちょいと港を荒らす野鳥が住み着いてて、衛士側からの依頼でアイツが駆除に向かっている。まあ、帰りは明日の朝方だろうな。アイツたまごもブチ砕いちまうんだろうな。ありゃ喰うとそれなりに美味いんだが」
「立ち入れない場所への狙撃なんだろう? そもそも回収には向かえないさ」
とクライフも笑う。
「近衛っつっても衛士の一部。『わるいもの』絡みの案件がなけりゃ、衛士としてこうやって出張るしかない。港を離れられない宮仕えってやつだ」
「それは直属の上司への文句と受け取っていいのかしら」
と、おかわりを持ってきたコティがエレアのカップを置きがてら、ベイスをジロリと睨む。
やにわにベイスは立ち上がり、直立の姿勢でビシリと踵を合わせる。
「長官、お言葉ですがこのベイス。長官にやれと命じられれば、たとえ火の中水の中、崖の上のたまごであろうと回収してご覧に入れます」
「そうじゃないでしょう」
エレアの後ろでコティも苦笑する。
「話を戻す。――ということで、私が遊撃で使える人員は、クライフを筆頭に、アカネとシズカの三人。ガラン内の調査なら、ベイスも付けてやる。ああ、コティはダメだ、側にいて貰わないと私の生活と仕事が滞る。幽閉軟禁じみた身の上なれど、このガランの総帥ともなるといろいろやることが多いのだ。ここのところ体調も良いし、ここぞとばかりに仕事が増えた。年齢が年齢だけに、そろそろ子供扱いされぬようになったと言うことかどうか。まあそんなこんなで、コティもだめだ。ヴァルとイーモンも私の使い走り。今回は三人と、おまけのベイスで我慢して欲しい」
「は、はあ」
レーアは自分のこととは思えないふわふわとした気持ちが、ここでしっかりと腹に落ちた気分になった。
「まずは調査」
おまけ扱いを聞き流しながら、まだ立ったままのベイスが指折り確認する。
「そして、行き先の分析。そしてさらなる調査だ。相手は逃げるぞ。隠れるぞ。追うなら殺しに来るなんてことはない。徹底的に隠れる。……となればだ」
ベイスはシズカを促す。
「藪を突くわけですね?」
ため息交じりのシズカに「そうだ」と続けるのはエレアだった。右人差し指を立て、左手で摘まんだカップに口を付けながら「これは獅子王子、上兄殿下からの情報なのだが、なんでも獅子の瞳で開かれる前線会議に出席する鉄山士たちの護衛の件で相談があってね」と人差し指をゆんゆんと振る。
「護衛の件?」
クライフは問い返す。
「獅子王子の人材と言えば、武闘派で固めていると聞いてますが?」
「だから、おそらく、それなりの相手を予想しているのだろう」
それなりの相手。
「かの浸着装甲は、退魔の要。兄上が求めているのは、人間相手の護衛の要だ。武闘派ではまかないきれぬ、魔術にも頼り切れぬ、特異な才覚を持つ者を相手にする、特異な才能を持つ者だ。――暗殺に対抗する、五感と体術を鍛え上げた人材を貸して欲しいとの相談を受けた」
「暗殺ですか」
声を漏らしたのはレーアだった。
「十中八九。騒ぎが起きてからの対応は兄上の部隊でもできるだろうが、事前に潰す動きは苦手だとさいきん認めざるを得なくなったらしくてな。アカネやシズカの育った村からの人材を多く抱えている下兄殿下に泣きつくのも癪なのだろう。こっちに相談してきたのだから、よほどのことなのだろう」
「つまりシズカと私は、獅子の瞳に? ――ニャ?」
「恩は売っておこうと思ってね。こんな境遇だけど、
と、アカネの口に菓子をねじ込みながらエレアは笑う。
「できすぎた話じゃありませんか?」
と、シズカもレーアの口に菓子をねじ込みながら呟く。
心配はもっともだったが、エレア自身、これを誘いであると看做している。ことが始まったのは、『もうひとりのレーアが人格統合をしくじったことで逃亡し事態が動く』のが先ではなく、『獅子の瞳における暗殺の兆候』が先で、そこから誘いは始まっていたのだ。
「ベイスだけと言ったが、私も連れて行け」
と、エレアはレーアの頭にちょこんと止めていた光の小鳥を羽ばたかせ、自分の指先に止めるとにやりと笑う。
「レーアの裏はとれた。その『歌』とやらのきっかけ、その細部はわからなんだが、まずは敵にはならんだろう。獅子の瞳には彼女も連れて行け。でなければ、レーアの妹であるエリーゼ、パトラ、シャロンの三人は命を奪われることになる」
エレアの言葉に、レーアは口の中の菓子を飲み込むのも忘れて、息を止めた。今、この王女は言った。エリーゼだけでなく、パトラとシャロンの名を。未だ口にしていない妹の名を。
「そんな顔をするなクライフ。覚悟の上だろう」
ここでどこまで読んだのか問い詰めれば、エレアが悪役を買った意味もなくなり、レーアの戸惑いも大きくなるだろう。
「まあこれでも王族――だからな」
エレアの済まなそうな笑顔に、やっとレーアは茶に口を付け、菓子を飲み込む。
「王族……ですか」
そこでベイスは話を区切るためにひとつ大きく咳払いをする。
「ともあれ、足取りと残留した証拠を探る。これは姫殿下と俺が手伝おう。……姫も獅子の瞳に付いていくなどとは言いませんよね」
と、これは小鳥に対しての釘刺しだった。
「行かない行かない。さすがにそこまでの余力はない。めっぽう叱られたからな。やっと気力も充実してきたのに疲れる真似はしない。ベイス、信じてくれ」
「疑ってはおりません。ただ、まあ、元気が有り余ってるようなのでもしもと思った次第で」
「コティに似てきたなお前。大丈夫よ、おとなしく執務をこなすわ。……さて」
と、エレアが先ほどベイスから受け取った郵便の認め書きと、アカネから受け取ったおつりを卓に乗せる。
「獅子王子殿下には護衛了承の旨、馬を飛ばした」
これは郵便の件だろう。
シズカとアカネの出張は決定事項だったようだ。無論、近衛のふたりは是非もない。すっくと立ち上がる。
「準備を済ませ次第、車輪の蔵に集合。その後、北に。獅子の瞳へと向かいます」
シズカは居住まいを正し、エレアへと頷く。
「馬と、鞍のご用意をお願いしてもよろしいですかニャ?」
アカネは頷くベイスに満足げに笑みを漏らす。
「じゃあ、行こうか。疲れてるかい?」
クライフも立ち上がり、レーアを促す。それに従うように立つレーアは、ひとつ深く頭を垂れる。
「よろしくお願いいたします」
万感の込められた言葉に、ベイスも目頭を押えかける。
「ひでえ奴らだ。子供を殺しに使うなんてよぉ、ぶっ殺してやる。いいかクライフぶっ殺してやれ。ああぶっ殺してえ……」
「やれやれだな」
苦笑交じりにレーアを促し、クライフは自分が生きた国の騎士のそれに準じた立礼をエレアに返す。
「クライフ=バンディエール、北の都『獅子の瞳』に向かい、獅子王子に恩を売ってきます」
「それでいい」
エレアも手を振って礼を返す。
「しばらくここもさみしくなるが、せいぜい頼むぞ。背は私が請け負う。思い切りやってこい」
「承知仕った」
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