第8話『視線』


「すみません、ゴタゴタは嫌なので黙っていてください」


 宿屋の主人にそう言って走ること二十と少し。抜き身をひっさげて入り組んだ路地裏を南へ南へと抜けながら、大店の裏手、煉瓦塀の隅で一息つくと、刀身に吸い寄せられたかのような赤黒い塵を手拭いで拭き去る。それは軽く拭うだけで刀身から剥がれ、布地に吸い込まれるかのように霧散する。

 ゴミではない。その場を離れる前までは、確かに血であった。まるで熱した鉄板に落ちた色水のようにからからに乾き去ったのだ。熱を伴ってはいないが、乾き去るのは――このように剥がれるように霧散するのは、落葉の使い手であるクライフにも不可解なものだった。

 最も、彼が対峙した巨大なネズミ。あれがそもそも理解の外だった。

 亜大陸ではあのような獣が通常存在しているのだろうか。店主が襲われそうになったが故に斬ってしまったが、シャールに来て早々に首を突っ込んでしまったと、今になって反省する。

 今になってそう反省するクライフが落葉を鞘に納めると、同じく今になって冷や汗がにじみ出る。


「船長の言うように、俺にはまだこちらの常識が足りないな」


 鼻から静かに深く息を吸い、口からゆっくりと吐き出す。

 何度か繰り返すと、落ち着きが戻ってくる。

 汗を拭いながらクライフは大通りへと戻らんと踵を返す。取り急ぎ、ほとぼりが冷めるまで宿には戻らない方が良いだろう。夜にはネズミも片付けられるだろうか。

 クライフは胸に手を当てる。

 そこには紹介状がしっかりと仕舞ってある。薄手の鎧下の懐のスリットに大切に差し込んである。


「ともあれ、しばらくおとなしくしていよう」


 渡した宿賃は一週間分。荷物は置いたままだが、不安は募る。

 東西を走る大通りのひとつに出ると、一度周囲を見回す。

 このあたりはまだ、賑やかだった。人混みに紛れるように、流れのまま東へと歩く。このあたりはまだ傭兵街で、名のある傭兵団が街を作るように拠点を張っているのか、建物建物、区画区画は、目にも鮮やかな団旗が立てられ、掲げられている。

 数えるのも馬鹿馬鹿しくなるような数だった。

 団の隆盛衰退によって、建物に掲げられる旗もまた変わるのだろう。このシャールは、傭兵仕事には困らないという話は、本当らしい。武装した者たちの表情も精気に満ちており、どの戦士も一角の者のようにクライフの目に映る。

 東に歩くにつれ、男たちの匂いから、鉄の匂いに変わってくる。

 職人街の南の端から傭兵街に突き出す形で構えられる、鍛治師たちの武器屋が並び始める。槌の音、灰と鉄の匂い、そして懐かしい空気。

 ふと足を止める。行き交う人間も少なく、広い通りにはクライフ含め十人もいない。建物の中には人気と熱気が籠もっているが、彼の頬をなでる風は涼やかなものだった。

 炊事などを除き、火を主に扱う施設は、火災の際に類焼しないよう必ず広いところに作られる。道幅も建物と建物の間も広く取られているからか、風の通りが良すぎるくらいであった。


「訓練場にも、こんな一画があったな」


 思い出す光景は、今よりも若い自分の姿。それほど昔でもないのだが、その情景の総てが色あせて去来する。


「ともあれ」


 肩をすくめる。

 あのときと今では彼の立場はがらりと変わっている。


「浮き足立っているな」


 獣を斬ってからこっち、遅れたかのように罪悪感が生まれてくる。面倒ごとが嫌だから、あの場を離れた。身勝手な行動だ。騎士ならば、堂々たれと自分を叱る。


「俺は騎士なのだろうか。……誰にも仕えていないのに、騎士もないか」


 文字通り、浮き足立っている。

 何をしようかという行動原理に、この現状が何も反応を示さない。心に従うように思った通りに体が動いたのは、先ほどの一戦のとき。

 ふと、胸に手を当てる。


「寄る辺、か」


 故郷を遠く離れた今、自分は思った以上に心細いらしい。


「空元気もつきたところかな。こういうときは何か食べるに限る」


 宿で一息つこうとしたまま、食事を摂っていなかったことに気がつく。腹が減っているとろくなことを考えない――というのは、彼を鍛えた師匠の言葉だったか。


「宿に戻る道がわかる程度に、辺りを散歩するか。時間は少し外れたが、食事をするところはいくらでもあるだろう」


 そう思うと、頬をぴしゃりと叩く。

 食べて寝て出す。その繰り返しで生き、その繰り返しができる場所が拠点となる。クライフは自分にまだそれが圧倒的に足りていないことを自覚する。

 海に出たときは、船の中でさえ居場所が定まらなかったではないか。

 しかし騒動に首を突っ込んでしまったのは――仕方がないと納得した上で――まずかったと反省する。あれだけの騒動、衛士たちが動いていないはずはない。

 さて気分を切り替えようと港に向かうなだらかな横道に入ると、傭兵街の人種に混じって、港町の人足たちの慌ただしい動きが目につく。午後の忙しい時間にさしかかってきたのだろうかと思ったが、それ以上に華やかな活気に近い空気が漂ってくるではないか。


「この匂いは――」


 海に続くであろう大通りと思われる。建物の高さもいっそう高くなっており、建物に掲げられているものが団旗ではなく商会の看板へと変わっていた。

 そんな商人街とおぼしき一画に立ち南を望むと、果たして匂いの元が明らかになる。

 広い通りの左右には、建物のそばに立つような屋台がずらりと並んでいる。働く男たちでいっぱいかと思いきや、クライフのそばをはしゃぎ声で駆け抜けるのは十に満たないであろう少年少女たちであった。振り返れば街の住人たちが老若男女、連れだって通りに降りてくる姿であった。


「そりゃ、住人はいるよな」


 くすりと笑う。

 そうして屋台のひとつに歩み寄ると、懐かしい香りが鼻をいっそうくすぐる。


「いらっしゃい」

「ひとつください。――この賑わいは祭りか何かですか?」


 小銭と引き換えに差し出された魚の串焼きを受け取りながら、クライフは訪ねる。

 年若い売り子は手慣れた手つきで生魚に串を通しながら「こちらは初めてで?」と頷く。祭りであることを肯定したのだろう。


「港が開いたときに来てね。――職にあぶれて流れ着いたんだ」

「そういう人多いですからねえ」


 クライフの出で立ちを見て遠慮なく言うが、言われた方の気分は悪くない。よくわかっているからだ。


「港開きで、物資がごっそり入れ替わるとこが多いんですよ。なもんで、祭りと称して在庫を一掃したいと」

「なるほど、人寄せか」

「そういうこって」

「ふうん」


 感心したような息を漏らし、クライフは熱いままの串に齧り付く。


「ん。美味い」

「旨味は干物のほうが上ですがね」

「この脂と塩は魔性ですね」

「まああんなことがありましたが、祭りは滞りなく、ですわ」


 あんなこと? と問い返そうと思う矢先に、思い至る。


「……ネズミ?」

「ネズミ?」

「大きな」

「大きなネズミだったんですか?」


 話がかみ合わない。


「巨大なネズミが暴れた話では?」

「いや、大店の旦那が殺された話ですよ。……やったのはネズミ? え? そういうことです?」

「どういうことなんだろう」

「それはこっちが聞きたいすよ」


 ともあれ、大店の人間が殺害されたのは事実らしい。クライフはネズミとの因果関係をいったん頭から追い払う。


「まあシャールの獣ならそんくらいするかもしれませんがねえ。なにせ外国に売りさばこうとして逃げ出す猛獣には事欠きませんから」

「じゃあその手のものだったのか。――もう一本」


 串入れに食べ終えたものを入れながら小銭を渡す。


「頭も尻尾も行くんですね」

「うん。好きなんだ」


 新しい串を受け取りながら苦笑する。


「港じゃなきゃ喰えないですからねえ」


 店の前に新しい客が来たのでクライフは身を引き、脇にどく。

 もぐもぐと熱い魚に齧り付きながら、彼はふと屋台の影からちらりと目だけで道向こうを覗き見る。

 気のせいか、伺うような視線。首筋にチリとした粟立つ感触を感じなければ、見過ごしていたかもしれない。


「今のところ、命を狙われる覚えはないんだがな」


 さて、どうするか。

 クライフはゆっくりと魚を平らげると、串を手に気を引き締める。

 視線はもう感じない。

 しかし、ねっとりとしたそこはかとない不安。

 足下に感じるその重さに、彼はひとつ、静かに息をつくのであった。

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