第6話『相克 斬上一刀』

 



 体の下、足下から、地の底から命じる声がある。

 南に向かい、その美味そうな匂いを腹に収めろと。

 ――キィ。

 濁った漆黒の丸い目がクイと動く。自分の心に去来する何者かが命じる声を理解しようとすると、ふと脳髄がしびれるように温かくなっていく。

 あの女の指のように。

 耳元から入り込んだ冷たい熱のように。

 ――キィ。

 ギシリと、歯がかち合わさる。

 かつて人であったフリードは、ここまでにさらに三人の子供を食べた。職人見習いの内弟子である若い未来は格別の味だった。胃の腑に収まると可能性が血肉となって、ひとまわり、また、ひとまわりと、獣と化した彼の肉体を大きくしていく。

 血にまみれていることもわからぬほどの、どす黒い体毛。齧歯、耳、ヒゲ。すでに巨大なネズミの頭を持つ、体幹が人間のままの醜悪な生き物がそこにいた。

 とびきり美味そうな気配は、匂いではなかった。南から、少し潮の香りから外れた丘の方から感じるそれは、知覚のすべてで感じる味そのものだった。

 それを口にしたときを夢想し、唾液がにじむ。

 入り組んだ街中を南へ南へと建物伝いに進む途中、何人か悲鳴をあげて逃げる人間がいたが、そのうち何人かは囓り捨てるようにして喰った。

 自分はこうしてはいられないという衝動。ただのニンゲンを餌にするような真似で満足するのではなく、もっと美味いものを平らげなければならない衝動。もっと素晴らしい体へと成長を遂げねばならぬという強い使命感が、彼を動かしている。

 しかし、つい今し方だ。

 今し方のことだ。

 人の気配が、消えていた。

 おかしいと思った矢先に、その頭蓋が飛来した矢で大きく揺さぶらた。

 ガツンという激しい音と共に、赤い矢羽根が通りの先へとくるくると跳ね飛んでゆく。


「徹らんか」


 スンと、鼻を鳴らす。

 半弓を手にした小さな男が――いや、人にしては四角く大きい男がつまらなそうに自分を見ているではないか。


「近衛のベイスだ。覚悟しろ」


 半弓は投げ捨て、腰の長剣を抜き放つ。

 幅広で、長さは1メートルあまり、柄の長さは巨体の彼の拳ふたつ半ほど。常人なら片手で扱うには支障がありそうな、まさに長剣であった。

 そんな長剣をベイスが両手で持ち高々と上段に構えると、まるで神話の巨人そのものである。彼はすでに身の丈2メートルを大きく越したネズミの化け物を相手に、一刀両断にせんとばかりにジリと詰め寄る。

 その彼を補佐するように、黒革の近衛の五人が屋根の上から弓に矢をつがえ、狙撃の姿勢をとったまま息を飲んでいる。

 殺人の発見から通報、巡回の兵から近衛に話が飛ぶまでは実に早く、そこから人払いと囲いの布陣はさらに早かった。

 職人街の出口近くの狭隘な小路で進路を塞ぐ形でベイス、後ろは三人の近衛、さらに周囲の屋舎には五人の狙撃兵。

 ここで決めるつもりであった。

 しかし、ベイスは間合いを詰めながら息をのむ。

 かつて、ここまで巨大なネズミの怪物を見たことは無かったからだ。いや、怪物ごときでは歴戦の彼を驚嘆させることはない。この巨体を鑑みるに、今朝の豪商アンドレイ=ベリーニ殺害時よりも、数倍でかくなっているのは明白だった。この半日足らずで、人出会ったモノがここまでの怪物に変貌を遂げる、その事実に喉がひりつく緊張感を覚える。


「生かしてはおけん」


 ――キィ。

 この状況においても、巨大なネズミの怪人は微塵も身構えるそぶりもなければ、緊張の気配すらなかった。

 ぐびりと渇ききった喉を鳴らす近衛の全員を、侮っているような気配すらあった。何をするのだろうと小首をかしげるネズミの目は、愛嬌すら感じさせる。

 しかしその気配そのものは、すでに一足一刀の間合いに入ったベイスの鼻を痛く刺激するほどの禍々しい腐臭そのものだった。

 侮ってやがるな。

 ベイスは真っ直ぐ上げた長剣の切っ先を残すようにグイと踏み込む。そこはすでに撃尺の間合い。残された切っ先は体の後ろ、思い切り振りかぶった体勢。

 振り抜けば両断する間合い。

 裂帛の気合いが腹腔を走り抜ける。

 凝縮した体幹が肩と腕を伝わって長剣の刃を目にも止まらぬ速度で振り落とす。

 当たる。

 そう意識した瞬間に、両腕にガツンと重く堅い物に切り込んだ衝撃。剛毛とはいえ、その頭蓋を真っ向から斬りつけた豪快な一撃はネズミの頭蓋をややへこませるも、振り抜く直前のところでびしりと弾き留められる。

 ――チィッ!

 ベイスの舌打ちか、ネズミの鳴き声か、鋭い呼気が漏れた刹那、四足の低みにまで体を落とし込んだネズミがベイスの右脇をすり抜けざまにそぎ落とすかのような爪の一撃を加えていく。


「ぐあっ!」


 そのあまりの衝撃に弾き飛ばされる。軽く宙を舞った体は石壁に叩きつけられた。

 手応えは充分だった。

 この男は弱い。

 ネズミはスンと鼻を鳴らして南に目を向ける。


「待ちやがれ! くそう、――撃て!」


 四足のまま駆け出す巨ネズミに罵声を浴びせるも、すぐに狙撃指示を出す。五人の狙撃手は狙い過たず総てその巨大なネズミの背中に矢をたたき込むが、やはりその総てが弾かれてしまう。

「隊長、追跡します!」

 屋舎の狙撃兵が四人駆け出し、一人は腰から火薬をしみこませた布を矢にくくり、火を付け、赤い煙を上げるそれを空高くまで内放った。信号である。

 ネズミの退路を断っていた三人も、矢を放った一人と合図をし合い巨ネズミの後を追いかけていく。


「くそう!」


 部下が任務のためにかけていくのを見送る形で、ようやくベイスは体を起こす。

 何という衝撃であったのか。まるで巨大なイノシシの体当たりだ。

 しかも、その腕のひと薙ぎだけで自分の巨体が弾き飛ばされるとは。正直、侮っていたのは自分の方であったと歯がみする。

 カツン。

 先ほど放たれた矢が落ちてきた。

 煙はすぐに止まり、飛ぶことで鋭い音を出す先端がベイスに向いている。


「くそう!」


 もう一度自分を奮起させるために一声上げて立ち上がる。

 なぎ払われた右の脇腹。革の手袋に、ヌルリとしたもの。

 血ではない。十二分な着込みと筋肉のおかげで、打撲で済んでいる。これは毒だろうか。

 急がねばならない。

 ベイスは走り出す。

 南に向かい。

 その先は傭兵街。

 いささか物騒な者たちの住処だ。


「下手に戦える奴らがいると、被害は広がりそうだな」


 そう脳裏にチラリと考えるが、敵の足止めにはなるかもしれない。この姿をさらし口頭で賞金でもかければ巨ネズミを率先して襲う奴も現れるかもしれない。

 足止め。

 よしんば傭兵たちの手での討伐。

 それが思い浮かぶも――。


「いや、怨敵、この手で仕留めねば腹の虫が治まらぬ」


 良くないもの、悪しきもの、なにするものぞ。

 渾身の剣を弾くなら、弾けなくなるまで頭蓋を叩き潰すまで。

 走りながら、街区の手前、屋舎の上で命令を待つ部下を見上げピィと口笛を吹く。部下は手振りで巨ネズミが傭兵街に向かったと伝えると、素早く返し伝えてくるベイスの手振りで巨ネズミの毒を把握する。瞬間、飛ぶように屋根伝いに姿を消す。この情報は瞬く間に広がるだろう。

 この街を守る力を思い知れ。

 ベイスは痛みを怒りに変え、一層力強く駆け出す。


「うぉおおおお、ぶっ殺してやる!」


 糞ネズミ野郎。

 燃える闘志がベイスの顔も真っ赤に染め上げる。

 傭兵街の人払いは間に合うだろうか。






「干物はいっかい木の実脂塗ってから炭で焼くのが美味いんだよ」


 傭兵宿『双剣亭』の主人は五十手前の苦み走った顔をにんまりと崩すと、カウンター越しに困り顔のクライフに向けて禿げ上がった頭をぺしぺしと叩いてみせる。


「そんな食い方したことねえ顔だな」


 問われて考えるも、クライフは肩をすくめる。


「そのまま塩焼きが多かったですね。あと、漁村にいたときは血抜きワタ抜きしたものを、そのまま串焼きでした」

「ああ、あれも美味いわなあ」


 と、主人は壁に掛けてある料金表へと視線を促す。


「そんな美味い飯付きだと、一晩あの値段。字は読めるな? 読めねえヤツも多いんだが、読めると説明の手間が省けるんだが」


 黒板に白墨で書かれた料金表は主人の手のものだろうか。思いのほか綺麗な字だった。


「読めますよ」

「そいつはよかった。アタマのほうはからっきしってヤツが多くてなこのあたりは」

「小さい頃から本が好きで。竜を倒す勇者になりたかったんですよ」

「本は読めないがそんなこと思ってる奴らばっかりだよここは」

「竜を倒そうというひとが?」

「はははは」


 顔の前で手を振りながら心底おかしそうに笑い声を上げる。


「斬った張ったで身を立てようって連中ばかりでな。竜なんてとてもとても。どこから来たんだい?」

「南から。海を越えて」

「物好きだねえ。まあシャールだったら傭兵の仕事には困らないがねえ。ただ一人でってのはあんまり聞かねえなあ。仲間はいるのかいあんた。アテとか」

「いいえ。まあ、働き先のアテはありますが」


 とりあえず、一週間分の料金を手渡しながらクライフは荷物を下ろす。

 双剣亭は三十人は入る酒場と、二階の二十人は寝泊まりできる小部屋という作りで、裏手は主人の家兼宿の仕込み場だった。昼は過ぎたが、今も主人の奥さんが炊事場で持ち帰り用の弁当を作っているのが窺える。


「働き口の紹介というか、働く前の傭兵団に繋いでやることくらいならできるからよ、いつでも言っておくれよ」

「ありがとうございます。……傭兵は、引く手あまたですか」

「名を上げようって輩はいつも多いが、シャールは特に多いな。そのまま騎士団になるものもいるが、一番多いのは地方領主に囲われての雑魚狩り。そして、外敵との戦闘だ」


 国境の小競り合いは日常茶飯事らしい。

 海を背にしたシャールは、周囲から攻められれば逃げ場はない。取られたら取られただけ逼迫していく。背後からの侵略はないとしても、征伐による国土拡充をしない限り領地も増えようがない。

 なるほど、と思いつつも、そのあたりの事情まで詮索するほどの機転は回らなかった。


「……武装姿の人間が多いのも頷けますね」

「他に行ったらゴロツキみたいな者も多いがね。まあ、このガランじゃ、いくら血の気が多かろうと、悪さするような粗忽者は生きてはいけねえよ。――怖い騎士さまたちが目を光らせてるからな」

「騎士は、傭兵よりも?」


 強いのかという問いだった。

 主人はカウンターに寄りかかりながらひとつ頷く。


「強え。なんてたって、このシャール、このガランを守る主力。騎士は主に外敵への備えだが、これがおめえ、街の治安を守る衛士ともなると目を光らせるのは住人へだ」

「……赤い矢羽根を持つのは?」

「あれは衛士だな。騎士になると装備が違う。全身鎧、部分鎧に、長剣。まあそういった国の役人はみんな金の飾緖してるから、あとは所属を表す服装やプレートは追々覚えりゃいい」


 主人はクライフに部屋の鍵を渡しながら言い含める。

「いいか? 命が惜しかったら役人には手を出すな。変な騒ぎを起こしたら、鬼より怖い衛士にぶっ殺されるぞ」

「肝に銘じます」


 苦笑交じりに受け取り、クライフは荷物を担いで部屋へと上がる。

 やや胡散臭げな主人の視線を背に、彼は階段を上がりきる。

 部屋は南の角部屋だ。

 この宿の二階は地方の商家へ出入りする行商人が主に利用するこぢんまりとした部屋だけに、二人も入れば狭いくらいの作りだった。しかし、窓も強固な枠で、扉も厚く鍵も複雑そうだった。


「あたりかもしれないな」


 何もかもが真新しいこのシャール、このガランに於いては、このくらいの設備が平均的なのかもしれない。

 値段を考えれば妥当にしても、やはりクライフの育った国はまだまだ田舎なのだろうか。物資だけでなく、活気も、技術も、高いことは窺える。

 その技術の粋のひとつでもある透き通ったガラスの窓から外を見下ろす。

 どこもかしこも、武装した男たちの姿が見受けられる。

 一般人はそこに混じるように点々と。


「傭兵街、か」


 かつて自分と戦ってきた傭兵たちが目指したと思われる街を見て、クライフはひとつ息を吐く。

 容易に倒せる相手はいなかった。

 そして、この眼下にひしめく者たちも容易ならざる相手なのだろう。

 ――戦うとすれば、だ。

 懐の紹介状を確かめながら視線を外し、もうひとつため息をつく。

 荷物を広げ、慣れた手つきで鎧下を付け、鎧を着込む。

 肌に馴染む着心地だった。

 かつて自分がまとっていた騎士見習いの鎧ではない。

 あのまま正式な叙勲を受けていたら、さらに重厚な騎士鎧が下賜されたであろう。

 後悔が無いと言えば嘘になる。しかし、それを上回る期待が彼の顔を上げさせる。

 彼が受け継いだ漆黒の鎧とはそういうものだった。

 腰に、長剣を差す。

 異国の長剣。片刃の戦場刀、『落葉』。

 戦うことしかできない彼に、戦うことを教えた老人から譲り受けた剣であり、鎧であった。

 腰に差した剣。身を引き締める鎧。

 気持ちが、剣士のそれへと切り替わる。

 数ヶ月前には、自分がこの地に立っているなどと想像もできなかっただろう。そう思い返すと、苦笑が漏れる。

 貴重品をポーチに、鍵を手に部屋を出る。

 施錠し階下に降りると、宿の主人は腕を組んで彼を見上げながら「ほほう」と唸る。


「こうしてみると、なかなかの面構えだな、あんた」

「みんなに言ってるんじゃないですか?」

「まあな」


 ガハハと笑う。


「まあいっぱしの剣士に見えるのは確かだな。やや古くさい鎧だが、似合ってるぞ」

「どうも」


 肩をすくめる。


「とりあえず喰わなきゃならないので、ちょっと聞きたいことがあるんですが」


 と、ポーチから紹介状を出し当て処を尋ねんとしたときだった。

 クライフも、宿の主人も、一瞬動けなかった。

 窓の外をけたたましい音を立てて、鎧の男が血煙を吹き上げながら吹き飛ばされているのが見えたからだ。

 ドォン! と轟音を立て、鎧姿の男は宿の脇に積まれた空樽もろとも更に通りの向かいまで跳ね返るように倒れ伏している。ピクリともせずに、樽に埋もれたままだ。


「おいおい、喧嘩か!? 勘弁してくれ、樽に傷がついたら水がくめねえだろうが!」


 カウンターを拳で叩きながら激高した主人は怒りの形相そのままで外に出る。「くそう何しやがる起きろ糞野郎!」と声を上げたところまではよかったが、ふと男が飛んできた方向に目を向けるや、見てはならぬものを見たかのようにあんぐりと口を開けて「なんじゃありゃあ」と呆けてしまう。

 瞬間、絶叫が上がった。

 何事かと傍観を決めていたクライフも、宿の主人の後を追うように顔を出す。

 そして、同じように絶句する。


「な、なんだ……アレは」


 息をのむクライフ。

 表に出ると、その異常な光景を、異様な光景を目の当たりにする。


「おい若いの、俺は……夢でも見てるんじゃあるまいな。でかいネズミが、おいおい、大男たちを吹き飛ばしてるぞ、あれ……」


 その通りだった。

 主人の言うとおり、身の丈2メーターを上回る巨大なネズミ――の姿をした人間のような奇怪な生き物が、そのどす黒い巨体を縦横無尽に、並み居る武装した男たちを相手に大立ち回りをしている。


「ぎゃあ!」


 悲鳴が上がり、屋根近くまで吹き飛ばされた革鎧の男がベシャリと石畳に叩きつけられる。そこに巨ネズミはドンとばかりに左足をたたき込む。

 血を吐き、革鎧の男はその一撃で事切れる。

 ――キィ。

 バケモノ!?

 驚愕に頭が麻痺しかけるが、闘争の空気に触発された血の熱さがそれを上回った。明らかな殺意が周囲に向けられており、その殺気はクライフのうなじを粟立たせるほど彼にも叩きつけられているのだ。

 すでに骸の数は四つを数えていた。

 ながれの戦士、剣士、だったのだろうか。

 この怪異を前に、どのような経緯で立ち向かったのかはわからない。巻き込まれたのだろうか、それもわからない。

 ただひとつわかることがある。

 ――キィ。

 この無邪気な鳴き声を放つ魔性のものをここで斃さねば、死ぬのは自分であると言うこと。そしてその次は主人、果ては彼の奥さん、街の者たちに他ならない。


「もうすぐ近衛が来る! 逃げろ!」


 その声が聞こえ、弁えた街の住人はみな取るものも取りあえず一斉に巨ネズミの視界から逃げる。

 その巨ネズミが逃げ去ろうとする無防備な住人の背中に飛びかかろうとした瞬間のことだった。

 その獣の総身が、ぶわっと、逆毛が立つように膨れ上がった。瞬間、ずさりと身を翻すようにクライフを振り返る。

 明らかな警戒の色が浮かんでいる。

 その巨ネズミが見るのは、クライフが鯉口を切った落葉である。そして、すらりと抜き放たれる刀身にであった。

 その闘争の気配を叩きつけたクライフは、呼吸をゆっくり落ち着け、ジリと間合いを詰め始める。

 その背後で、ぺたりと腰を抜かした主人の声にならない逼迫した呼吸。

 誰かを背にこうして剣を取る。

 その状況に、彼の意識は一気に凪いだ水面と化した。

 スゥっと、腹の底に意識が落ち着く。

 敵は異形。されど、形あるもの。

 両手で持った剣を、垂直に顔の右側に立てる。右の拳は目の高さ。半身に左足をやや前に出し、脱力、佇立する。

 ――ジャッ!

 きつい鳴きと共に、巨ネズミは明らかに警戒した動きで四足になり身構える。でっぷりとした尻が高く上げられているが、その構えは突進する、飛びかかる寸前の獣のそれである。

 距離は優に家一件分。しかし相手の跳躍はこの距離を一息で縮めるものだろう。背中まで貫き徹るヒリヒリとした殺気を感じつつ、ゆっくりと息を吐く。

 獣の動きは、人間の見切れるものではない。

 引き絞った弓から矢が放たれるように、一気に襲いかかってくる。

 故に人間にできることは、その構えになる前に動くこと。その構えになったときにはすでに行動に移していること。このふたつであった。

 状況は、クライフ不利のままである。

 間合い、威力。総ては巨ネズミが上と思われる。

 そんな逡巡すらも、心に浮かび上がる前に心の水面を乱すことなく腹の底に沈んでゆく。

 クライフは術が赴くままに剣の切っ先を、ふ……と下段に落とした。

 瞬間。

 来る、と思ったときには左足を大きく左前方に踏み込んでいた。

 体幹をズイと移動し終えたときには、目の前に飛びかかってきた巨ネズミの体。その血生臭さが嗅ぎ取れるほどの間合いに敵はいた。一瞬で、彼がいたであろう空間にその爪があった。

 そして、クライフの間合いに巨ネズミの頭が飛び込んできていた。

 頭蓋にへこみがあるな、と、どこか冷めた目で確認しながら、クライフはすれ違いざまに下段の剣を振り上げると同時に、いっそう前へと右足も踏み込む。

 青白い火花が散ったかのような斬撃だった。

 落葉の刃は巨ネズミの右の腋下から骨盤まで滑り込み、骨肉を断ち割って天に抜けた。

 刃と巨体の激突にも関わらず衝撃はやや剣士の背中を突き抜けたのみだ。突進の力で敵が落葉の刃に斬られに行ったかのような、まるで死地に誘い込まれるような交差だった。

 クライフは斬撃の勢いのまま、振り上げた剣を体ごと返し、ぴたりと敵に向けて腰を落とす。

 残心。

 その構えを取った瞬間に、数歩先にほぼ両断された巨ネズミが腸をまき散らしながら潰れるように倒れ伏す。

 彼の目には、クライフの姿が消えた瞬間に致命傷を負わされたとは認識できていなかっただろう。

 己の血に溺れながらそれを悟ろうとしたときには、すでにその呼吸――生命活動は了わっていた。

 数歩下がり、腰に挟んだ布で刀身の血を拭い、納刀。

 そこでようやく息を吐く。


「ふぅ――」


 一体これは、何なのだろう。

 そして、斬り抜ける瞬間に見た、あの青白い火花は。

 そんな疑問が頭をよぎった瞬間、慌ただしい足音。明らかに武装した者たちの気配が迫ってきた。

 道の向こうからも、そして、上からも。


「首を突っ込むな」


 そう言ったのは誰だったか。

 つくづく、クライフは思うようには行かないものだと痛感し、迫り来る気配を背に感じつつ、ため息をつくのであった。



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