第4話『種を撒く女』


 酒場の鎧戸から見上げると、もうすっかり秋の空だった。

 帝政シャールの秋は、牛の歩み寄りも遅く到来する。

 開かれた港により活気を一層のものとし始めた街に、ひどく不似合いな、しかしこれほど似つかわしい臭いを発する人間がいたのだろうかと誰しも頷く男が空を眺めている。


「でかい火の玉でも降ってこねえかなあ」


 ぼそりとした呟きに振り返る者はいない。

 着古した作業着は東に陣取る大倉庫街で働く人足のものだが、つい先日、倉庫の物に手を出しかけたところを親方に見つかりクビになったばかりである。

 仕事だけはたっぷりあるこの港で、日銭を稼いで日々を暮らし、家族を養い、死んでいく者は多いとはいえ、それも信用があってのものだ。

 彼のように自分だけではなく商会の信用にまで泥を塗るような真似をした者への制裁は、徹底している。懲罰までならいくらでもその後に取り返すことも可能だが、彼は即時の解雇であった。

 彼の信用は失墜し、広いようで狭い人足の世界で、彼の顔も評判も三日もすれば全員が知ることになるだろう。

 ああ、あの男ね。と。

 もちろん再就職の芽も無くなる。少なくとも慣れた仕事である港の人足としては絶望的だった。職種も繋がりも全く異なる職人街で仕事を探すか、それこそ武器を持って傭兵に身を窶すか、泥棒夜盗まがいの犯罪に手を染めるほかはなくなる。


「こう、ばーっと、さ」


 顔の前で手をほわっと広げるのは、爆発を表しているのだろう。


「龍か何かが現れて、あいつらみんな燃やしてくれたらいいんだ」


 やってられなかった。

 なけなしの蓄えも、いま懐に残った僅かな小金だけ。

 三、四日は凌げるが、その後となると心許ない。

 やり直すにせよ、決断は迫られている。

 昼間から酒を飲む者は多い。

 朝の早い水夫、人足が、あがりの時間になって店に来る。

 または、入港時間が前後して暇になった者、転じて忙しくなった者に対して食事を供する場合もある。

 彼も恥を感じる部分を多分に多く持ち合わせているせいか、くだを巻くこの店も、人足たちがあまり利用しない職人街寄りの小さな店だった。

 それでも店の賑わいは中の上。内地ではなかなか食べられない新鮮な魚貝を使った料理が運ばれるたびに、安酒を煽って荒れた男の胃袋をいたく刺激する。

 隠れるように邪魔にならない端の席に座っているが、料理が運ばれるたびに目で追っかけてしまう。

 腹が、ひどく空いている。

 あの焼いた肉をたらふく食って、仕事に備えるんだ。

 そう思うも、その仕事もない。

 金もない。

 あるのは先行きの不安だけだ。

 あと、怒りだ。

 腹が、ひどく空いている。


「どうしたのあなた、見ない顔だし、ひどい顔。独りみたいね」

「女なら要らねえよ」


 声を掛けてきたのは、どの街にもどの区画にも必ずいる街娼の類いの女だった。年は若そうだが、ひどく艶やかで、酒の匂いが体臭を乗せて香ってくる。化粧っ気は『明け』だから少ないのだろうが、ひどくドロンとしたけだるげな物言いに、絡まれるのはゴメンだとばかりに、男は手を振って追い払おうとする。


「若いくせに、腹減らし? 仕事はどうしたのよ」

「うるせえな。……座るんじゃねえよ」

「あたしも独りなのよ」


 思いのほか大きい腰で木椅子をたぐり寄せ、手持ちの酒瓶を卓に置き、店員に料理をいくつか注文し、あきれ顔の男に艶やかに笑いかけると、酒をグビリとあおる。


「おごってあげる」

「義理はねえだろう」


 だが、腹の虫が鳴きそうになる。


「なんのつもりだよ」

「暇つぶし。シケた顔してるから、さぞかしつまらないことになってるんだろうな~って思って声を掛けたのよ。お腹くらいは満たしてあげるから聞かせてよ。他人のしけた話を聞くと安心してよく寝られるのよ」

「……趣味悪い女だな」

「お金くれるなら枕語りでいくらでも気持ちよく聞いてあげるわよ」


 嫌なヤツに引っかかった。

 そう思ったが、味濃く串焼きにされた魚が大皿に盛られてくると、拒否する気持ちが大きく揺らぐ。


「仕方ねえな。話半分で聞いてくれよ」


 すべてを正直には話せない。自分が惨めになるからだ。


「まあ、食べながらゆっくりね。どんなに惨めな目に遭ってるのか聞かせてちょうだい。全部話せば――楽になるから」


 ひどく、腹が空いていた。

 ひどく、女の声が頭に残った。


「まあ食べてよ。遠慮しないで良いから」


 女はフフと、笑う。

 そこだけ、男を誘う意味合いが違う魔性を秘めて。


「………………」


 男は熱い串へと手を伸ばす。

 食べて良いのだという、許し。

 空腹を満たす代わりに話すという、誓約。


「うまい」


 食べ頃の熱さで口の中に広がる香ばしい脂に、嘆息する。


「ゆっくりお上がり。誰も取ったりしないから」


 甘い声が、脳髄にしみこんでゆく。

 そこからは、一口ごとに一言話すような有様だった。

 不満は商会の責任者、「どうせあの荷は表に出せない代物に違いない」というあやふやな告発とともに、帝政シャールの大港町を取り仕切る商組合の体制そのものにまで及んだ。

 聞く者はいない。

 内容は良くあることだったからだ。

 耳に入っても流されていく類いの、愚痴。

 意識すらされない雑音だった。


「大変だったねえ」


 それでも女は熱心に聞き入っていた。

 目を細め、相槌を忘れず、なだめ、喰わせ、飲ませ、促す。


「上手く金が手に入ったら所帯だって持てたんだ」

「表に出せない積み荷を、あなたが捌けるの?」

「伝手があった。裏切られた。あの野郎。知らぬ存ぜぬ決め込みやがって。殺してやりてえ」


 ――ふと、女が頷いた。


「殺してやれば良いじゃない。気に入らないんでしょう?」

「…………うるせえ」


 一口喰う。

 新しい皿が待ち構えたかのようにやってくる。今度は体に染み入るような熱いスープだ。口をつける。染み入る。

 染み入る。

 熱い物が、腹の奥底にストンと、染み入ってきた。


「機会があったら、仕返しがしたい?」

「あたりまえだ」

「こんなことにしたやつらに、仕返しがしたい?」

「そりゃあな」


 ス――と、女は男の頬に手を当てる。


「気に入らない奴らは、みんな……?」

「…………ああ」


 よくないものが、頬から、耳から、じわりとしみこんでくる。


「いいわね、あなた」


 女は、男の頬に当てた手を引く。

 名残惜しそうにおとがいを上げる男に、彼女はしっかりと頷いた。


「いいわよ、あなた。名前は?」

「――フリード」

「そう。ふふふ」


 はっきりと、わかった。

 この女は悪いものだ。よくないものだ。

 名前を言ってしまった。知られてしまった。心の奥底に、染み入るような――よくないもの。

 そしてなにより、あの頬に当てられた手の、冷たさ。

 しかし男は、思い出したかのように食事を進めていく。

 いくらでも食べられる気がしてきた。

 

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