第2話『落葉の青年』




 名も知らぬ白い鳥が南風を翼に受け、まるでひとひらの羽が空という水面に浮かび、くるくると、くるくると漂うように舞う姿を、遠目に茫洋と眺め上げる。

 上半身は日に焼け始めた肌をさらし、足下はしっかり固めているが、麻のズボンだけという姿。歳はまだ若く、二十代のはじめだろう。やや冷たさが香る切れ長の目だが、意志の強そうな眉を潮風でなびいた金の前髪が撫で上げると、くすぐったそうに震える。

 港が開かれる日。

 多くの商船が停泊する沖に浮かぶ、やや小ぶりの帆船の甲板であった。使い込まれた船板は、つい今し方、彼が磨き終えたものだった。

 デッキを磨く獣毛のブラシを立てかけ、首から提げた手拭いで汗をぬぐう。鍛え上げられた首筋、肩、腕、胸。そして、右の脇腹にそっと触れる。

 細身だが鍛え上げられた腹筋。その右脇腹に、背腰の裏まで貫通したとおぼしき傷跡が見て取れる。薄く鋭い刃物が突き刺さってできたかのような裂傷はすでに塞がって久しい色合いだが、汗をぬぐう手はやや戸惑いを見せる。

 黄金の角号――この商船に乗り込んだのが、一月ほど前。南の島大陸から小舟で拾い上げられた彼が、仮雇いの人工として生活して程なく、船は帝政シャールいちの港、ガランへとたどり着いた。

 入港こそできなかったが、陸が見える場所と言うこともあり、陸育ちの彼にしてみたら揺れる船上の文句も少なくなると言うものだった。

 日が中天にさしかかれば、灯台からの合図の元、割り振られた順に船が港へと入る手はずになっている……らしい。

 手をかざし天を仰げば、雲間の太陽はそろそろ真上だ。


「やることがないと、手持ち無沙汰かね」


 青年の背後、声をかけつつ軋み音を立てながら細い階段を上がってくるのは、この商船『黄金の角』の船長でもあり、中堅商会ゼファールの頭領、シド=ゼファールその人であった。

 細い急な階段を良く上がってこられたなと思うような、太い体躯をしている。肥満ではなく、骨太な体感と鍛え上げられた二の腕と足腰の太さが、より彼を大きく見せているのだろう。しかし、その猪首に乗っかっている刈り上げ頭の顔は刃傷が多いものの、五十半ばの枯れた水夫と言った体の穏やかなものである。


「シド船長」


 背後の気配を感じていたが、青年は声をかけられてからゆっくりと振り返る。


「国から出たことがないお前さんには、もう何度も言ってることだが、世界は広い。言葉は変わらないが、風習や独特な単語、使い方なんかは、千差万別。特にこのシャールだけじゃなく、東西に二大国、北は地獄の蛮族と、いろんな国のいろんな奴らがひしめいている」


 甲板に肩を並べ、シドはあごをしゃくって港町を指し示す。


「見ろよ、この面構え。大小四十を超える国からの船を取り仕切る、この亜大陸でも屈指の港だ。特に、入出港の規制が解除されるこの時期、外国人や観光客、それを狙う悪党なんかは数え切れたもんじゃねえんだ」

「騒ぎを起こすなと?」

「巻き込まれるな、だな」


 ヒョイと肩をすくめるシドに、青年は「はぁ」と曖昧に頷く。


「紹介されたから、見ず知らずのお前をこの船に乗せた。だがな」


 もう何度目だろうか。

 青年がこの船に乗って以降、何度か繰り返されてきたやりとりだった。

 やや聞き飽きた気もするが、シドがこうして改めて余人を交えずに来たと言うことは、これを最後にするつもりなのだろう。


「だがな、若いの。あの片目のくそじじいの紹介だから、名前も聞かずに乗せてやったし、悪い奴じゃないという信頼もした。だがな、あのじじいの紹介だからこそ、『巻き込まれるな』というクギだけは刺しとかないといけねえ。ああいや、ちがうな」


 そうじゃねえやと、刈った頭をがりがりと掻き、シドはひとつ落ち着くように息を吸う。


「そうじゃねえ、そうじゃねえんだ。えーとだな」

「首を突っ込むな?」

「そう、それだ。まさにそれだ。自覚あるんじゃねえか、おい。騒ぎを起こすのはまあ御法度! そして、騒ぎに巻き込まれたら仕方がないにしても不用心すぎる! なにより、あのくそ忌々しいじじいの紹介で、あのでってきたらお前ェよ、自分から首突っ込んでいくヤツに決まってるじゃねえか。いやまあなによ? 俺はお前にそこまで心配する義理も義務もねえけどよ、それでも一月旅を共にした仲間というか、名義上は俺の部下であるわけだし、まあもっとも今日で辞めちまうかたちになるわけだから心配も何というか…………義理だけになっちまうんだけどよ」


 まくし立てるような言葉が、最後だけかき消えるように、海風の中に消えていく。


「シド船長、感謝します」


 きっとこの船長も気がついていないかもしれないが、彼もまた、青年と同じく『じじい』に見込まれた人間のうちの一人なのだろう。

 そういうことなのだろう。


「他の船員の皆さんは?」

「下にいるよ。順番から言えば、うちのとなりの鮫の目号がはじめだ。それに便乗するかたちで、うちからも港に小舟を一艘出す。それにお前を乗せていくのが船長であるこの俺の役目よ。感謝しな」


 へへ、と笑うシド。


「荷物はもう乗せてあるのか?」

「ええ、塩水には弱いので、油紙で包んで背負い袋に。そのまま詰んであります」

「あのでけえのが、背負い袋ねえ。まあ中身は着ちまえばいいが……」


 と、そこでシドはもうひとつの荷物を思い出す。


「あと、あれはアレだろうけど、それほど物騒じゃねえんだこの国は。抜くんじゃねえぞあんなもん」

「わかっています」


 静かに頷く青年。


「いいな、もうこれで最後にするが――」

「『首を突っ込むな』『巻き込まれるな』『騒ぎを起こすな』ですね」

「……そういうこと」


 パンと青年の背をたたくと、彼の正面に回り、静かに頷く。


「あのじじいに見込まれた馬鹿は他に何人もいるらしいが、俺がまだひよっこのときに、ウチの親父の船で南に行った幼なじみがいてな。よく似てやがる。腕っ節が強かったが、じじいについていっちまった。今は何をしてるやらだな。生きてるとは思うが」

「――兄弟子は、壮健ですよ」


 遠く南に目を向ける青年のその静かな声色に、シドも釣られて目を向ける。

 船の間に見える水平線の向こう。


「そうか。元気か」


 シドも、そう呟き、じっと黙る。

 何も聞かず、シャールまで送って欲しいと頼まれた。

 封書には、忘れられないじじいのサインと、静かな嘆願が。

 一月前にそれを持ってきたこの青年の姿を、思い返す。

 悲壮感と充実感、不安と期待が綯い交ぜになった、不思議なまなざしと思ったが、青年の表情自体は自若泰然としたものだった。

 何かがあったのだろう。

 過去を消してまで、異国に赴く何かが。

 書面の言いつけを護り、「歳くらいは」という甘えすら捨てて、シドは一切を彼に詮索しなかった。

 彼もまた、真摯ではあるが隠し事をしたまま、誠実に船員たちと打ち解け合い、仕事をこなしてきた。

 そういう経験があるのだろうか。

 そんな詮索すら、シドは捨てることにした。

 ただ一度、彼の荷物を改める際、漆黒の鎧と使い込まれた一振りの剣を見たときのみ、強く事情を伺いたくなったが、それでも我慢した。


「お世話になりました。みんなにもよろしく」


 黄金の角そのものの入港はもう少し先になるだろう。

 シドの商船団の仲間である鮫の目号の上陸に相乗りすることで、かたちとしてはさっさと厄介払いすることができる。黄金の角のメンツは「いつのまにかいなくなっていた」、鮫の目のメンツは向こうの代表のみが「あいつは知らぬ」と言えば良いだけである。


「海の上では、な。まあ縁があったらまた会うこともあるだろうよ」

「そのときは。……とりあえずは、生きていかねばならないので」

「アテはあるのか?」


 と、これは詮索かとも思ったが、青年は件の紹介状を思い出し、「一応、今後訪ねる場所まではなんとか」と頷く。


「不案内だろうが、それもまた武者修行ってやつなんだろう?」


 シドもあきれ顔だが、身を寄せる先があることを喜んでいる。


「肩の荷が下りますか?」

「自分を厄介者扱いするんじゃねえよ。まあ厄介者だがな」

「はぁ」

「ほれ見ろ」


 あごをしゃくると、沖合の連絡船経由で鮫の目号のメインマストに赤い布がかけられる。


「マストの左に赤い布。上陸許可がでたぞ」

「……赤い布」


 ふと、思う。


「知らねえのか? あれはな、北を目指す者の許可証みたいなものだ。まあ古い慣習だが、海にはまだああいった合図が残ってるんだ。覚えときな」

「わかりました」


 青年は頷き返し、書けてあった麻のシャツを着ると、ブラシを手にする。


「それ片付けたら船尾に来な。小船を下ろして、上陸。俺手ずからの仕事だぞ? 重ねて言うが感謝しろよ? で、陸に上がったらさよならだ。な」

「もう少しだけお世話になります」

「おうよ」


 船長は船尾に、青年は倉庫に向かう。

 甲板を眺めながら、彼はもう一度、南の空を見上げる。

 しくりとする右脇腹をひとつなでると、彼は踵を返す。


「シャール帝国か」


 転じ、北に広がるそこは港であるが、彼の知る『街』の規模を凌駕している。生まれた国の領都に匹敵するのではないだろうか。

 しかしこの街にも、人が住み、良い者も悪い者も、住合い棲み分け生きているのだろう。


「ここにも風が吹いてるよ、みんな」


 そうひとつ呟き、彼は進む。

 やがて交わる、縁のために。




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