第二章 獄鎖の姫君

第1話『獄鎖の姫君』




 海は好きだった。

 彼女にとって、海からは悪いものがやってこないから。

 海が好きだった。

 人々が行き交い、新しいものがやってくるから。

 広がる意識を押さえつけるサークレット。頷くことさえ困難な、首かせに近い首輪。その首輪から伸びた鎖は、そろえられた両手首の籠手――手枷へとつながっている。

 小窓から朝日に照らされた海を潮騒を楽しみながら眺め、瞳に映る木の葉のような船の数々を追うたびに、その鎖がじゃらりと音を立てる。

 ぴくりと、耳が揺れる。

 左右の耳介に痛々しく通されたピアス、そして耳朶から釣られた小石ほどの大きさのイヤリングもまた、かすかに音を立てて揺れる。


「暑さも、盛りを過ぎたな」


 座っていた椅子から立ち上がると、その両足首からも、重い鎖の音が鳴る。アンクレットとは思えぬ鎖を用いた足かせが、彼女の自由を奪っている。

 それでもすらりと立ち上がる少女の姿は美しかった。

 今年十五の歳になる少女は、頭の後ろでまとめてなお腰まで届く漆黒の髪を揺らし、拘束具としか見えぬ装飾具を引きずりながら、さらに窓辺へと寄る。

 身につけている服は、恐ろしく古いものだった。

 深紅のドレスだったものだが、色あせ、擦れ、くすんでいるが、しかし力強いしなやかさで少女の身を包み込んでいる。


「もう十五年か。父上や兄上は、ご壮健であらせられるだろうか」


 海の向こうには、彼らはいない。

 今彼女が背を向けている北の地に彼らはいる。

 それでも背中に彼らを感じながら向く南の海に、彼女はやはり安心を覚えてしまう。

 窓辺。

 やや空けられた隙間から、フ――と、小虫のような黒い浮遊物が入り込んでくる。

 音もなく揺らぐように、少女の死角に回り込み、その首筋にサっと迫る。

 ぱちん。

 小さい音を立てて、その小虫が弾けるように消える。

 少女はフムとため息をつくと、重い手枷と鎖をあげながら、器用に首筋をなでる。


「窓を開ければ、このざまか。年々強まっているのは、確かなようだな。やはり」


 忌々しげな、しかし晴れやかな声の色。

 彼女はもう一度、海に目を向ける。

 構うものかと窓を開け放ち、胸一杯に潮風を吸い込む。

 ふと息をつくと、蒼空にちらちらと先ほどの小虫が見え隠れしている。が、彼女の視線にさらされるや、それに耐えきれぬようにぱちんと弾ける。

 彼女は、篝火だった。

 悪いものを呼び寄せる篝火だった。

 悪いものは、彼女がいかにその装飾具で身を覆おうとも、漏れ出す灯に群がろうとする。どうしても漏れてしまう、その灯を目指して集まってきてしまう。

 純銀の手枷――籠手。その手首は、擦過による赤黒い痣が後を絶たない。足もまた、そうだろう。いくら薬を塗り、厚手の布で覆おうとも、その強固な拘束具は乙女の柔肌をいとも簡単に苛む。


「もう、十五年か」


 を引き寄せるために生まれて、十五年。

 を生むために生まれて、十五年。

 自分の中の灯を御するために、この代々の女王が身につけていた拘束具を受け継ぎ、十五年。

 少女の名前は、エレア。

 帝政シャールの末姫であり、国王とは別個の王権を持つ『女王』が確約された少女。

 エレア=ラ・シャール。

 身につけているものは、歴々と受け継いだ拘束具。その不思議な力に負けるため、靴も履くことが出来ない身の上。作りはしっかりとしているが、質素な土の床、替えの利く丈夫な木のベッド。

 王族の部屋とは思えぬそこは、堅牢な元砦の一室。

 帝国一の港町からほどよく離れた、旧大街道を分断するように建てられた、丘砦。

 まるで幽閉。

 まるで軟禁。

 そのすべてを受け入れた少女。

 それが、彼女、エレア=ラ・シャールだった。

 彼女は海は好きだった。

 海からは悪いものがやってこないから。

 海が好きだった。

 人々が行き交い、新しいものがやってくるから。

 帝国のある亜大陸の南には、悪いものも、不思議な力もない島大陸があるという。貴族共和制のその国との交易の中で伝え聞く、人々の争いこそあれ平和そのものな情景に、彼女はふと頬を緩める。


「どのようなものなのだろうな、南の国は」


 エレアの述懐は、今し方一声かけようと部屋の前に来ていた侍女へ投げかけられたものだった。

 じゃらりと振り向き椅子に腰掛け直すと、エレアはその侍女に頷き返して部屋へと入れる。


「また南の国のお話ですか」


 侍女。

 こちらは、エレアよりも歳が重なった、二十歳ほどの女性である。髪は短く肩で切りそろえられており、何より優しげな風貌と併せて人を和ませるちょこんとした佇まいに、ふとエレアも肩をすくめて苦笑する。


「街は祭りの話で持ちきりらしいな」

「そうですよ。なにせ、年に一度の棚卸し祭りですから。各地から掘り出し物を求めて買い付けに来ますからね。ありきたりなものまで安くして在庫一掃としたい商家は山ほどひしめいております。もうすぐ港の解禁日ですから、姫様がおっしゃる南の島からも、いろいろな船が来る時期にさしかかります。賑やかになりますよ」

「であろうな。賑やかになればなるだけ、悪いものもたまってしまうだろうがな」

「そこは、騎士の皆さまが何とかするでしょう」


 あっさりと言ってのける侍女の声に、さすがにエレアも釣られて笑ってしまう。

 彼女は、エレアが『悪いもの』を受肉させてまで自分に引き寄せてしまうことを罪と思ってはいないのだ。それについて起こる多少の被害は、すべて国の責任として考えている。割り切っている。心の底から、整理をつけているのだ。

 そこがエレアには嬉しくもあり心苦しくもあるところで、彼女自身自分を責める部分があるだけに、盲信とも受け止められる彼女の態度には、危ういものを感じるのだ。


「コティ」


 エレアはそんな侍女の名前を呼び、招き寄せる。

 心得たようにコティは座した彼女の前にひざまずくと、脇に控えていた手桶から温かい湯に浸された手拭いを絞るように手にする。

 彼女がそれでぬぐうのは、少女にしては堅くなりすぎた足の裏だった。

 角質は土の床で鍛えられ、かかと、側面、指の先まで、くすんだ分厚さを見せている。

 重い足かせが刻む擦過の後をもゆっくりと洗い清めながら、コティは、これが少女の体に刻まれた仕打ちであって良いはずがないと、何度も心の底に言葉を飲み込んでいる。


「さすがに、姫様が足を洗わせるのは私だけですからね」

「あたりまえだ。恥ずかしい」

「恥ずかしくないですよ」


 それは足を洗って貰う行為のことなのか、少女に似つかわしくない足のことなのか、そこははっきりと言うことはしない。

 ただ、笑うだけである。

 この重い足枷と、腕につながる鎖。

 純銀のそれは鉄よりも重く、普通ならば少女がここまで動ける代物ではない。

 乾いた布で足をぬぐい直すと、コティは「はい、おわりです」とその足をゆっくりと下ろし直す。


「土の床は、使い込んでいても足が汚れるからな」

「それでも、石の床よりは足が痛みませんから」

「まったく、自分のことながら難儀なものだな。ふと気を抜くと身につけたものがはじけ飛ぶのだから」

「最近はとんと粗相はしなくなりましたけどね」

「オネショみたいな物言いをするんじゃない。……似たようなものではあるがな。もとより、この装身具の余波で並のものでは常用に使えぬ。さりとて、これを外すこともそうそう出来ぬしな。もどかしいと思う時期はとうに過ぎたが、面白みがないと思うくらいには私も女として成長してると見える」


 コティもその言葉に、やや悲しげに目を伏せる。

 叶う望みの薄い希望を口にするこの姫に、少女に、心からの悲しみを覚えるからだ。


「この忌々しくもありがたい封身具を外せるのは、ベッドの上で寝るときのみ。いいかげん自由の身というものに焦がれるのにも飽きてきたが、過ごせば過ごすほどに歴代の女王には頭が下がる思いだ」


 さて、とエレアは居住まいを正す。

 それにならい、コティもその膝下に控え直す。


「人の流れに乗り、この年もまた、悪いものがこの港に――私に向かいやってくるだろう。苛烈な『外側』の防備は、兄上たちが凌ぐだろう。しかし、余波によりこの街で生まれる小者の発生ばかりは抑えられない。海開きとともに、警戒を密にせよ」

「承知いたしました」


 首肯するその一瞬だけ、茫洋とした優しさが引き締まる。


「このコティ、部下共々、姫様のご恩に報いるために一命を賭す所存でございます」

「うむ。……まあ、そういうのはほどほどにな」

「そういうわけには参りません」


 エレアの苦笑に主従の空気が転じて和やかなものになる。

 そのややもの悲しさを含むやりとりの中、エレアはじゃらりと立ち上がり、支えるように寄り添い従うコティとともに、窓辺へと鎖を引きずり、立つ。


「なぜ悪いものは、北から来るのだろう」

「北国の果ての山に悪いものの巣があるという伝承がありますが」

「眉唾とも言い切れんな。悪いものの通り道たる北国は、戦闘士が組織されるまでは地獄だったと聞く。いかにシャールといえども、北国に使者を送ることもできん。調査もできん。それなりに凌げるようになり、いつ始まったかも定かではないこの流れをどうこうしようという者もほぼいなくなった」

「私どもが」


 コティは己が胸に手を当て頷く。

 それは彼女を、エレアを文字通り重い鎖のくびきから解き放つために。

 大恩ある少女の自由のために。


「そのためならば、魔導帝国シャールを揺るがすことになろうとも」


 そうコティは続けるが、エレアはあえてそれを聞かぬ様子で肩をすくめる。


「街を、人を護り、なおかつ北を探れる者か。……このような幽閉の身、限定された権力しか持たぬ身、思うようにはいかんものだな」


 もう一度、背に北を、父と兄たちの気持ちを感じながら、南へと目を向ける。


「私の代でどうこうしようとは、どうこうできようとは思わんが、この忌まわしい因習のきっかけはつかんでおきたい。単に、力と、力に群がる羽虫としておくには、やや過ぎた力だからな」


 コティは心中、「歴代最強」という彼女への評価を飲み込む。


「――海は好きだ」


 気持ちを切り替えるように、エレアは明るく、静かにつぶやく。


「海の先か。船乗りたちの言う、悪いもののいない国。見てみたいものだな」

「いずれは……」


 願望と決意を込めたつぶやき。


「しかし今年はどのようなものが来るのだろうな。海が開かれれば市も賑やかになる。さすがにこの身でお忍びはできんが、馬車から見学くらいは出来るだろう」

「お供いたしますわ」


 くすりと笑うコティ。





 海を臨み自由を望む姫。

 彼女を支えるために身命を賭す侍女。

 ふたりは、じっと海の果てを見る。

 南から来るであろう、何か新しいもの、良きものを期待して。

 水平線の先に控える、水面に浮かぶ木の葉のような船影に向けられた期待のまなざしは、どこまでも静かで澄んでいる。

 その木の葉。

 南の国からこぼれた落葉が流れ着くのを、彼女たちはじっと、待つのであった。




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