リミルリ、『稲穂』を受け継ぐ

 きゅきゅに言われるがままリミルリが歩いて来たのは、凡そ人が近寄ることのないであろう山奥にある切り立った崖の近く。踏み外したら大変なことになってしまう。

 それでも近くには綺麗な水が沸いているし、食べられそうな野草も多い。一応は生活できそうだ。


『暫くここで暮らしながらお勉強きゃ』

「お勉強?」

『そう。荷物を置いたらさっき買った服に着替えてきゃ』

 リミルリは言われた通りに着替えるが、きゅきゅは少し顔をしかめる。

 確かにここはひとが来ないような場所であるが、それにしてもいい脱ぎっぷりだ。恥じらいというものも教えないといけなさそうだ。



「なんかスースーするよ」

 今までリミルリが着ていた服は厚手でだぼっとしていた。それに比べたら今のシャツとスカートではかなり薄い。だが以前の服装とは比べものにならぬほど体の動きがはっきりわかる。

『じゃあ最初に一番の基本になる歩き方から教えるきゃ』

「歩き方って教わるものなの?」

『綺麗な歩き方は意識しないとできないきゃ』

 これまで誰も教えてくれなかったし、注意されなかった。それを修正しなくてはならない。まずは真っすぐ立つところから歩かせる。


『歩くときはつま先を常に前へ向けて』

「つま先を? なんで?」

『つま先を前に向けると膝も前に向くからきゃ』

「膝が前に向くとどうなるの?」

『洗練された女の子がガニ股とかないきゃ』

 オラつくチンピラではないのだ。紳士淑女であれば歩き方ですら気を付けなくてはならない。文字通り一挙手一投足、全てに気を配る必要がある。


『膝から前に出して、その後足先を前に……足上げすぎ。行進してるんじゃないのきゃ』

「うぅ、歩きづらいよ」

『軸足の膝は曲げたままにしない! ちゃんと真っ直ぐ伸ばして!』

 きゅきゅはリミルリにまず綺麗な歩き方を教えることにした。


『そうきゃ。常に歩き方を意識するのきゃ』

「ずっと繰り返していれば考えなくてもそう動けるようになるみたいなやつ?」

『違うきゃ。ずっと意識するのはいつまでも変わらないきゃ。そうすれば──』

「そうすれば?」

『意識するのが当たり前になるのきゃ』

 無意識でそう動けるようになるのではなく、意識しているのを通常にするのだ。人間の体は足先が開くようになっている。だから無意識下に置こうとしても自然に開いてしまう。


『それと手を大きく振っちゃ駄目きゃ』

「どうして?」

『人が多い場所でそんなに手を振ったら誰かにぶつかるからきゃ。自分は人の多い場所の歩き方を知りませんと言っているようなものきゃ』

「ううぅ、大変だよぉ」

『ほらわきが開いてる! もっとしめて!』

「はいっ」

『おしり振らない! 媚を売ってるみたいじゃない!』

「はいぃぃっ」

 何度も何度も修正させ、ぎこちなくはあるがこれでいいだろうくらいの歩き方ができるようになった。


『じゃあそれを暫く続けるきゃ。その間あたしは石鹸を作るきゃ』

「石鹸? 灰と動物の脂だっけ?」

『塩水と精油を魔法でうんにゃうんにゃしてれば作れるきゃ』

 どうすれば作れるかはわかっているが、どうなって出来上がるのかはわかっていないようだ。とりあえず完成すればいいという適当な発想である。



『石鹸もできたし、そろそろ体を洗うきゃ』

 きゅきゅは近くにあった大岩の上部を魔法でゴリゴリ削り2つのバスタブのような窪みを作る。そこへそれぞれ水を溜め、加熱する。


『まずこっちのお湯に入ってきゃ』

「うん……あっ、気持ちいい」

『あたしがいいって言うまでゆっくり浸かるきゃ。髪もよく湿らせて』

 暫くお湯に体を浸らせ、垢を出しやすくする。それからもうひとつの窪みに入り、石鹸を使い体を綺麗にするのだ。垢や脂の浮いた水では石鹸があまり役立たないからまず落とさねばならない。


『んー、思ったほどお湯が汚れないきゃ』

「そうなの?」

『さあ?』

 長い間洗っていなかったのだから垢や脂が相当出るはずなのだが、リミルリからはそれらが出ていない。お湯の汚れは土や埃のせいだ。片方の窪みは汚れを落とすために作ったのだが、これだとあまり意味がない。きゅきゅがっかり。

 仕方がないのでもうひとつの窪みでリミルリの服を洗うことにした。


 そしてザバザバとお湯に浸かりつつ髪をとかそうとしていたリミルリの指が、やたらと髪に絡んでいるのに気付く。

『この髪の量を洗うのは大変だし、いっそ切っちゃうきゃ』

「えっ、切っちゃうの?」

『こんなガサガサでガビガビの長い髪だと手入れできないきゃ、一度切って洗いやすくしてから伸ばしたほうがいいきゃ』

 切ると言われてからリミルリは自分の長い髪をじっと見つめる。


『切るの嫌?』

「嫌とかってわけじゃないけど、髪切ったことないからどうなるのかなって」

『あたしも髪を短くしたことないからわからないけど、多分さっぱりするきゃ』

 稲穂時代、腰くらいまであった髪は常にその高さで切り揃えられていた。黒く真っすぐな美しい髪は、母が周囲にしていた数少ない娘自慢のひとつだった。


『もうちょっと下。もうちょっと……そこっ』

 きゅきゅの指導のもと、リミルリはナイフで髪を切る。長い毛の塊がごっそりと落ちていく。

『終わったら水に酢を少し混ぜて髪に馴染ませて』

「うん? うん」

 理由はわからないが、きゅきゅに従う。

 石鹸により開いたキューティクルを酢を混ぜたことにより酸性になった水で閉じさせるとツヤツヤの髪になる。リンスの代用として酢はよく使われるのだ。


『あれ?』

「どうしたの?」

 (リミってひょっとしたらものすごい美少女?)

 うす汚れた顔にぼさぼさの髪だったリミルリだが、今は汚れを落とし髪も切ってよく顔が見えるようになった。今までじっくりと見ていなかったその顔は、きゅきゅが驚くほどの美貌を持っていた。

 これはひょっとして凄いことになるかもしれない。きゅきゅはリミルリの今後が楽しみになってきた。



『綺麗になったところで今度は食事マナーを教えるきゃ』

 片手間で椅子とテーブルまで作ってある。とても雑に作ってあるため、少しでも揺らしたら崩れてしまうだろう。それもまた狙いだ。

 そして座り方まで指導し、やっとテーブルにある皿の上を見ることができた。

 だがそれをみてリミルリは悲しそうな顔をする。


「草ばかりだよ」

『あたしが拾ってきたものばかりだからきゃ』

 きゅきゅが実食して大丈夫だったものが皿の上に載っていた。野性時代に母狐から教わった知識が役立っている。

『これをフォークとナイフで食べてきゃ』

「む、難しい……」


 リミルリがフォークを皿に当てた瞬間、きゅきゅはリミルリの耳元で吠えた。

「あうっ」

『皿にナイフやフォークが当たったら怒るきゃ』

「そんな……どうやって食べればいいの?」

『途中で止めることを心がけて食べるきゃ』

 そんなことは理想でしかなく、皿になにも当てず食べるなんてほぼ無理だ。

 きゅきゅもそれはわかっているが、ここは厳しく指導していく。



 やっと食事が終わったところで、きゅきゅはリミルリにロープを木に2本くくりつけさせ、崖に垂らす。リミルリが体を洗っている間にきゅきゅは崖を少し降りたところに横穴を掘っていた。寝ている間に魔物などから襲われないためだ。

『今日はここまでにして、明日からはもっと頑張ってもらうきゃ』

「うん……」

 リミルリはその穴にもそもそと入り、毛布を体に巻き付けた。


「……うぅ、ぐすっ……」

 リミルリは寝床で丸くなり、泣いていた。


 (ごめんリミ。辛いのはわかるけど、これをクリアしないと町に入れないんだ)

 この世界も優しくない。いや、この世界のほうが優しくないだろう。

 地球であれば差別などをした場合、それを咎める社会ができつつある。だがここはそこまで文明が行き着いていない────というよりも、魔物などがいるせいで平和とは無縁に近い生活を営んでいるのだろう。そのせいもあって思想は弱肉強食寄りである。


 だけど説明は必要だ。仲間たちとはぐれ、やっと見つけた町からも逃げるように出てしまった。それなのにきゅきゅからこの仕打ち。泣いてしまうのも無理はない。リミルリはまだ8歳の子供なのだ。

 きゅきゅは人間のとき、説明もなしに物心ついたころから当然にやらされていたから、これが何故必要なのか教えるのを失念していた。だがこれはいけないと反省する。

 黙って言われたことをやればいいというのは駄目だ。リミルリは聡いからきっとわかってくれる。明日どう説明しようかと悩みながらきゅきゅは丸くなった。



『リミ、大切な話があるの。聞いて』

 翌朝起きたリミルリにきゅきゅは話すことにした。

「う、うん。でも……」

『でも?』

「いつもと話し方が違うから気になって」

『これから話すのは、人間だったころのわたくしからの言葉だから』

 きゅきゅの人間時代の話をちゃんと聞くのは初めてだ。リミルリは座り、しっかりと聞く姿勢になった。



『いい、リミ。人間の世界、町とかはとても残酷なのよ。

 だけどひとのいないところで子供が生きていけるほど、町の外も優しくないわ。

 ならばやることは町に溶け込めるほどの振る舞いを覚えるか、町のひとでは手出しできないくらい高貴な存在になること。

 前者であれば然程難しくないけれど、わたくしはあえて後者を選びます。貴方には苦労させるけど、これがクリアできればきっと楽になります。だから頑張って耐えて欲しい』


「でも、そういうのって生まれつきのものなんじゃないの?」

『そんな馬鹿な話はないわ。生まれたときの人間はみんな差がないのですから。問題は環境と教育。いいところを伸ばすよりも、駄目なところを徹底的に叩く必要があるのよ』

 きゅきゅ────稲穂は、幼少からずっとそういった教育を受けてきた。だからこそわかる。あれは生まれながらに持ったものではないと。

 厳しく躾けられ、叩き込まれ、ようやくできるようになったのだ。たかが血筋程度でどうにかなるものであれば、あれほど大変な思いをしなかっただろう。


「聞いてもいい?」

『なにかしら?』

「この世界ときゅきゅちゃんの世界だと、礼儀とかそういうのが色々違うと思うんだけど、どうなのかな」

『異なるでしょうね』

「それじゃやっても意味ないんじゃない?」

『関係ありません』

「ええっ!?」


わたくしのいた世界でも様々な国があって、それぞれで礼儀や作法が全くこ異なっていました。ですが正しく動ければそこに品性を感じさせることができ、そのひとがどのような育ちなのかわかるのです』

 日本と海外で礼儀や作法は全く異なる。だが美しい動き、洗練された動きというものは見ればわかる。どのような作法だろうと、最終的には無駄なくぶれなく流麗なものとして出来上がるのだ。


 頭の天辺からつま先まで、全ての動きから無駄を消す。物で言うなら機能美。それを洗練という。きゅきゅはリミルリにそれをさせようとしている。


「そっか……きゅきゅちゃんは作法とか詳しいの?」

わたくしは────』


 きゅきゅは人間だったころの話を語った。リミルリに伝わらない、わからないようなことも多かったが、全て丁寧に教えていった。

 どういった教育を親から受け、どのように育てられたか。それはリミルリには夢にも思っていなかった貴族たちの生活の様子だった。


『リミにはそんなわたくしが人間として過ごした17年間の全てを差し上げます。短期間で覚えるのはとても辛いでしょうけど、私が無駄にした一生は、きっと貴方に役立って頂くためにあったのです』

 稲穂だったころの話を聞き、リミルリは自分の胸をぎゅっと掴む。昨日は厳しく辛いことをやらされたと思ったが、稲穂はそれを17年続けさせられていたのだ。どれだけ大変だったことだろう。

 それなのにその全てが無駄になってしまった。それがどのように絶望を与えたことだろうか。彼女の17年間には決して楽しいことはなく、辛いだけの日々だった。それを理解したリミルリは強い目できゅきゅを見る。


「わかった。私、やるよ! きゅきゅちゃんの人間だったときの努力、無駄じゃなかったって思って欲しい!」

 それを聞いてきゅきゅ────稲穂は、全てが救われる気持ちになった。

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