第四十九話 救出編㊾

 腰にザイルを巻く練習を何度かした後、私は階下に降りた。

 キッチンではちょうど母が夕食の準備をしているところだった。

 母が私に言う。

「いいタイミングね。おかずできたから、ご飯をよそってちょうだい」

「わかった」

 私は母の茶碗と自分の茶碗に炊飯ジャーからご飯をよそう。父はビールを飲んだ後にご飯を食べるので、父の茶碗は手に取らない。

 リビングでソファに座ってニュースを観ている父に声をかける。

「ご飯、できたよ」

「おう。今行く」

 父はいつもの調子で答えた。

 野球の練習で弟のあつしがいない中、食卓で父と母と三人で夕飯を食べる。

 父はおかずのコロッケをおつまみにしてビールをうまそうに飲む。

 母はいつも通り、白米とおかずを綺麗に交互に口にする。

 一方の私は女子生徒のことで頭がいっぱいだった。おかずのコロッケをはしからポロリと落としたりする。

 そんな私を見て、母が注意する。

「食べ物を粗末にしちゃ駄目よ」

「わかってる」

 私の返答は半ば投げやりになっていた。今は女子生徒と橋で落ち合い、何から話せば良いかということばかりが頭を占める。

 結局、私は夕食を残した。ご飯が喉を通らないのだ。

 父と母は驚いた。

 ビールが注がれたジョッキを食卓に置くと、父が目を丸くした。

「何? お前が夕食を残すのか? ダイエットか?」

「いや、そういうわけじゃないけど。何かお腹いっぱいなの」

「コロッケもまだ残ってるぞ」

「ごめん、食べれそうにない」

 母も心配そうな顔で私を見る。

「最近、ちょっと様子が変よ。そういえば、この間もいきなり変なダイエットを始めたかと思ったら、すぐに辞めちゃったし。それに、何だか時々思い詰めたような顔をしてるときもあるし」

 前任者の美少女からザイルを受け取り、次の女の子を助けるために、私は動いてきた。しかし、それは私にとってつらいものであった。

 母は気付いていたのだ。私に何かしらの異変が起きていたことを。

 母は真剣な表情になってさらに尋ねる。

「学校で何かあったの? お母さん、お父さんの病気のことで、あんたやあっくんのことまで気を回すことができなかったから、心配してたの」

「私は大丈夫」

「本当に?」

「本当。確かに、お父さんががんだとわかってショックを受けた。しかも、三ヶ月の命だって聞いて、本当に辛い思いをした。でも、お父さんの癌はなくなった。もう、何も心配はしてないよ」

「ならいいんだけど」

 私は嘘をついた。

 父の癌がなくなったのは、私が桐生きりゅう君というイケメンから告白を断り、学校でのいじめに耐え、前任者の美少女を橋から落とすか否かという順番的試練を乗り越えることができたためだ。

 さらに、私はもう一つの試練を受け入れることになった。次の少女の身の周りに起こる不幸を打ち消すこと。このことは、自分の父親の病気を無くすよりも難しい工程だったかもしれない。私が女子生徒の誘導を間違えれば、女子生徒が救いたい命を救えなくなってしまうかもしれないからだ。

 そういう意味では、ここ最近の私は普段の私ではなかったかもしれない。

(でも、それも今夜で終わる)

 私は食卓から立った。

 余ったコロッケを父の皿に乗せる。

「ごめん。本当に食欲がないの。お父さん、コロッケ好きでしょ? 食べて」

「あ、ああ」

 父はそんな返事をした。

 私は茶碗に残ったご飯を炊飯ジャーに戻した。

「ごちそうさまでした」

 そう言うと、私は食卓を立った。

 二階の自室に入ると、やることがなくなってしまった。

(明日は英語の授業はない。予習はしなくても大丈夫だ)

 そう思った瞬間、私は心の中で苦笑した。

(これから人生の一大事が起ころうとしてるのに、明日の英語の予習を案じるなんて、私も馬鹿だな)

 私は部屋の中の壁掛け時計を見た。

(約束の夜中の一時までだいぶ時間がある。少し、眠っておくのもいいかもしれない)

 私はスマートフォンを手にし、ベッドに横になった。

 三月も半ば。だいぶ、気温も暖かくなってきた。

 私はスマートフォンのアラーム機能を二時間後にセットした。二時間も眠れば、頭がスッキリするだろう。

(今日の深夜が勝負なんだ。眠気に襲われた状態で女子生徒と会うのだけは避けたい)

 私はそう考えると、ゆっくりとまぶたを閉じた。

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