冬の大祭 (5)

「何だ、あいつ?」

「どこから出てきたんだ」


 クロアの異様な気配は、獣型の相手をする傭兵たちにも伝わった。手綱を引き絞るように警戒が強まる。空気の重さ、鋭さまでが一変した。

 クロアはそんな傭兵や青服たちをちらりと見やって、すぐに興味を失ったふうにシャイネに向き直った。人型だ、と告げるのも躊躇われて、沈黙を保つ。


「シャイネ。こちら側の仕組みは、もう知ってるね? 女神が枠組みを創って、精霊

が彩りを添えた。ヒトは増え、栄えた」

「母に聞いた」

「では、私たちが女神の創造した世界に対して、飽和を食い止める役割を担っていることは?」

「ほうわ?」


 兵たちは見慣れぬ黒い女に興味や不審を露わにしているが、勢いを増した魔物の相手で手一杯だった。

 無援だ。けれども、いつの日かこうして、クロアとまみえる日が来る予感はあった。


「いっぱいになる、ということだ。入れ物がある。中身が増える。すると、どうなる?」

「あふれる」

「もしくは、入れ物が壊れるか、だ」


 入れ物が壊れる。口の中で繰り返す。こちら側が―世界が、壊れる? 想像は難しかったが、最悪の事態であることだけは理解できた。半魔は歌うように節をつけて言う。


「世界は飽和する」

「魔物が、それを止めるって?」

「そう。中身を減らすことで、飽和を遅らせる」

「それは、正しいことなの?」


 半魔は唇を歪めた。その弱い笑みは、嘲笑ではなくて、むしろ困惑に近い。


「正しいとか、間違ってるとか、解釈は関係ない。女神の敵、と言っただろう? おまえがそうしてヒトの隣に立つのと同じで、私たちは世界の充実を阻むため、ヒトを間引くために戦う。そうして、未完の世界を維持するんだ」

「よくわからないけど……人が増えてはだめってこと?」


 そうじゃない、と黒い女は首を振る。


「女神は世界を創り、そのゆく末を見守る。精霊は世界を豊かに美しく彩る。そして私たちは、世界の繁栄と充実を阻む。繁栄の果てに飽和があると、そういうことだ。人が増えること自体が悪いわけじゃない。それぞれ、役割があるということだよ」


 よほど難しい顔をしていたせいか、クロアはひとつ息をついて続けた。


「女神が遊戯盤を用意し、約束事を設定する。私たちは遊戯盤の上で、約束事に従って女神の上がり、つまり世界の繁栄を阻止する。精霊たちは遊戯盤に隠された仕掛けを自在に操り、色や形を変えることができる」

「あがり、を、阻止する……。クロアたちは、世界を壊すのではないの?」


 話の規模が大きすぎて、少しも理解できる気がしない。仮に女神に目的があったとして、それを自分たちが理解し、咀嚼できるものだろうか。


「繁栄を阻むことを壊すと言いならわしてるだけさ。立場によって表現は変わるだろう、同じ事象を表しているのだとしてもね。要するに、魔物と精霊では立場がまったく違うんだ。何を言われようとも、私は覆らない」


 わかり合うことも、手を引くこともしない、と彼女は歩み寄りを拒絶する。


「本当は、私だってこんな危険な、大がかりなことはしたくなかった。けれど、いまの女神の子はいけない。あいつは遊戯盤に手を加えすぎたから、王たちの怒りを買ったんだ。卵であちらとこちらを切り離してしまおうなんて、そんないかさまを続けられちゃ困るんだよ」


 彼女は怒っているふうにも、嘆いているふうにも見えた。理解の及ぶところではないが、女神の子の命を奪えば、女神は上がりから大きく後退するわけだ。王たちに聞いた話とはずいぶん印象が異なる。


「本当に、よくできた遊びだ」


 言いながら、頬が歪むのを自覚する。ゼロと出会い、旅をして、泣いたり笑ったり、喜んだり怒ったり、時には睦言めいた冗談を交わして。心を震わせ、生命を燃やす日々、それらすべてをあちらの事情でくくられ、つまらぬものように扱われるのは不愉快だ。

 広い広いこの世界で人生が交差し、絡みあう。かけがえのないひとつきりの人生を、重ねてきた時間や経験を、取るに足らぬものと言われて、はいそうですかと納得できるはずがない。

 女神の目的? 世界の飽和? 知ったことか!


「どうする、シャイネ? 選ぶ自由はある。ヒトの側に立つか、それとも、精霊の姫としてヒトを裁くか?」


 アンバーを退けたいのはシャイネとて同じだが、魔物と手を組めるかと問われれば、断固として否だ。

 父の脚を潰し、狩人としての生命を絶ったのは仲間であるヒトで、半精霊として生まれたシャイネを蔑み、唾を吐き、拳を振り下ろしたのもヒトだった。愚かで、欲深く利己的で、狭量で野蛮で。

 けれども、シャイネを慈しみ、信じて守り育て、愛してくれたのもまた、ヒトなのだった。

 人に愛されたシャイネは、人を愛することができたし、愛していた。悩む要素などひとつもなかった。


「それだけはできない。人の過ちは、やっぱり人が裁くべきだと思うから。僕たちがあっちの関係を理由に手出ししちゃいけないと思う」


 クロアは薄く笑った。答えは予想できていたのだろう。相容れない存在であることが浮き彫りになるだけだと。


「では、私を止めればいい……スイレンの子、シャイネ」

「初めから、そのつもりだ!」


 身を絞って叫び、振り下ろされた剣を半身になって躱す。軽やかに地を蹴って半魔の胸元に飛び込んだ。




 シャイネとは違い、半魔クロアは魔物の力を巧みに使いこなす。あちらを渡り、手練れの狩人を上回る身体能力を備え、大小さまざまの魔物を使役する。

 しかし、止めなければならない。負けるわけにはいかない。

 両手で横薙ぎにされた剣をすんでのところで避け、剣を引く腕に絡めてディーを突き入れる。切っ先が服の袖をかすめたが、肉を裂くには至らない。大地に命じて地面を隆起させたが、軽く跳んで避けられた。

 クロアの剣技は相当なものだった。ゼロにも遅れは取るまい。シャイネは技術の未熟を精霊のわざで補いながら、決め手となる一撃を放つ瞬間をどうにか見出そうとしていた。

 なにせ、隙がない。彼女は精霊召喚にも動じず、肉厚の剣を軽々と扱う。飛び跳ね、剣を振るい、渾身の突きをいなして平然としている。まさに魔物の王に連なる風格と実力だった。

 シャイネが精霊を召ぶようにクロアが魔物を使わないのは、手加減されている何よりの証しだ。彼女が大型の鳥を招けば、それだけでこちらの敗北は決定する。

 肉体的にも、王の血を引く者としても劣る。頭をもたげる焦りと絶望を押し込め、ただひたすらにディーを振るった。

 ほんの少し。ほんの少しでも届く可能性があるのなら。

 膝を折ってはならない。剣を手放してはならない。諦めを受け入れてはならない。


「ははっ」


 距離をおいてクロアが笑った。服が裂け、いくつもの傷を負い、人のものよりは黒い血が流れている。どの傷も致命傷にはほど遠く、動き回るのに支障もなさそうだ。それに比べ、シャイネは剣を握っているのがやっとの有様である。息をするたび、傷口から血がこぼれた。骨が軋み、肉は悲鳴をあげる。


「強くなったな。退けない理由があると、こんなにも違うものか。マジェスタットでばっさりやっておくんだったよ。好奇心もほどほどにすべきだという教訓かな」


 わずかに注意を逸らしたクロアにつられて東に視線を投げる。遠くでゼロとイルージャが激しく打ち合っていた。部下の青服たちはことごとく獣型にまとわりつかれ、足止めをくらっている。


「あんな命知らずな女神の子は、見たことがない」


 呆れたふうに肩をすくめたものの、クロアは楽しげだった。


「もう一人みたいに、安全な場所に逃げ込まれるより、こうして剣を合わせる方がやりがいがあるってものさ。勝っても負けても、悔いが残らない。違うかい?」

「……そうだね」


 剣を交えていても、クロアに対する憎しみや恨みはなかった。悔しいのは己の未熟、非力さであって、それ以外の何でもない。

 身を支えるのは信念であり、誇りであり、矜持であり、譲れぬ一線を守らんとする意志、決意だった。己が何であるか、相手が誰であるかは二の次で、むき出しの気迫をぶつけ合う純粋な勝負だからこそ、周囲の状況を気にせず向き合っていられるのだろう。


「うん、確かにそうだ。でも……だからこそ、負けられないんだ、クロア」

「私もだよ」


 話は終わった。シャイネが仕掛ける。軽い跳躍で間合いに飛び込み、眼、鼻、眼、と顔面狙いの突きを繰り出す。避けられるのは計算のうちで、逃れた影を縛り、動きを封じた。一瞬、動きの鈍った彼女の右手めがけ、ディーを振るう。


「つッ!」


 鋭い呼気とともに、浅黒い膚から血が噴き出した。怯んだのもわずかのこと、痛みも出血もものともせずにクロアが剣を振るう。引き戻しが遅れた右腕がすぱりと切れた。

 クロアは大きく踏み込み、自在に剣を振り回す。急所狙いの正確さこそなかったが、剣を避け、受け流すシャイネを疲労させるには十分だった。肉厚の剣はこちらの簡素な胸当てなど、綿のようにやすやすと切り裂くだろう。下手に受けようものならディーが折れる。楯も持っていない。

 このままだと押し負ける。彼女は魔物を使わない、ならば剣をどうにかすればいい。

 ふと思いつき、ディーを握り直して斬撃に備えた。思いつきはしたが、実行は難しい。呼吸を読み、一瞬の間隙を見逃さずにいられるだろうか。

 距離があれば逃げられるから、確実にシャイネの間合いに持ち込まねばならない。それはつまり、彼女の間合いでもある。いや、危険でない手などあるはずがない。

 低い一閃を跳び退って躱し、鋭く速い突きを身体を開いて避けた。長剣が引き戻され、クロアの両腕がなめらかに剣を持ち上げる。

 一連の動きがひどくゆっくりに見えた。汗でぬめる右手に力を込める。

 剣の長さは身体が覚えた。地を掠めてクロアの胸元に飛び込み、刺突剣を寝かせる。振り下ろされた長剣を鍔元で受け、ディーを叱咤した。


『お願い!』


 鉱は忠実に応えた。噛み合った鋼が震え、クロアの剣が錆に覆われる。


「な……!」


 クロアが初めて表情を崩した。長剣とシャイネを見比べる朱金の眼は驚愕に見開かれている。

 それは、彼女が初めて見せた隙だった。

 シャイネは手首を返し、力強く踏み込んだ。無心のまま、型通りの動きで刺突剣を突き立てる。胸の骨を掠めて深く貫く。


(……ああ)


 父から何度も何度も教わった、人体の急所。半魔もまた、身体のつくりは人と同じだった。

 クロアが傷口を押さえ、信じられないという表情でゆっくりと前のめりになる。黒い指の間から血がこぼれた。

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