攻防
攻防 (1)
傭兵の雇い主ジェン・カッツは布地から手芸小物まで、縫製にまつわる品を手広く商っている。
主な卸先は仕立屋や手芸用品店だが小売りもしており、学問の都に置いた本店のほか、この東西の街道沿いの宿場町にいくつも、遠くはマジェスタットにまで支店を持っているとのことだった。
筒に巻かれた繊細なレース、甘やかな造花、貝やガラス、木、石、様々な素材のボタン、花畑のような刺繍糸。針や指貫き、刺繍枠。店舗に並ぶ品々は、うっそりと重く垂れていた心に光を当て、華やかに彩った。
無骨な傭兵の街にあっても、衣服や装身具の需要はある。強い繊維の鎧下、あるいはいくらでも替えが必要な旅装。
もっとも、装身具というのはシャイネが想像していた日用品ではなかった。ナルナティアが耳打ちしてくれたところによれば、花売女への贈り物なのだそうだ。血の気の多い流れ者の街ゆえに、色街も大きい。人気店の売れっ子の馴染みになれば傭兵社会での泊もつく、らしい。気持ちのいい話じゃないけど、と彼女は唇を曲げる。
仕入れの旅に同行しているのはジェンの長男と末娘で、奥方と間の娘は本店に残って店番をしていると大店の主人は朗らかに語った。聞いていたとおりの気持ちの良い人物で、護衛や旅の間の必需品や経費を最低限に抑えて乗り切らんとする悋気とは無縁のようだ。
食事は朝昼夕の三回、休憩はその間に二回。宿場町に宿を求める無理のない行程で、大所帯ゆえによほどのことがなければ野宿はしない。ジェン自身も慣れた道であるらしかった。
「心配なのは魔物だね。こちらに来たときはさほどでもなかったが」
彫りの深い顔立ちに憂いを浮かべ、ジェンは広げた地図を見遣った。細かく書き込みがなされた別紙を覗き見ると、どうやら昼食の予定献立と必要な食材、調味料の見積もりのようだった。食材の補充は宿場町で行うため、保存食や携帯食料に頼らない、新鮮な食事にありつけそうだった。旅慣れているせいもあろうが、よくわかっている。士気に関わることだ。
商人と聞いて真っ先に思い出すのはカヴェのダム・バスカーだが、彼とは似ても似つかない大らかさだった。
大らかといえば、ナルナティアはシャイネが男装していることと半精霊であることを皆に打ち明けたが、誰も想像していたほどには驚かなかった。まあそんなこともあるさ、と笑われては立つ瀬がない。告白は一大決心だったのに、悲劇の一人芝居に酔っているようではないか。
しかし考えてみれば、学問の都は精霊に寛容な街である。傭兵たちを率いるナルナティアからして、半精霊とは義理の姉妹だし、魔物の群れの相手が楽になる、と傭兵たちが手放しで喜んでいるのを目の当たりにしては、不機嫌でいられるはずもなかった。
シャイネもゼロも、大所帯での旅は初めてだ。旅程の管理も食事の準備もカッツ商店の者が担当するそうで、気が楽だ。問題は魔物が現れたとき、傭兵たちといかに連携するかだった。
キースが弓で牽制しつつ、ナルナティアと戦斧を使うベアが距離を詰め、ラファールは周囲に気を配って遊撃的に動くのが基本的な配置だそうで、剣を使うゼロは前衛、シャイネは喉に負担をかけすぎぬよう精霊と剣を使い分ける、とざっくり合意を取りつけた。
隊列は、シャイネとナルナティアが先頭、中央でゼロとキースが馬車を守り、しんがりをベアとラファールがつとめると決まった。場慣れたナルナティアが側にいるのは心強い。
顔合わせが終わり、準備も滞りなく調い、出発は予定通りの日取りとなった。本格的な夏を目前にした曇天で、ぬるい風が広野を駆け抜けてゆく。
あれ以来、忙しさにかまけてゼロとほとんど言葉を交わしていないのが気がかりだったが、かといって何を言えばいいのかわからなかった。誰に質問できることでもない。
精霊の力が怖い。だから、特別な関係にはなりたくない。それなのに旅の連れとしては申し分ない、とは好意を明らかにしている彼への甘えだろうが、差し出されたものが大きすぎて、すぐに答えが出せそうになかった。
街を出てから、平坦な道が続いている。
右手側、北には「背骨」が天を睨んで聳え、南には草原が広がる。海こそ見えなかったが、これだけ見晴らしが良ければ魔物の姿も遠くから見つけられるに違いない。
馬車はカッツ一家のもの、使用人たちのもの、食糧や薬など日用品を積んだものに続き、仕入れの品を積んだ荷車が八台連なる。壮観だったが、足は遅い。傭兵たちにあてがわれた馬にも負担の少なそうな行程だった。
馬車の数が増えれば護衛も世話をする人員も多く必要になる。水や食糧の要求も応じて増え、それを管理する者も必要だ。人が増えればあらゆる問題が起こりやすくなるだろう。気ままな二人旅とは備えの段階からまったく違った。
そういったことを知るのは新鮮で、ジェンや使用人たちは作業に障らぬ範囲で隊商での旅について教えてくれた。大切なのは舌を噛まぬようにお喋りは控えることだとか、魔物の脅威はあれど、街の外での食事も悪くないとか、冗談も交えて。
ジェンの息子、十九歳のクードは幌馬車の御者席におり、手綱を握ることもあった。父親似の彫りの深い顔だちで、今回新たに加わったシャイネとゼロに興味津々のようだ。末っ子、十五歳のユールは幌馬車でじっとしているのを好まず、予備馬で併走していた。
故郷では裁縫や手芸と切っても切れぬ生活をしていたシャイネと、用品店の娘はすぐに意気投合し、石鹸の収集であるとか、各地の茶の味、流行の色や外套の形など、とりとめなく語り合った。話題は尽きない。
「あっちに着いたら、一緒に街を見て回ろうよ。案内してあげる。少しくらいならいいでしょう?」
「うん、大丈夫。楽しみにしてる」
「約束よ」
けれども、のんびりと話ができたのはモルドヴァを発った日のみだった。予想していた以上の魔物の襲撃が、一行の体力を容赦なく奪っていったからである。
遭遇する魔物の多くは小型だったが、馬を下りて魔物の相手をし、再び馬に乗って進んだかと思えばすぐにまた魔物に遭遇するといった具合で、体よりも先に気持ちが参ってしまう。
魔物と遭遇するたび、負傷の手当てや武具の洗浄、馬の具合を確かめるなどせねばならず、歩みは遅々として進まなかった。日が暮れてからようやく人里にたどり着き、ほっと息をつくも進んだ距離からは考えられないほど疲労が重い。隊商向けの宿は規模が大きく、湯屋が備わっているのが幸いだった。
「来たときはこれほどじゃなかったのにな」
二人部屋で、眉間に深い皺を刻んだナルナティアがこぼす。シャイネはのろのろと着替えながら、召喚を続けてささくれる喉を潤そうと水ばかり飲んでいた。
ゼロはキースたちと大部屋に押し込まれていて、ここにはいない。カッツ一家も別に宿泊している。彼女と込み入った話をするにはうってつけなのだが、身体の奥にわだかまる疲労には勝てなかった。気を抜けば、すぐにでもまぶたが下りてきそうだ。
「何かの前触れじゃなきゃいいんだけど」
憂鬱そうな曇り空の視線の先には、細かい書き込みがなされた地図がある。宿城で見たものと同じく、モルドヴァから学問の都、神都を経由しク・メルドルまで至る、東西の街道近辺のものだった。
「この魔物って、どこから来たんでしょうね。近くに巣があるふうでもないし」
「それがわからないんだよ。指揮系統の有無とか、いつまでここに居座るのかとか……」
半魔が魔物を
「魔物の研究者さんも大変ですね」
「そうだろうね。何せ、殺すと溶けるし、毒だし、一部を持ち帰って研究するってわけにいかないから、薬草や動物を調べるのとは違う難しさがあるんだって」
地図を丸め、ナルナティアは洗い髪を緩く編みながら屈伸運動をしている。まめな性格が隙のない体をつくると頭では理解していても、シャイネは瞼の重さに耐えるだけで精一杯だ。
「学問の都がどうやって興ったか、知ってる?」
「いえ。王様が本好きだったとか?」
「都に王様はいないよ。学者と市民から選ばれた議員が投票制で政治をおこなうんだ。ま、そんなことはどうでもいいんだけど」
――昔々、武勇を誇った狩人がいた。魔物を狩り、人々の暮らしを守った彼は誰からも感謝される存在で、もちろん尊敬されてもいた。狩人は集落に堅牢な柵を建て、襲い来る魔物に怯まず立ち向かって皆を守っていたが、ある時、幼い娘を熱病で亡くしてしまう。熱病は薬を煎じて飲ませれば軽く済むものだったが、彼はそのことを知らなかったのだ。
シャイネが頷いたのを見て、ナルナティアは言葉を継いだ。
「武力だけではいけない、ってその狩人は思い知ったわけ。知識も必要だってね。で、それからは知識を集め、皆が使えるように広め、守り引き継ぐことに心血を注ぎました、みたいな話。どこまで本当かは知らないけど、まるっきり作り話でもないとは思うよ。学問の都を自分で名乗ったくらいなんだから」
「学者さんは大変ですね。研究はしなきゃなんないし、知識は残さなきゃなんないし、元手もいるだろうし」
「まあね。都に学者として登録されていれば、大学府図書館や資料館の入館料が分配される仕組みになってるんだけど、それだけじゃ足りないだろうからねえ」
魔物の研究者は、半魔のことを知っているだろうか。半魔が魔物を召んでいることを。精霊と敵対してはいないらしいことを。
女神の敵。断言したクロアの美貌を頭の片隅に浮かべ、重いまぶたを支える努力を止めた。
明日もまた、移動と戦いが待ち受けているのだ。
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