輝ける日々 (5)

 言葉少なに宿に戻った。

 ゼロが何も言わないのは、シャイネの仕業だと断じているからか、それとも偶然だと割り切ることにしたからか。

 沈黙が重い。

 ふたりきりの旅路では会話のない時間も多かったが、決して気詰まりではなかった。

 焚き火を囲んで静かに過ごす夜は、故郷の雪の日に似ていた。ひたすらに脚を動かす旅程のさなかにあっては、軽快に歌う風を聴いていた。それらに比べて、いまの重苦しさといったら。話す必要がないときの沈黙と、話すべきときの沈黙では密度が違う。

 すぐさま自室に籠もりたかったが、傷の手当を放り出すわけにもいかず、招かれるまま彼の部屋に足を踏み入れた。

 血で固まった手巾を外し、化膿止めの軟膏を塗って晒し布を巻いておく。傷が大きいこともあって、浅手のわりには派手な見た目になった。

 ゼロのシャツの袖から覗いたのは、シャイネが結んだ飾り紐だ。ずっとつけてくれているらしく、やや色褪せてへたってはいるが、編み模様ははっきりと判別できた。


「飾り紐が切れるんじゃないかと思って……調子が狂った」


 低い声が沈黙に波紋を描く。

 勝負の流れが変わった、あの一瞬のことを指しているのだとしばしの後に思い至った。


「き、切れてもいいじゃないか。怪我する必要なんてなかったのに。だいたい、切れれば願いが叶うんだよ、ずっと大事に持つものじゃない」


 ゼロにとって、剣を使う者にとって、真剣での手合わせと比べられることなどそう多くはないだろうに、ちっぽけな飾り紐と勝負が同じ天秤に乗ったことが驚きだった。


「だから、そんな……」


 違うのが必要なら、ゼロの好きな色で、好きな図案で、いくらだって作るのに。

 手慰みで編んだ飾り紐に思い入れを持ってもらえるのは嬉しいが、どうしても面映ゆさが先に立つ。もしも自分ならどうしただろう。やはり飾り紐を庇っただろうか。今の今まで気にかけていなかったものを、咄嗟に思い出せるだろうか。

 彼にとっては、特別なものだったのだろうか。


「まあ、ここで切られるのもいいかなって思ったんだけど、切られるのと切れるのとじゃ、やっぱり違うだろ」


 怪我に値するものだったとでも? 飾り紐が?

 そんなに大切にしてくれてたなんて、と笑えればよかったのかもしれない。けれど脳裏をよぎったのはマジェスタットの夜道での抱擁であり、血相を変えて探し出してくれた必死さだった。

 言葉はなくとも、それが答えだった。


「なんであんたがそんな顔するんだよ、痛くないとは言わないけど、別に何ともない」


 そんな顔って、どんな顔だ。道具を放り出したまま、頬に手をやる。泣いてない、ということだけはわかった。ひとつきりの椅子に腰掛けていたゼロが床に膝をついて、手を差し伸べてくる。怪我をした左手なのは卑怯だ、払いのけることができない。


「あのとき、ナルナティアが躓いたのは偶然か?」

「僕じゃない」


 両手を取られ、冬空の眼はあまりに近い。露骨に逸らした視線と、本当のことを告げた言葉と、彼はどちらを選び取ってくれるだろう。


「質問を変える。ナルナティアを躓かせたのは、精霊か?」

「……そう。エニィがやった。でも、誰に使われたのかは教えてくれない」

「あんたではない誰かが、エニィに命じたんだな?」


 そうだ、と答えはしたものの、説得力はわずかほども感じられなかった。そんな都合のいい話があるわけない。


「じゃあいい」


 ゼロはあっさり引いた。暑いくらいの陽気だというのに、肌がすうすうする。


「いいんだ」

「だって、子どもでももうちょっとましな言い訳するだろ」


 返す言葉もない。頭を抱えているうちに、散らばった軟膏壷や晒し布を長い手が奪い取っていった。


「でも、本当に、誰がやったかはわかんないんだよ。そんなにたくさん半精霊がいると思う?」

「ヴァルツがこっそり……は、ないか」

「ないだろうね」


 傷つくなー、とのんびりした口調には笑いが滲む。大きく息をついて、それでようやく肩に力が入りすぎていたことに気づいた。

 とはいえ、あの手合わせに介入してきた何者かと、西への道中で出くわすことにもなりかねない。味方であれば良いが、そうでなければ厄介なことになる。半精霊どうしで争うなど不毛だ。


「でもさ、半精霊だってことも、男装のこともナナさんには伝わっちゃったわけで、ちょっとほっとしてるんだよね。他の人に打ち明けるにせよ黙っておくにせよ、うまく気を遣ってもらえるんじゃないかなって」

「んー、まあ、そうだな。仕切るのに慣れてる感じはした。考えなくてもいいって楽だな。乗っかってよかった」

「みんないい人、っていうか、職務に忠実って感じがしたもんねえ」

「そうだな。……何事もなけりゃいいけどな」


 不吉なことを言う。けれども、思い起こせばカヴェ、マジェスタット、モルドヴァと、目的があって訪れた都市では必ず騒動に巻き込まれているのだ。的外れな心配ではないし、道中の魔物に対しては心強いが、平穏無事に済むとも思えなかった。

 寝台にもたれて膝を抱えていると、目の前が陰った。見上げると同時にゼロが覆い被さってきて、鼻が触れるほどの距離で夜が瞬く。慌てて視線を逸らすも、ひ、と息を呑む音がやけに大きく響いた。


「シャイネ」


 声は低く、甘く頬をかすめてゆく。背中に回った両腕が熱くて、痛くて、泣きそうになった。

 止めてと言えず、黒い胸を突き飛ばして逃れることもできなかった。不自然に顔を傾け、視線から逃れたまま凍りついた体の悲鳴を聞くのみで、どうしても動けない。

 考えることをやめて、頭をからっぽにして、背中に手を回してしまえばいいのだ。そうすれば楽になる。彼はきっと蜜の言葉と長くて器用な手指で、何もかも忘れさせてくれる。誘惑が絡みつくが、凍えた記憶はかたくなだった。

 キムの黒い眼に宿った金色の輝き、浅ましさと絶望を深く刻み込んだ眼差しは心の奥底にこびりついたままだ。母から受け継いだ光がすべてを塗り潰してゆくあの恐怖も。

 できない。縛ってしまう。怖い。一時の熱を求める自堕落と、増長を貫く後悔、そのどちらも十分に、痛いほど理解しているから。


「シャイネ」


 声には怒りも、苛立ちも、軽蔑もなかった。思わずゼロを見上げ、深い夜の眼に囚われる。

 それは深く透明な闇に満たされ、どこにも感情が見えない。平らかな鏡にいつ金色の光が浮かぶのかと考えるだけで、喉が絞まる。なすすべもなく、仔うさぎのようにぶるぶる震えた。

 マジェスタットではぎりぎりのところで拒めた。止めてと言えた。かつて何をしてしまったかも伝えた。アンリのせいでうやむやになってほっとしていたのに、どうして繰り返すのだ、この男は。

 眼を見ないで。僕はあんたをおかしくしてしまうから。そうしてしまったら、僕はあんたといられない。またひとりになっちゃうじゃないか、ふたりとも。

 声なき声はいつも饒舌なのに、ちっとも喉を震わせない。伝わらない。


「男装しろって言ったのは、あんたが精霊の力で操ったって奴? あんたはそいつに操を立ててるってことか」


 ややあって放たれたのは、シャイネからすると突拍子もない一言だった。操を立てる? 笑い飛ばしたかったのに、どうしても笑えなかった。


「なんで、僕の男装と、好きだった人が関係あるの」

「自分の女に男装させるのは、独占欲からの束縛だろうなと思っただけだ。あんたの気持ちと噛み合ったんじゃないかってな」


 キムの束縛。そうだろうか。旅人としての大先輩であり、生きる知恵を授けてくれた恩人。憧れの狩人であり、大切なお客様であり、たくさんのことを教えてくれた人。そして同時に、自身に流れる精霊の血を強く意識させた男。

 どれだけ忘れようとしても、忘れられなかった。


「キムは……違う。僕が、ひとりで生きて……」


 呟きが雨だれのようにぽつぽつとこぼれる。言葉にするごとに、胸が痛んだ。

 キムに愛されていたと、大切にされていたと思う。けれども、その愛情や好意の、どこまでが彼自身の意思なのかがわからない。白と黒に塗り分けられることではないにせよ、己の浅ましさやつまらぬ虚栄心を否定できるものではなかった。何の力も経験もなかったシャイネが誇れるのは、隣に立つ男の名声だけだった。「狩人のキム」に望まれた自負だけだった。

 そのすべてが、精霊の眼によるものだったなら。精霊の力が彼をねじ伏せていたとしたら。ゼロに繰り返してしまったなら、もう二度と、誰にも心を許せなくなってしまう。

 キムやゼロへの信頼よりも、精霊の血への恐怖が勝った。

 かといって眼を抉り、声を封じ、精霊の存在を無視して生きてゆく覚悟も勇気もない。


「わかったわかった。あんたはしばらく、目を閉じてるといい。怖くなくなってから目を開けて、そこに誰がいるのか、誰がいないのか、ちゃんと確かめろ。賭けたっていい、誰もいなくなってやしないから」

「……どういうこと?」

「あんたが半精霊であろうがなかろうが、あんたを慕う人は慕うってこと。知ってるだろ? ひとりで生きてきた間、あんたは精霊の力を金にしたか? 他人を操らなくたってあんたは生きていけるし、それになんだ、支配できると信じてるなら見当違いの勘違いだし思い上がりだからおれが訂正してやる。改めろ」


 やはりよくわからなかった。そうすることでこの葛藤、恐怖、醜悪な自分自身を乗り越えられると説く、ゼロの自信の根拠がいちばんわからない。

 ただ、ひやりと冷たいキムの影が薄らいだことは確かだ。


「ゼロ、僕のこと好きなの?」

「真顔で訊くな。傷つく」


 客と接することで給金を得ていた経験からするに、彼は本気だ。牡鹿の角亭で働いていた頃、同じ年頃の少年少女、あるいは年長の狩人や旅人に口説かれたのと似ている。酔っているのでもない。

 好意は嬉しいが、これまでの心地よい関係、距離ではいけないのかと困惑よりも不安が勝ったし、出会って三ヶ月、旅暮らしのなかで性欲の対象となりえたことに驚いた。

 マジェスタットでの強い抱擁を忘れたわけではない。ゼロはまあまあ好ましい容貌で、腕も立つしそこそこ気も利く。一緒にいて気詰まりではないし、こうして猶予してくれるほどには理性的でもある。弱ったときには欲しいもの、看病だったり体温だったり孤独だったりを与えて、シャイネを尊重してくれる。半精霊だと隔たりをおかないのも好ましい。忌々しいのは女慣れ……いや、別に忌々しくなどない。断じて。


「でも、ひとを好きになるのって消去法でも加点式でもないわけで」

「やめろって、殺す気か。……理屈でもないと思うけどね、おれは」

「ときめくかどうかってこと? えっ、なにそれ、大人でもこんな口説き方するの?」


 ぐおわー、とゼロは胸を押さえて寝台に倒れ込み、そのまま上掛けに潜り込んでしまった。ここで無理矢理にことに及ばないのは彼の良心であり、遠慮であり、譲歩である。美徳と数えていいだろう。


「あのさあ、何て言うか、勢いで寝ちゃって失敗して、その後気まずくなったらやだなって。僕が言ってるのはそういうことだからね。ゼロといるのはすごく楽だし、今さら他の連れを探すなんて考えられないよ。だから一緒に行くって言ったんだし。便利に使ってるって思われたらその通りだし言い訳するつもりもないけど、ゼロだっておんなじふうに思ってるとこあるだろ。今の快適さを賭けてまで寝る必要ある? うまくいくって自信はどこからくるわけ」


 うつ伏せのまま動かない蓑虫状の塊にとどめを刺した自覚はあるが、ほだされてはいけない。いくら後ろ向きだと言われようと、もっと自信を持てと励まされようと、この眼を、力を制御できないまま、欲望や快楽に身を委ねるのは怖い。

 享楽に耽るあいだは、ただ貪欲であればいい。けれどもすべてが終わって、何もかもが自分のひとり遊びであったと突きつけられ、虚無に心身を裂かれるのはもう二度とごめんだった。

 ゼロが手を引いてくれるのなら。そんなことはないと共に堕ちてくれるのなら、あるいは。生ぬるい想像に浸りかけ、慌てて止める。

 この世に絶対はない。つまらない情に流され、甘い言葉に唆されて、彼を失いたくはなかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る