復讐 (2)
興奮冷めやらぬまま昼食を終え、真昼の熱気を避けてお茶と他愛ないお喋りに興じてのち、軽装のまま街に出た。今日明日にでもアンリ一行が到着するとミルが聞き込んできたためである。
ゼロの腰に見慣れた剣があるのが嬉しい。頬を緩めるシャイネとは対照的に、彼は不機嫌を隠そうともしない。髪に手をやって、不満げに手を下ろす。何か言いかけては躊躇って飲み込み、息をつく。その繰り返しだった。軒先の犬に吠えられるほど苛立っている。
燃え盛る炎がいくら美しくとも、触れれば火傷を負うことは必至。危険なものに手を出すべきではないということくらい、短い人生の中で思い知っている。ぴりぴりしているゼロをそっとしておくだけの知恵はあった。
「やっぱり、変だろ」
ややあって、結局折れたのはゼロだ。詰まりぎみの煙突のように、ぶすぶすと言葉を吐き出す。
「そんなことないよ、似合ってる」
「にやにやしてるし」
違うよ、とシャイネは答えた。剣が無事に完成したことが嬉しいだけだと。
忌々しげに鼻を鳴らす彼には何を言っても通じまい。日なたに出た彼の髪が明るく輝くのに目を奪われて、小さく息を落とした。
彼は、髪を黄色く染めていた。触れ書きの特徴にぴったり一致するふたりが、そのままの姿で神殿に行くのはいかにもまずい、とミルが有無を言わさぬ勢いで、剣の完成を喜ぶゼロの髪に染料を塗りたくったのである。
眼の色が浮かぬよう、眉毛の色まで整えてくれたのに、強引な行為そのものが気に入らないのか、それとも染めた色が気に入らないのか、全員で口を揃えて似合うよ男前だよと褒め称えても、彼はむっつりと黙ったままでいた。
「似合ってるし、きれいだと思うけど……」
射かけるように睨まれ、言葉が尻すぼみになってゆく。
光を含んだ温かい髪の色は、硬質な雰囲気を変えることはしたが、彼の凛とした涼やかさを損なうものではない。それなのに何を言おうとも、からかいか慰めなのだろうといじけてしまう。
「その色に慣れてないだけだろ? 変じゃないよ、ミルだって絶賛してたじゃないか」
「面白がってるだけだ」
にべもない。
ミルは例によって、惜しみない賛辞を振りまいた。彼女の感動は本物だが、それを表現する言葉があまりにも芝居がかっていて大仰だったために、馬鹿にされたと感じたらしい。すっかりいじけている。大人げない。
友人を呼んで見せびらかす、と息巻くミルをどうにか止めて工房を出てきたものの、ゼロの機嫌は悪いままだ。
気まずい空気に背を押されて早足になった。無言のまま、最短距離で神殿へと歩を進める。金髪と栗毛の二人組には誰も注意を払わなかった。ミルの判断が的確で余計に腹立たしいのだろう、普段から少ない口数がまったくない。
固く結ばれた唇、魔物をも射殺しかねない鋭さで道の先を睨むゼロを見て、ようやくわかった。髪の色だけではない、彼が不機嫌になる要素が他にもあるではないか。
アンリ司教は、ゼロの――アーレクスの弟なのだ。
ゼロがアーレクスであるならば、大司教を姉、司教を弟に持つことになる。そんな彼が女神教ではなく、騎士の精神に惹かれたのは生家としては大問題だったはずだ。半精霊を伴侶に迎えるなど論外である。
アンリが女神教の中枢である「いとし子」アンバー大司教と懇意にしているという話からして、ゼロと大司教も顔見知りである可能性が高い。姉弟だけでなく、大司教も彼を貶め、罵るだろう。口汚く蔑み、踏みにじって顧みないだろう。失われたク・メルドル、神都、どちらにもゼロの居場所はないのだ。
そう思うと、胸がつかえた。唾を飲んで深く呼吸しても、粘つく息苦しさと圧迫感は拭えない。自己憐憫と重ね合わせた、勝手な思い込みであるのは承知しているけれども、それでも、ゼロとアンリを会わせてはいけないと思った。
カヴェでアンリが見せた憎しみは激しく、とても血の繋がった兄に向けるものとは思えなかった。憎悪にどんな理由があるにせよ、記憶を失ったままでは状態が改善することは望めない。きっとゼロは一方的に責められ、罵られ、再び傷つく。
たまらなくなって、前を行く黒い袖を掴んだ。
「……どうした」
降ってきた声は意外に柔らかかったが、歩みは早いままだ。司教が到着するまでに、ハリスと会って決着をつけねばならない。彼も焦っているのだった。
何も言えずに袖を離す。うつむいて丸まった背に、大きな手が置かれた。
「あんたは、まずあんたのことだけ考えろよ。おれは大丈夫だから」
そんなはずはない。怖くないはずがない。それでも今は、彼の気遣いに甘えた。
ありがとう。呟きは雑踏に落ちて消える。
「おれとあんたと、運が悪いのはどっちだと思う」
「僕かな」
「自覚はあるんだな」
神殿前の通りは人で埋まっていた。漏れ聞こえる人々の話を総合すると、アンリ司教がもう間もなくマジェスタットに到着するらしい。膝が折れそうになった。間が悪すぎる。
「背骨」を越えてまで視察にやって来る司教が物珍しく、あるいは到着を待たずして傍若無人な触れ書きを出した噂の司教様とやらを一目見んと、人々が押しかけているのだった。中には触れ書きの文言に物申してやろうと、垂れ幕に墨痕鮮やかに苦言をしたためている者もいた。
神都育ちのアンリを有り難がる者から、触れ書きに怒りの声をあげる金髪、黒髪の者、何気なく神殿を訪れて騒ぎに巻き込まれてしまっただけの者からただの野次馬まで、さまざまな事情を抱えた人々が押し寄せ、うねり、めいめいに声を張り上げていた。混乱を収めようとあちこちへ走り回る青服たちの顔にも不平不満がありありと表れている。
この人波をかき分け、神殿にたどり着くことはまず不可能だろう。精霊を頼るのも憚られる。
騒ぎが大きくなるにつれ、通りに集まる人もどんどん増えていった。青服や衛兵、城づきの騎士たちまでもが借り出されて整理を試みているものの、人々はいまにも神殿へとなだれ込みそうだ。
熱狂と興奮が空気を震わせる、その迫力に恐怖を覚えた。このままではハリスに面会を申し込むよりも先に、アンリが到着してしまうに違いない。
時間がない。アンリは直ちに宿を
どうすればいい? もみくちゃにされながらしばし考える。
「ゼロ」
騒々しくて話し声も聞き取れないほどだが、誰が聞いているかわからない。腕を引いて耳元に囁いた。
「無茶をしてみる」
「ここを正面突破するとか言わないよな?」
「まさか」
人混みをかき分けて通りを離れ、神殿を回り込んで横道に入ると、表通りとは違ってほとんど人がいなかった。
街区の案内図によれば、神殿と青服たちの訓練場は隣接している。訓練場を訪ねて話を通してもらおうと考えたのだ。この混乱のさなかにハリスを呼び出しても邪険にあしらわれるだけだろうが、シャイネには切り札になりうる一言があった。
緊張で跳ね回る心臓を持て余し、ことさらにゆっくり歩いていたが、すぐに訓練場に着いた。槍を立てた青服がふたり、入り口を守っている。すでに何度か、表通りから流れてきた野次馬を相手にしているのだろう。呆れたような、飽きたような表情で、それでもお決まりの誰何をした。
「何者だ」
「副神殿長のハリスさんと約束があるんだけど」
シャイネとゼロを頭のてっぺんから爪先までじろじろと眺め、青服たちは表情を険しくした。ただの野次馬から、怪しいやつへと格下げられたようだ。
「証拠はあるか」
「そんなもの、あるわけないだろ。スイレン・アニスが来たって言えば、わかるよ」
ゼロがおやというふうに視線を寄越したのがわかったが、構わず続けた。
「この前、宿屋街の薬草屋で火事があっただろ。そこはハリスさんの知り合いの店だ。その件も含めて、話したいことがある」
「確認する。待ってろ」
片方が身を翻して駆けてゆく。残った一人が視線で威嚇することをやめないので、用事があるのはあんたじゃないんだと言う代わりに、間合いを外した。
スイレンの影に怯えるハリスは他の男たちとは違って、まともな臆病さと言うべきものを有していた。スイレンの名を出せば、知らないと押し切ることはできないだろう。同時に、誰が呼びつけているかくらいは理解するはずだ。
傲慢な他の三人は炎に焼かれ、過去を知っているのはもう彼だけだ。ここで逃げ出せるほど肝が据わっていれば、事態はもっと違っていたはず。
見張りの青服とは不自然な距離を保ったまま、辛抱強く返事を待った。
アンリの捜している人物が誰なのか、ハリスはまだ知らないはずだ。けれども、このきわどい均衡は間もなく崩れてしまう。何が何でも、今のうちに会わねばならない。
金髪と黒髪の二人連れの男、と大雑把な特徴しか触れ書きにないことからして、こちらの素性は知られていないと見てよい。レイノルドとユーレカがしらばっくれたに違いなかった。アーレクスの名を伏せたのは、せめてもの配慮か。
ふと、レイノルドを懐かしく思った。
彼はあの石の卵を手に入れて何をするつもりだったのだろう。教義に反し、シャイネとゼロを庇うその先にどんな絵を見ているのだろう。
「困ったときに力を借りられるかと思ってね」
雨宿りの間に聞いた一言に関係しているのかもしれない。
困ったとき。彼ほどの人物でも、困ることがあるのか。困難などたちどころにねじ伏せてしまいそうなのに。
バスカーの屋敷ではすっかり上手を取られたが、悪感情はさほどなかった。腹立たしくは思うが、カヴェからの逃亡を助け、ハリスの情報をくれた感謝が大きい。あるいは、精霊と親しんだ過去を持っているからか。
考え込んでいると、こめかみを小突かれた。
「考えすぎるな」
「うん」
意識して深く呼吸する。ゼロが見守っていてくれる。ひとりではないことがとても心強く思えた。
待つのに飽きた頃になって、ようやく先の青服が戻ってきた。
彼は待たせたことを詫びるでもなく、無愛想に一通の手紙を突き出し、もう用は済んだだろうと言わんばかりに帰れと身振りで示した。封筒にハリスの署名がある以上、不誠実だと怒ることもできず、退散するほかはなかった。
手近な食堂でゼロとふたり、額を突き合わせて読んだ手紙には、アンリ司教を出迎えるために面会の時間を取れないことを詫び、夕食をご馳走したい、と簡潔に書かれていた。修辞や華美な装飾語句は一切用いられておらず、綴り方すら流麗な続け字ではない。いっそ無骨ともとれる筆圧の強い文字が事務的に並ぶ。
返信はご不要、以下の店にて待ちますとの文言にほっとする。
「どうした」
「返事書かなくていいって言うから、良かったなって」
「そりゃあ、悠長に文通してる余裕なんてないだろうよ。これからあいつが神殿じゅう引っかき回すんだから」
都合良く誤解してくれたようだが、そういう意味ではない。曖昧に笑っておいた。
ゼロはアンリと顔を合わさずに済んだからか機嫌がいい。相変わらず髪を気にしているが、不満を口にすることはなかった。
「明後日かあ。これって時間稼ぎかな」
「何のだ? ここまできて、それはないんじゃないか」
お連れの方も同席してくださるよう、とある。二人まとめて始末するつもりなのか、それとも本当に会食するつもりなのか。ハリスの思惑がまったく読めない。
「密会のお誘いだぜ」
「危ないかな」
「危なくない密会なんてねえよ」
くつくつと下品に笑うゼロにいい気はしないが、これでようやくハリスと話ができるのだと思うと、ほっとする一方で緊張は高まる。食事も水も、ほとんど喉を通らなかった。
下手に外出して青服と揉めては目も当てられないから、寮に籠もって過ごし、気もそぞろのまま当日を迎えた。
服はどうしよう、旅装しか持ってないと慌てては笑われ、堂々としてりゃいいんだよと態度の大きいゼロの背後に隠れて店に向かう。
指定されていたのは、白い石造りが優美な料理店だった。想像の上をゆく立派な構えに、ここが、と店名を確かめる声が震えた。
ゼロはふふんと鼻を鳴らす。バスカー邸でのことといい、どうして彼はここぞというときにふてぶてしくいられるのだろう。お育ちが良いのか、と嫌味を言いかけ、冗談にもならない気がして止めた。
「びびるなよ。ただの食堂だろ」
身も蓋もないことを言うゼロは平然としているが、場違いにもほどがある。大衆食堂の安飯で美味しい、美味しくないと騒ぐ旅人が興味本位で立ち寄ってよい店ではない。
ガラス戸、ガラス窓、外壁や柱、どこを見ても凝った装飾がなされ、案内人の服には最高級の絹の輝きが見て取れる。カヴェならば北東の市街地の一等地に置かれるべき店だ。
旅装で入れるのかと危惧したが、話が通っているのか止められることはなかった。店構えが一流なら案内人も一流で、そこらのごろつきめいた旅装のシャイネとゼロを相手にしても眉ひとつ動かさない。外套と剣を預けてから、案内されるままに二階に上がった。
二階は個室に区切られていた。廊下には扉が並び、密談や密会に使ってくださいといわんばかりだ。通された部屋の中央には丸卓と椅子が三脚、ひっそりと置かれている。窓には見事なレース織りのカーテンが揺らめき、夜の青い光をぼんやりと透かしていた。
約束の時間には少し早かったが、給仕の女たちがやってきて、蒸した手拭きと発泡水を置いていった。手拭きを広げると爽やかな香りがたつのは、香草とともに温めているからだろう。
グラスも水差しもふくよかな曲線を描く薄いガラス製で、気泡や濁りのない、最高級のものだとすぐに知れた。並べられている食器類はおそらく銀。蝋燭の炎に鈍い輝きを放つ。
卓も椅子も敷布も、何もかもが高級品である。胃の腑がきゅうと縮まって、喉はからからに渇いていたが、とても気軽に水を飲める雰囲気ではない。
「もうちょっと楽にしろよ。手震えてるぞ」
「だ、だって、こんなお店初めてだから」
高級料理店での会食となったのは、当然ながら親切などではなくて、ハリスに有利な場に連れ出されたにすぎない。慣れない場所の緊張ともあいまって、膝ががくがく震えた。尻が落ち着かず、何度も座りなおす。
ゼロといえば、悠然と手拭きを使い、発泡水を呷っていた。その余裕はどこから? 恨めしさばかりが募る。
「落ち着け。こんなところで暗殺ってことはないだろうよ」
「でも、個室だよ。専門の殺し屋が天井からササーッて」
「考えすぎだ」
ゼロとて緊張を解いているわけではない。扉との距離、窓との距離、並べられたナイフの位置。ちらちらと視線をやりながら、椅子の位置を調整している。
窓に格子はない。下は店の裏手で、警備の者や柵などは見えない。逃げようと思えば簡単に逃げられるし、窓は細く開いているから香を使われることもないだろう。ゼロはいちいち説明してくれたし、理解もできるが、それとこれとは話が別だ。
「銀器は毒に反応する。そんなに警戒を顔に出せば、簡単につけ込まれるぞ」
わかってるよ、と口を開きかけたとき、控えめに扉が叩かれた。返答したゼロに応じて扉が開き、ハリスが姿を現した。知らず、立ち上がって迎える。
白髪交じりの茶色の髪、特徴のない平凡な顔。シャイネとゼロを順に認めた視線には、掴みどころのない虚無が漂っている。姿勢はよく、藍色の制服もきっちりと着こなしていたが、ユーレカに見た威厳や輝きは感じられなかった。ぎらついた欲や計算高さもなく、すっかり諦めきった静けさや疲れを漂わせている。
父と同年代であるはずなのに、記憶の中の父と彼は十も年の差が感じられた。なかば信じられない思いでハリスを見つめる。
あれほどまでに憎く思っていた父の仇、父から旅を奪った男、父を切り捨てた男。あらゆる悪を凝縮して形作り、生命を吹き込めばこの男になると思っていた。それがシャイネの抱いた幻想にすぎないとしても、この弱々しさはなんだろう。
気が高ぶるに任せて殴りかかってしまったら。精霊を召んでしまったら。恐れていたのが嘘のように、胸中はしんと凪いでいた。
彼の纏う淀んだ静けさこそが老いだと気づくまでに、しばらくかかった。
彼らがクロアと出会い、狂騒の一夜を過ごしたのは、シャイネが生まれるよりも前のことだ。父もハリスも、年月という逃れ得ぬ枷とともに生きている。枷は重みを増して老いとなる。では父の若々しさ、溌剌とした振る舞いはなにゆえか、と考えれば、父が復讐を望まなかったことと密接に繋がっていると思えてならない。
ハリスは一礼して席に着く。手拭きと酒を持ってきた給仕女が下がると、もう一度軽く頭を下げた。空気は痛いほどに張りつめている。
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