半魔 (4)
シャイネが上の空である。
半魔を名乗る女に出会ってから、ぼんやりと天井や窓の外の雑踏、流れる雲を見つめることが増えた。
かつて狩人だった父親の、連れを探している。彼女の話を要約すればそういうことになるだろう。一行は意見を異にし、決裂は同士討ちにまで発展した。負傷の落とし前をつけさせる、ということのようだが、見る限り、覚悟ができているようには思えない。
聞けば、仇(とは言わなかったが)の男たちの外見はおろか、特徴も何もわからず、マジェスタットにいるかどうかすら定かではないと言う。そんなあやふやな情報だけで、よくもまあ「背骨」を越えてここまで歩いてきたなといっそ感心するのだが、シャイネはあまり頓着していないようだ。どこまでも、地の果てまでも追いつめてやるといった執念は少しも感じられず、見つかるまで探せばいいやという消極的な先延ばしに思える。
彼女は午前中はゼロについて薬草を探し、午後からは宿城や工房街で父スイレンの過去について聞き込みに出かける。半精霊たちの工房にもちょくちょく顔を出しているようで、戻った時には表情があるのだが、それもやがて消え去って、心ここにあらず、といった状態になってしまう。
ゼロの事情にシャイネが首を突っ込んでこないのと同様、ゼロもまたシャイネの事情にしゃしゃり出てゆくつもりはないのだが、彼女の呆けぶりは目に余る。薬草を探したり、その行き帰りに遭遇した魔物を倒したりと、すべきことが明らかなうちは集中しているが、街へ戻ってきた途端にぼんやりして、何を食べる、買い物に寄るかと尋ねても、うんうんそうだね、などと適当な相槌ばかり寄越すのだった。
暑いせいもあるだろうし、人探しが難航しているのかもしれない。あるいはもっと別の理由で考え込んでいるのかもしれない。身に危険が及ばないうちは放っておいてもいいのだが、どうにもつまらなかった。
つまらない、と感じる自分自身に驚く。
これまでは誰と組もうと、移動や食事など、共動の時間は義務であり、淡々とこなすべき業務だった。楽しいもつまらないもなく、目的達成のために必要な社交辞令でしかなかったのだ。それなのに、シャイネと過ごす時間を、ともに囲む食事を心待ちにしている。反応が薄ければ不満に思い、明るく笑えばつられて嬉しくなる。
おれが、あの細枝細工みたいな小娘にこんなに心を許しているなんて。気づいてしまえば大変に悩ましい問題だった。何しろ、過去に経験したことのない事態だ。二人旅でこれまで何の支障もなかったのに、意識するのもされるのも面倒臭い。
カヴェに住んでいた時でさえ、特定の恋人は作らなかった。色街で全てが事足りたし、からっぽの過去と色恋を天秤にかけることなど思いつきもしなかった。
愛だの恋だのではなくて、これは情だ。何となく居着いた野良猫が可愛らしく思えるだけのことで、つまり錯覚なのだ。そうに決まっている。
悶々とした自問自答の果てにようやく落ち着きを取り戻し、ゼロはぬるくなった水を呷った。卓を挟んだ向かいでは、シャイネがのろのろと箸を動かしている。海草と瓜の酢の物が滑り落ちたのにも気づかない。
「大丈夫か」
「うん」
答えはすぐに返ってきたが、ちっとも大丈夫ではない。金茶の眼はここではないどこかを彷徨っている。
「人探しの方はどうだ? 順調なのか」
「え? あー、うん、順調っていうか、まずまずかな……。ここは人の入れ替わりが激しいし、昔の話だし、ハリスなんて珍しい名前でもないから。まあ、別に急いでるわけじゃないしね」
「急がなくていいのか」
のんびりした調子にどうしてか苛立ちが募り、意地が悪いのを承知で尖った言葉を返すと、彼女は席に着いて初めてまともにこちらを見た。
「どういう意味」
「どうって。親父さんを殺そうとした相手だぞ。憎いだろ。少しでも早く見つけだして血祭りにあげようとか、思わないのか」
ちまつり、と繰り返した細い頬が強張り、鋭さを増した金茶が灯りに揺らめいた。これまでの付き合いで、シャイネの人の好さや、甘さとも取れる優しさをゼロは知っている。人を殺せるだけの覚悟と冷酷さは、きっと彼女にはない。
「親父さんは、それを望んでるのか」
答えはなかった。視線が落ち着かずあちこちに飛び、答えを探して、あるいは言い逃れをするために唇が動く。
彼女の父がかつての仲間たちを恨んでいたとしても、実の娘を復讐に向かわせるようなことはするまい。シャイネが父に代わって復讐を望んでいたのだとしても、何が何でも成さねば、という暗い情熱が欠けていた。現に、ゼロを言い訳に回り道をしている。
目を血走らせ、恨みと報復の呪詛を振りまきながら、憎い仇を追い詰める。そんな切実さも、焦りも、愉悦も、彼女からは感じられなかった。
半精霊であることを隠し、肩身の狭い思いをしてきたシャイネは、傷つく痛みを知っている。実父のためとはいえ、他人を傷つける、ましてや殺すことができるとは到底思えなかった。
できるならば、とうにしている。彼女が今ここにいることこそが、迷いの証明だった。
シャイネには、復讐で人を殺すことなどできない。
「できるのか?」
「わからない。でも、やるしかない」
口調の悲壮さに行動が伴わないから薄っぺらく見えるのだ、と口にしなかったのはぎりぎりの理性だ。話すごとに苛立ちの正体が明らかになって、冷静さをかき乱してゆく。
――おれのことじゃないか。
滅びの原因とその手段を調べると言いながら、ふらふらと無為に日々を過ごしていたゼロにも、まったく同じことが言える。
本当に調べるつもりがあるのなら、学問の
理由も、わかりすぎるほどにわかっている。過去の記憶に触れるのが恐ろしいのだ。滅びについて調べるうちに、ふとしたきっかけで記憶を取り戻してしまうかもしれない。ク・メルドルが滅びる光景を思い出してしまうかもしれない。
鮮烈な恐怖は夜を切り裂く曙光に似ていた。それを恥と感じた一瞬を捻じ伏せ、炯々とした金茶を睨んだ。
「人を傷つけることを恐れてるあんたに、復讐なんてできっこない」
シャイネは目を見開いて頬を強張らせていたが、やがて強い視線で真っ直ぐにゼロを射抜いた。ぎらりと輝いた眼にたじろぐ。
「あんただって、記憶を取り戻すことを恐れてるくせに」
大声ではなかった。しかし、氷水を浴びせられたかのように、身体が震えた。時間が止まる。
「……あ」
歓喜、困惑、怒り、後悔、目まぐるしく表情を変えたシャイネは、結局何も言わず、定まった表情もないまま、食べさしの皿もそのままに、食堂を出て行ってしまった。
ゼロに背を向ける前の一瞬、眉を寄せて不安な表情をしたことだけが、ひりひりと焼けつく心に残る。
夜になってもシャイネは戻ってこなかった。部屋を引き払った様子はないから、街中にはいるらしい。子どもではないし心配するほどのことではないと思うが、夜の暗がりは彼女の眼を際立たせる。半精霊を受け入れている都市とはいえ、揉め事に巻き込まれなければ良いのだが、とやきもきし、彼女のことばかり考えている自分自身を焼き殺したくなった。
どうしてこんなことになったのだか、よく思い出せない。つまらぬ意地を張って、嗜虐心を昂ぶらせて大人げなかったし、恥ずかしかった。
シャイネは何も悪くない。思い切れない臆病さを自分と重ねてしまって、言われる前に言ったに過ぎない、つまり殴られる前に殴ったのだ。彼女もそれを察したのだろう、的確に反撃の言葉を放った。どう考えても愚かな相打ちだし、何より非生産的だ。
責任転嫁は簡単だ。シャイネの父親。半魔クロア。
スイレンとやらがどれほどの使い手だったのかは知らないが、褐色の肌の少女を見て、人型とは魔物と人間の子なのではないかと思いついた想像の飛躍といい、話が通じるのではと仲間を説得しようとした甘さといい、狩人には似つかわしくない。
(半魔が人型、ねえ……)
冗談半分で交わした会話が、まさか真実を言い当てていたとは。何はともあれ、女神が魔物の敵だとか、魔物と精霊は敵対していないとか、今まで聞いたこともない話だった。
これで、精霊が魔物を狩るなら見事な三竦みとなるのだが、ヴァルツが殊更に魔物に興味を示さなかったことを考えると、魔物と精霊は敵対していないと見るべきだろう。
ここまで考えて、半魔クロアの語ったこと全てを真実だと思っていることに気づいた。初対面の得体の知れない女を信じる根拠など何もないが、嘘だとも言い切れない。嘘をつく利点がないことを考慮すれば、あの女が語ったことはきっと事実だ。
彼女は、女神の創造物を破壊しつくす、と言った。例えば、一夜にして廃墟と化したク・メルドルのように、か。
咄嗟の思いつきには、ざらざらとした違和感が残る。ヴァルツもシャイネも、一夜にして大都市を滅ぼすなど、精霊の力では不可能だと言った。だから魔物にもできまい。それこそ根拠のない思い込みだったが、力の均衡を考えるとこうなるだろう。
では――女神か。
精霊でも魔物でもないのなら、女神しかいない。
人間たちが余所の街を、国を攻め、互いに殺し合うのは珍しい話ではない。そして人間が最も親しむのは、人間が信じているのは、女神だ。女神教は青服たちという武力を有するし、それを敵対勢力に向けることを厭わない。とはいえ、街を一夜にして廃墟に変えた手段は謎のままだ。
物思いは四方に散り、とても眠るどころではない。所在なく寝返りを打っていると音もなくヴァルツが現れた。
暗闇の中でも輝きを失わない翠の眼に見つめられるのは慣れていたが、こうも非難の色が強いと気まずい。
「シャイネは?」
答えず、ヴァルツに背を向ける。
中途半端な夕食の後、あまりにむしゃくしゃするので久しぶりに色街へ繰り出したが、ちっとも楽しめなかった。花売女たちが悪いのではないのは十分承知している。疲労だけを背負って宿に戻ってきたが、相変わらず上階はしんと静かで、人の気配がない。
あんただって、と吐き捨てたシャイネの声が全身を駆け巡る。反論などできるはずがなかった。彼女は正しい。正しいからこそ、抉られる。
「あの子とうまくいくといいなと思っていたのだけれど」
ヴァルツは小さくため息をついた。
「ゼロ、きみはきみの好きにするといい。シャイネにこだわる必要はないのだからね。……今まで通りだ」
「わかってる」
カヴェにいた頃、一緒に行こうぜと旅人やら狩人やらに誘われたことは一度や二度ではない。旅に暮らすのも悪くはなかったが、記憶喪失であると打ち明けるのが億劫だったし、人付き合いの面倒さに耐えきれるとも思えず、ほとんどの時間を一人で過ごしてきた。
行きがかり上仕方なかったとはいえ、シャイネにはそれを語り、特に大きな諍いもなく同じ道を歩き、同じものを食べ、隣で眠ってきた。彼女こそが例外だったのだ。
このまま彼女と別れて孤独に生きてゆくのだとしても、嘆くほどのことではない。仲良しごっこの時間が終わり、元の状態に戻るだけだ。
――ゼロだからだよ。
――これまでも助け合ってきたじゃないか。
耳の奥にシャイネの声が響く。
はにかみを酒の力で覆い隠した一言も、選んで選んで、それでも選びきれずに首を傾げながらの一言も、拒絶の色は少しもなかった。心動かされなかったはずがない。
柔らかな金髪と、この上なく美しい金茶の眼を思い描く。凹凸のないつまらぬ肢体、聞き惚れずにはいられない美しい声。
左手の飾り紐に触れた。雪の模様に込められた意味を聞いておくのだったと今さらのように思う。これこそが後悔なのだと、不快が疼いた。
シャイネは何を思って飾り紐を編んだのだろうか。時間を持て余してか。それとも、どれを選ぶのだろうかと胸を弾ませて?
ゼロは上掛けを跳ね除けた。葉、星、花、鳥、剣や鎖。色鮮やかな、たくさんの飾り紐。
ゼロの為に編んでくれたのだ。絡み合う糸に混じって込められるのが、厭わしい感情であろうか。
(おれは、それに応えただろうか)
目前に立ちこめた霧が晴れてゆく。大波がぶつかりあっていた心が静まってゆく。嵐が止み、しんと凪いだ冷静さで想うのは、ただ、暗闇に浮かぶ眩さだ。つまらぬ冗談、精霊を招く声。魔物を睨む眼差し、過酷な「背骨」越えにも怯まず歯を食いしばっていた頬の線。
「……なあ、ヴァルツ」
何だい、と静かな声が返ってくる。彼女は良い相談相手だった。小うるさい説教を垂れることもあるが、話すうちに考えが纏まることも多い。秘密を余所に漏らす心配もない。
「シャイネを甘やかしたいと思うおれは、変かな」
「変ではない。私だってそう思う。べろべろに甘やかしてぬるま湯に浸けておきたい」
「そこまでは言ってねえよ」
精霊は半精霊のことが大好きだ、とイーラも言っていた。ゼロにはあずかり知らぬ何かがあるのだろう。
「それに甘んじる子ではないとも思うけれど」
満更ではない、と白いおもてに書いてある。
「あとさぁ、あの声でお願いされたい。いつも精霊にしてるみたいに」
「羨ましいだろう、私たちが」
「あんたはきっと召ばれないだろうから、羨ましくはない」
「それだよ。私は召ばれればいつだって応えるのに、どうして召んでくれないんだろう」
「情けねえ声出すなよ。シャイネが幻滅するだろ」
「きみほどではない」
生傷に盛大に塩をすり込まれた。油断していたらすぐこうだ。美術品のような造作で、ちっとも穏やかでないことを言う。彼女がのんびりしているということは、シャイネも切迫した事態にはないのだろう。
次に顔を合わせる時には、彼女も決断しているに違いない。進むのか戻るのか。血を浴びるのか、あるいは。
どんな形であれ、彼女の復讐を見届けたかった。シャイネが選んだ道を肯定し、黙って頷くことが旅の連れとしての役目であり、使命だ。
そしてそれが終われば、次はゼロの番だ。記憶を求め、滅びの原因を突き止めねばならない。無為に過ごす日々に終止符を打たねばならない。
今まで背を向け続けてきたものに相対するためには、とてつもない勇気と気力が必要だろう。けれど、きっと彼女が背中を押してくれる。
仲間でいる、二人でいるとはそういうことだ。単独ではできないことを可能にするための存在。支えであり頼りであり、寄る辺だ。できればシャイネにも同じ考えでいてほしい。
飾り紐に触れる。眠る時も湯を使う時も外さないために汚れているが、まだしばらくは切れそうにない。
「ゼロ、私はきみについてゆく。結論を出すまで、共に在ろう」
思いの外真摯な声に、唇が歪んだ。こちらは全く見通しが立たないのに。
「後悔するなよ」
「きみこそ」
ヴァルツは銀の髪を揺らして、闇に溶けて消えた。わざわざ励ましに来てくれたのかもしれない。どれだけしょぼくれていたのだと、我がことながら可笑しかった。
早く朝になればいい。ゼロは目を閉じて、眠りの到来を待つ。
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