静穏の彼方へ
静穏の彼方へ (1)
明るくなってからゼロの部屋の扉を叩くと、ぼんやりした寝起きの顔で迎えられた。中途半端に寝たり起きたりしたせいだろうと、申し訳なく思う。
身支度を終えると背筋は伸びたが、どうにも冴えない。風を
湯気を上げる野菜と茸入りの炒り卵にふうふう息を吹きかけていると、ゼロが肩を震わせた。
「お子様」
むっとするが、熱いものが苦手なのは事実なので言い返せない。当のゼロは、真っ先に味噌仕立ての汁物に口をつけていた。熱いからうまいんじゃないか、と言って。膨れつつ手を伸ばした雑穀入りの握り飯は塩が利いていて美味しかった。
「……でさ、どうするの、これから」
指についた米粒を舐めながら尋ねる。茹で野菜を食べているゼロはまるで他人事のように、さてねと息をついた。彼に関わりのある問題なのに、そうと打ち明けるのは気が引ける。
(結婚、かぁ)
将来どうするか、どうやって生きていくか。シャイネはこれまで真面目に考えたことがなかった。狩人として、あるいは旅人として、各地を巡るのだろうと漠然と考えるのみで、誰かと結婚するとか、子どもを産むとか、家族を持つということは想像もできない。
そうするかもしれない、相手がいれば。望まれれば。けれど自分はどうしたいのか、具体的な望みがあるわけではない。目を逸らしているのだとは思いたくないが、冬が来れば二十歳になる。いつまでも先延ばしにはしていられない。
三十を過ぎれば宿無しというわけにもいくまい。身体も無理が利かなくなるだろう。四十を過ぎれば一線を退かざるを得ない。五十、六十、その時どんな暮らしをしている? 孫に囲まれているだろうか。故郷に戻って機を織っているだろうか。それとも、身体の衰えを感じることなく若くして野に果てているのだろうか。どれもしっくり来ない。
父スイレンは二十代半ばで引退した。キムたちはみな三十の手前。そう遠い未来の話ではない。憧れを、望みを形にせねばならない。
(ゼロも結婚してたってことは、子どもがいてもおかしくないわけで……うわあこれはちょっと刺さるな……お父さんか……うーん)
キムの子を産むのだと思ったことはない。彼に熱を上げるリンドの娘たちに対して優越感を覚えていたのは確かだが、不思議なことに彼と家族になるという想像はしたことがなかった。
気が合う誰かと、どこかに腰を据えて魔物を狩ったり、細かな依頼をこなして過ごせればいいのだが、夢見がちにもほどがある。
「嫌だけどさ、バスカーのとこ、行ってみるか」
「えっ、何で。足は大丈夫なの」
ゼロは食後のお茶を啜っている。じじむさい。
「足はまあ、ほどほどなんだけどさ。このままじゃ埒明かないし。女神の武器なんてものがどうしてあそこにあったのか、バスカーがどうやってそれを知ったのか……直接訊いた方が早いんじゃないかって」
「レイノルドさんじゃだめなの」
バスカーには仕事の終了報告もしなければならないが、できればこれ以上関わりたくない。さっと行ってさっと帰るのが理想なのだが、そうもいかないだろう。
「本命君は何考えてるのかわからんし、たぶんバスカーより頭が切れる。あっちの都合で踊らされたくはない」
「そうかなあ……」
踊るも踊らないも、事態をすべて把握しているのはレイノルドだけなのではと思うが、そう説明するわけにもいかない。悩ましい。
難しい顔をしているところへ、給仕の娘が食器を下げに来た。シャイネとゼロの表情が冴えないのは怪我のせいだと思ったらしく、太陽のような笑みを浮かべる。
「今日はバスカーの船団が着く予定なんですよ。珍しい荷も上がるだろうから、港に行ってみたらいかがです? いい気分転換になると思いますよ」
船団が着く。ゼロを見遣ると、ばっちり目が合った。視線で頷き交わす。この機を逃す手はない、と。
「賑やかなんでしょうね」
「そりゃあもう。商品が市に並ぶのは明日以降になるだろうけど、何せ街も港も活気づきますから。やっぱりいいものですよ、船が着く日は」
船団が到着するなら、バスカーの手の者は港で積荷の護衛をするだろう。うまくすると青服たちまで借り出されるかもしれない。どちらにしても、屋敷は警備が手薄になる。つまり、身の危険が減る。バスカー自身も、到着した荷や、客の対応で忙しくなるに違いない。
けれども、依頼を持ち出せば、多忙であってもバスカーは時間を取るだろう。のらくらと結果を報告し、報酬をねだる。やきもきするバスカーをうまく乗せれば、値を吊り上げたり、石の詳細も聞き出せるかもしれない。
「船が着くのに合わせるぞ」
残りの茶を流し込み、競うように出発の支度を整えた。
剣と手回りの品だけを携え、大荷物は部屋に置いたまま外出の旨を伝える。給仕娘はシャイネらの行動の早さに驚いたようだったが、快く送り出してくれた。
まだ早い時間だというのに、通りには多くの人がいた。活気づくとの言葉通り、港に向かっている者が多い。流れに逆らい、北東の高台に位置するバスカーの屋敷を目指す。
「ね、ゼロ」
道の途中で歩みを止めた。歩調はゆっくりで、宿を出てからまだいくらも歩いていないのに、ゼロは苦しそうに顔を歪めていた。呼吸が荒い。
痛み止めは飲んでいるのだろうが、つらそうだ。人目がなければ風を召べるが、街中ではそれも無理だ。確か町を巡回する馬車があったはず、と周囲を見回す。
彼の左腕を支えて道の端に寄り、服の隠しから飾り紐を取り出す。漆黒の眼が訝しげに細まった。
「何だ」
「流行ってるんだって。自然に切れると、願い事が叶うらしいよ」
ゼロを守ってくれるように、と剣に宿る風に話しかけながら、飾り紐を剣帯に結んだ。鮮やかな青、白と薄い緑の三色で、鎖の模様を編んだものだ。黒い皮紐を合わせたせいか、旅装からも浮き上がることがない。
『もちろんです、姫様』
昨日、ゼロと話すよう勧めた風が小声で、けれど力強く頷いた。彼女はひとりで秘密を守っている。そのかたくなさは揺るぎない力になるだろう。
「……あんたが作ったのか」
「うん、そうだよ」
「器用なんだな」
意外にゼロは嫌がるふうでもなく、飾り紐を手にとって眺めている。買ったのか、ではなく、作ったのかと最初に訊かれたことにも驚いた。見てわかるものだろうか、それとも当てずっぽうか。
「あんたの分はないのか」
「え? ないよ」
勢いに任せて三本作ったが、残りの二本と古着屋でおまけにつけてもらったものは荷物の中だ。
「なんだ、つまらない」
口を尖らせる様子がおかしくて、思わず噴き出した。照れているのか怒っているのか、頬を染めたゼロの目が吊り上がる。
「何がおかしい」
「え、だって、他の人のことをお願いするものじゃないんだよ。自分の願いを、自分で唱えるんだからさ」
ふうん、と吐息のような呟きがこぼれた。
「……じゃあ、おれにもう一本、作ってくれ」
「別にいいけど……宿に戻れば、作ったのがあと二本あるし」
今の話の流れからすれば、ゼロが、シャイネのために何かを願う、ということにならないだろうか。何だかこそばゆい。
「全部、終わったらね」
「そうだな、頼む」
バスカー邸の門番は、多忙な日の突然の訪問に渋い顔をした。得体の知れない旅人相手だからでもあるだろう。
「ですから、今日は荷が着きますので、約束がいっぱいなんです。お引き取りください」
「じゃあ何だ、おれたちの受けた依頼は後回しでもいいってことかよ」
「いえ、そういうわけでは」
迷惑顔を隠そうともしない門番を相手にゼロがごねている後ろで、シャイネは俯きがちに小さくなっていた。髪の分け目を変えて伸びた前髪を垂らしておいたが、痣の痕はまだ目立つ。
門番の答え方からすると、バスカーは外出してはいないようだ。シャイネたちが来たと知れば、石を奪うべく、彼は必ず時間を割くだろう。そうでないのなら、このまま街を出てもよい。すぐに報酬を受け取れないのは痛手だが、石を持ったままの旅人をバスカーが逃すはずはない。時間が経てば経つほど、上乗せ報酬を分捕れるというものだ。
ここまで来る道中、馬車に揺られながらディーの力を借りて、石の複製を作った。見た目も重さもまったく同じ。偽物はシャイネが持ち、本物はゼロの荷の奥底に隠してある。
詐欺そのものだが、ヴァルツが「誰にも使えない」「誰にも渡すな」と言うのを無視はできなかった。本物をどうするのかはまた改めて考えねばならないが、野山に埋めるか、海に捨てたいというのが本音だった。
「せっかく依頼の報告に来てやったのに、忙しいから帰れはないだろうが。えぇ? 街一番の商人だか何だか知らんが、調子に乗ってんじゃねえぞ」
脅迫すれすれだが、うまくいくと自信ありげなゼロは役者顔負けの熱演だ。案外、楽しんでいるふうに見える。それとも傷の痛みでねじが飛んでしまったんだろうか。
柄が悪すぎやしないかと思うが、門番は彼の勢いにたじろいでいる。
「そうか、もういい。後であんたがバスカーに叱られないよう、祈っててやるよ。いや……叱られるくらいで済むといいな?」
「わ、ま、お待ちください、中に取り次ぎますので……」
シャイネを促し、来た道を引き返そうとするゼロを、門番が慌てて止めた。門の内側の小屋で何やらごそごそしていたかと思うと、馬に乗って一目散に駆けていった。こちらを振り返りもしない。
代わりに不機嫌そうな男が番として立った。休憩中だったのか体調が悪いのか、はたまたゼロの態度の悪さを吹き込まれたか。
報せに走った門番からバスカーにまで話が届き、返答があるまでどのくらいかかるのかはわからない。睨み合って過ごすこともなかろうと、門の脇にゼロを座らせた。
「……交渉とか、得意なんだ」
小声で尋ねると、彼はどうでもいいとでも言いたげに肩をすくめた。顔色はあまり良くない。なるほど、虚勢込みだったのか。
「ひとりでやってきたからな」
ヴァルツを前に立たせるわけにはいかないだろう。目立ちすぎる。シャイネは頷き、ぐるりと周囲を眺めた。
空はからりと晴れて、陽射しが強い。敷地内の木々が風にざわめき、萌える緑が弾く光が眩しかった。森も大地ものんびりと日向ぼっこをしている。庭師の腕がよいのだろう、窮屈そうな印象がない。
海に目を移せば、きらきらと輝く水面に多くの船が寄り集まっている。どの船も帆を下ろしており、こまごまと人が動いているのが見える。あれがバスカーの船団なのだろう。港の周囲には人だかりができ、賑わっているのがよくわかる。
喧騒と活気あふれる港と市。宿屋街と民家がひしめきあう街中、広い庭を抱く富豪たちの住宅街。海を抱く街の景観は美しいけれども、街並みを睥睨する高台に家を建て、そこに住まうというのは理解できない考え方だった。
思索を断ち切るように、がらがらと車輪の音が響いてくる。何事かと目を向けると、逞しい二頭の白馬が箱車を引いてやってくるところだった。馬を御しているのは執事で、シャイネらの来訪を告げた門番は騎乗したまま、後方にあった。思っていたよりも、ずいぶん早い出迎えだ。
シャイネらが追っ手をぶちのめし、レイノルドが手ぶらで飄々としている状況では、バスカーも気が気ではなかったということだろうか。
「御者はどうしたんだろ」
「おれらに時間を割くことをあまり知られたくないのかもな。こんな日だし、アレのことも内密にしたいだろうし」
ふうん、と頷いて立ち上がるゼロに肩を貸す。負傷していることは知られたくないから、ごくさりげなく動いたつもりだが、意図は伝わったようだった。
「お待たせいたしました、どうぞこちらへ」
執事はバスカーよりも若い。特徴のない中肉中背、色褪せた金髪は後ろに撫でつけられている。染みひとつない純白のシャツの襟は糊が効いており、ズボンの折り返しも見事なまでに整っていた。靴の先がぴかりと光る。
先日、依頼を受けにやって来た時にも窓口となった執事は、バスカーの下で働いているのが不思議なほど、完璧な振舞いを身につけていた。主の不躾な視線や、物欲しげで計算高い態度に影響された様子もなく、失礼にあたらない程度の無表情と隙のない所作に感心したものだ。彼一人雇うのも安くはなかろうと思う。
どこに出しても恥ずかしくない、逆にこちらの不作法を恥じるほどの人物なのに、主が悪名高いバスカーでは苦労も多かろう、と余計なお世話だと一喝されかねないことを考えながら、勧められるままに箱車に乗り込む。派手な車輪の音と共に馬車がゆっくりと動き出した。
屋敷に辿り着くまで馬車が必要なほどの広さの前庭は、示威のためでもあるのだろうし、防犯の意味もあるのかもしれない。手入の手間や維持費を含めればどうなのだろうと思うが、こんなことを考える時点でシャイネは庶民なのだろう。
曲がりくねった小道を進む馬車は、非日常に移行するための演出であるかのようだ。普段ならば歩いてもどうということのない距離だが、怪我を抱えるゼロには有難かろう。
「……で、どうするのさ。ほんと大丈夫?」
「あんたは堂々と胸張って、奴を睨んでてくれりゃそれでいい。喋るのはおれがやる」
「汗出てるけど」
「うるせえ、全部終わったらおれは寝込むからな。絶対寝込んでやる。それからうまいもん食って豪遊して、仕事はしない」
「あー、ゼロって遊び慣れてそうだもんね。わかるわかる。そだ、今朝ね、母さんが葡萄酒持ってきてくれたから帰ったら分けるね。ちょっと舐めたけど、美味しかったよ」
ゼロは箱車にもたれて黙ってしまったが、遊びに理解を示したシャイネに気の利いた返答ができないからだということは何となくわかったし、気詰まりな沈黙ではなかった。
そして、箱車の狭さと、揺れるたびに膝が触れる近さに気づいて新鮮な気持ちになる。洞窟ではあんなに離れて座っていたのに。
空白を縮めてくれたのは彼の親身さと自然な態度だ。胸の奥がぎゅっとして、生まれたなにかを逃がさぬよう、シャイネもまた流れる景色に視線を逃がした。
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