邂逅 (7)
シャイネの金髪が宿屋街の人波に紛れてから、レイノルドは人通りの少ない裏道を抜けて
後を尾けずとも、逗留先は把握している。負傷した彼女の連れが――アーレクスがまともに歩けるようになるまで、まだ少しかかるだろう。うまく牽制できている。
それにしても、勘のよい娘だった。苦く笑う。
ク・メルドルのことなど話すつもりはなかったのだが、凝り固まった警戒心を少しでも和らげることができたのならば良しとしよう。
まさかアーレクスが全て忘れているとは思わなかったが、だとすればあの時「例のもの」が何のことなのかわからず、怪訝そうにしていたことにも納得がいく。
張り巡らせた糸のうち、手応えが強かったのは最も工夫の少ないものだ。手っ取り早くて助かる。このままシャイネに接触を続ければ、アレは思いの外簡単に手に入るかもしれない。
白いシャツに、濃紺地に銀の縁取りのされた上着を重ねる。たっぷりした白地のマントは重いばかりでちっとも実用的でないが、裾に入った制服と同色の刺繍が身分証明になるというのだから、仕方ない。神職の連中はつまらぬことで見栄を張るうえ、中身の伴わぬ格式を重んじる。そんなふりをしているだけだというのは承知しているが、下らないことには変わりない。お遊戯だと思えば馬鹿らしさ以外は我慢できた。
二重になっている衣装棚の棚板の奥から、濃紺の鞘の長剣を選んで腰に吊るした。
雨上がりでぬかるむ坂を上って、路地を抜けて大通りへ出る。それまでに考え事を済ませてしまうのが、いつもの習慣だ。通りに出てからはどこに誰の目があるかわからない。
左右を見回すと、青色の制服がまだうろうろしている。彼らはレイノルドを見るなり、慌てて胸の前で指を重ねる略式の礼をとった。
礼に応え、まだ若い顔にどうだ、と声をかける。
「東地区で見失いまして……東地区と宿屋街、それから街道の出入り口を見張っているところです」
「一人か」
「はい。ですが、どこかに仲間がいるでしょう。宿を
「慌てずともよい。夕食時では宿も混乱するだろう。ただし、街からは絶対に出すな。門の警戒を強めろ。明日はバスカーの船団が入港する。混乱に紛れられては困るからな」
はっ、と威勢のよい声の若者に背を向け、神殿に向かった。次々に声がかかる。
「神殿長!」
「今日は、非番では」
槍を携えた紫紺の制服の男たちに軽く手を挙げて、レイノルドは中を覗いた。落ち着いているとはいえない。
「精霊の騒ぎがあっただろう。……アンリの奴が口出ししてくると、ユーレカが暴れだすのではないかと思ってな」
軽く肩を竦めて見せると、彼らははっきりと苦笑した。ユーレカとアンリ司教の仲が険悪であると、この神殿に所属するものならば誰でも知っている。
「副長なら、中に。……そろそろ危ないと、さっき出て行った奴が言ってました」
「わかった」
大扉を潜り、レイノルドの足で四歩。大きく開かれた扉の奥が、礼拝堂である。通路を右に進み、角を曲がったところには予備室や青服たちの詰所があり、さらに奥、階段を上ると、カヴェ神殿を任されているアンリ司教の執務室や資料室があるのだが、そちらは後回しでいい。
礼拝堂とは名前だけで、現在は礼拝は行われていない。神殿の催しで人々の集合場所として使われることが殆どで、それならば広間とすればよいものを、勿体をつけて礼拝堂などと呼ばせるのはいかにも神都の神職の連中が好みそうなことだった。
真っ直ぐ礼拝堂に入る。
入口からは紫紺の長絨毯が敷かれた通路が延びて、真正面に女神像を祀る祭壇が置かれている。祭壇の脇には供え物が山と積まれ、精緻な細工を施された燭台で蝋燭が赤々と燃えていた。
天井が高く、荘厳なつくりの礼拝堂は、灯りも十分用意されているものの、古いせいかどうにも薄暗い印象が拭えない。煤けた壁画が見下ろす中、青服たちがそこここでざわめいていた。どの顔にも、苛立ちと不安、そして疲労が色濃く表れている。
通路の両側には、長椅子が二列ずつずらりと並ぶ。入口から数えて四列目に、藍の制服の女がいた。栗色の髪を一つにまとめて結い上げているが、ほつれた毛が幾筋か肩にこぼれている。
彼女は居並ぶ面々に何やら指示を出していたが、レイノルドの姿を認めると、背筋を伸ばして手の甲を額に当てる礼をとった。周囲にいた青服たちも、それに倣う。
「ご苦労だな、ユーレカ・ベーリング」
「まったくです。……非番の日にすみません、隊長」
「いや、アンリには任せておけないだろう。あとは興味と、責任か?」
「語尾を上げないでください。責任だ、と断じればよろしいのです」
容赦を知らぬユーレカの言葉には、苦笑するしかない。正論を吐かせれば鋭利な刃物よりも殺傷力が高いとか、見下し責め詰る言葉がお似合いの女だとか、様々に陰口を交わされる副神殿長は数多くの異称を持つが、とりわけレイノルドが気に入っているのは「女王」だ。
自分がふらふらしていてもカヴェ神殿が立ちゆくのは、ユーレカの唇の赤さによるところが大きいと思っている。剣の腕も相当のものだが、元船乗りや港の荒くれたちを束ね上げるには剣の巧さや頭の回転だけでは足りない。隙のない化粧が効果的な場合もあるのだ。
「あなたは誰が何と言おうと、わたしたちの神殿長なのですから」
「そうだな」
カヴェ支部神殿を預かる神殿長として、およそ二百名の青服を束ねる「隊長」。
――これが、今のレイノルドの肩書きだ。
レイノルドはユーレカの傍らに腰を下ろし、彼女が空くまで待った。精霊の探索のため、街に散っていた者達の報告を頷きながら聞いているが、彼女の機嫌は悪化する一方だった。
まあ見つからないだろうな、と他人事のように思う。見つからぬよう手引きしたのは、自分なのだから。ある程度はシャイネ自身がうまくやるだろう。
青服たちの報告を聞き、警戒の強化や解散、待機などを輪番制の表に従って告げ、やがて列を捌き終えたユーレカはようやく息をついた。
栗毛が縁取る輪郭は、なだらかな美しい曲線を描いている。はっきりしたおもてを彩る濃いめの化粧のせいで何かと騒ぎになるが、ユーレカは自慢の部下だ。少々融通が利かないところがあるのには目を瞑るとして、真面目で決断力があり、頭もよい。女性であることにつきまとう誤解や侮りを裏返し、有利に使うやり方を知っている。
「どうか、わたしをお使いください」
カヴェの神殿長に着任したレイノルドの前に跪き、不敵に笑った葡萄色の眼の華やかさを、今でもはっきりと思い出せる。
カヴェは王国に属する一都市であるが、首都クリモフよりも大きく豊かな街なので、王家の影響はないに等しい。書類上の街長はいるが、実際にこの街を仕切り、動かしているのは商人で、彼らに庇護される代わりに便宜を図ってやるのが女神教だった。
それゆえ、国から治安維持のための騎士らが派遣されることもなく、昔からカヴェ内外の安全確保といざこざの解決は青服たちに一任されていたが、港や河川、運河や街道など輸送経路の使用権が入り組んでおり、手段を選ばぬ商人たちが虎視眈々と隙を窺うカヴェにおいて、青服たちは賄賂の前に無力だった。
レイノルドがカヴェを訪れたばかりの頃はひどい有様だった。商人たちとの癒着や、金勘定に忙しく、有名無実の神殿長。青服たちは派閥に分かれ、内輪揉め、陰湿な苛めや私刑、住民たちへの暴行と悪評には事欠かない。そのくせまともに剣も扱えない。
何だ、こいつらは? かつて法と秩序、忠誠と誓いの下に剣を授けられたレイノルドは呆然とし、怒りに震えた。この集団が治安維持のための武力だという、これが悪い冗談でなくて何だというのだ。
カヴェ神殿の状態を把握してすぐ、精力的に活動した。カヴェで厄介なものとして、街のごろつきと酔っ払った海の男、そして青服、と数え上げられていた寄せ集めの集団に訓練を施し、綱紀を改め、規律を徹底させた。不服従を態度で示す者には行動で返した。減俸、謹慎、あるいは除隊。私的決闘も受けた。実力を知らしめる良い機会だったので、相手の立場と状況を見極めて徹底的にのした。
巡回班の再編成と輪番制の見直しを行い、独自に制服を着ない青服の部隊を作って、情報収集のために街へ放った。港、商人たち、役所など要所に人をやり、内部事情を調べると共に信頼関係を築いた。過去に宿屋街を襲った鳥型の魔物への警戒と示威のために銃士隊を組織し、適性のありそうなものを選抜して訓練も始めた。
それからもうすぐ二年、ようやく治安維持部隊としての体裁と秩序が整ってきたところである。ある意味、土台が腐りきっていたからこそ一から手入れを行い、短期間でここまで形ができあがったのだろう。手の施しようがなかった部分を切り捨てると、改革の噂を聞きつけた者が新たに志願することも増えた。
改革を始めて間もない頃、剣の扱いが未熟な者を集め、唾を飛ばしながら基本の型を教えているところに現れたのが、ユーレカだ。
彼女は、首都クリモフに私塾を構える剣術家の娘だと名乗った。自らも剣を修め、レイノルドが部隊の再編成を行っているという噂を聞きつけてカヴェにやってきたのだという。
彼女の指導は単純明快で、難しいことは一切言わず、基本の型や動きを一通り教えた後は、実践を重視した。ユーレカを高慢ちきな女だと蔑んでいた男たちが剣術の面白さ、奥深さに目覚めて、或いは彼女の目に留まりたいがために態度を改めてゆくさまは小気味良く、その頃にはユーレカを手放すことなど考えられなくなっていた。
レイノルドが、どうかずっとカヴェに留まってくれと頭を下げた時、彼女は艶やかに笑ったものだ。
「それは、わたしがお願いするべきことです。……どうぞこのまま、お傍にお置きください」
ユーレカはレイノルドに応え、レイノルドはユーレカに応えた。
細かな不満は未だに燻っているものの、いつしか表立った反抗や不信の表明はなくなり、意思や連絡の伝達が滞りなく行われるようになっていた。
街の治安も改まり、港に派出所を置いて青服を常駐させてからは、港湾管理局や船乗りとの関係も改善した。内々の情報が事前に耳に入って、違法な取引や不正の検挙数が上がると、船の行き来がより活発になって商人たちも喜んだ。
レイノルドかユーレカ、どちらかが不在でも日常の巡回や警備、警護に支障がなくなり、随分楽になったのは最近のことで、だからこその休日だったのだが、神職の長であるアンリ司教は根っからの精霊排斥論者だ。女神教の中心地にして聖地である神都の教育に頭まで浸ってきたのだから仕方ないとはいえ、レイノルドの不在を理由に職権を振りかざし、口出しされるのは不愉快だ。横槍を入れられてシャイネが捕まっては困る。
アンリは恐らく、青服の全てを動員し、宿屋街を掘り返してでも精霊を探せなどと無茶を言ってきたに違いない。そういうわけには参りません、と額に青筋を浮かべるユーレカの姿が目に浮かぶ。
「初めから聞こう」
「はい。昼すぎ……雨が降りはじめた頃、巡回に出ていた者が通りで精霊に出会ったそうです。旅人風の格好をしていたそうで、半精霊かもしれません。北の方では半精霊が狩人として活躍していると聞きますし」
「何故精霊だとわかった?」
「雨雲のせいで暗くなって、眼が光っていたと。アニーの店の前だそうです」
なるほど、とレイノルドは頷いた。
北の市で、シャイネは何をしていたのだろう。旅人相手の店ではないはずだ。或いはそれと知らず迷い込んだだけだろうか。それともまさか、バスカーに会いに?
「声をかけると逃げたので、追跡し……応援で呼ばれたガンディが一度は捕らえたそうなのですが、妙な術を使って逃走したとのことです」
「特徴は」
「金髪の若い男です。ガンディが言うには、細身の少年だった、と。帯剣しています」
ユーレカは言葉を切り、レイノルドを横目で睨んだ。
「坊ちゃまが癇癪を起こしておられますよ。宿を検めるといって。……逃がしたのではないのですか、隊長が?」
坊ちゃまとは、アンリ司教のことだ。神都で生まれ育った彼が遊学という名目でカヴェにやって来て半年。同い年のユーレカとアンリ司教はともかく相性が悪い。普段は冷静で論理的なユーレカが、彼を相手にする時にのみ調子を崩す。
とにかく嫌いなのです、許せないのです、殴りたいのです、と言って頭を抱える。そういうこともあるだろう、と重くは考えていない。見ていて面白いというのもある。
「何故そう思う」
「隊長は以前、ク・メルドルにおられたでしょう。精霊に親しむ都市です。かれは、隊長のご自宅付近で行方がわからなくなったようですし。……それに、明日はバスカーの船団が入港予定ですから、警備は港に集中します。何か起きるなら明日なのではないかと」
完璧な答えに、くつくつと喉で笑った。ここまでわかっているなら、話は早い。
ひとつ息をついて、つとめてゆっくりと話した。感情的にならぬように。
「相手は半精霊の、女だ。男装している。逃走を止めるためだろうが、ガンディが手を上げたようだ。顔の半分が紫色になっていた」
ユーレカは前を向いたまま、僅かに目を細めた。
「私は、そういうやり方が好きではない。……ガンディを責める気もないが」
「存じております」
シャイネはガンディの仕打ちを青服の、ひいては女神教の総意だと思ったに違いないが、必ずしもそうではない。
レイノルドがカヴェ神殿の神殿長となってから、青服たちに精霊排斥を訴えかけるのを止めた。それよりもまず街の治安だ、とさりげなく目を向ける方向を変えてやったのである。露骨に見て見ぬふりをするにはまだ、周知徹底がされていなかったようだが。
こちらで子を生せる力ある精霊はほんのわずかで、半精霊はさらに数が少ない。人に混じって暮らす無害な半精霊たちに難癖をつけて引っ立てるより、やるべきことは他にある。
かといって職務の規定から精霊の捕縛に関する項目を抹消すると、神職の連中が目くじらを立てて抗議にやってくるのは火を見るより明らかだ。世界に数人しかいないだろう半精霊に、そうそう遭遇することもなかろうと後回しにしていたが、運の悪い半精霊もいるものだ。そして彼女を追い回すことも青服の職務である以上、手柄を欲する若い連中が逸るのは仕方がなかった。
ガンディは元水夫で、気性が荒い。彼自身が精霊をどう思っているか、ということも関係するだろうが、それでも出会って即殴りつける、というのは感心できなかった。捕まえろというのは、暴力を振るってよいという意味ではない。
「できれば、見逃がしてやりたい。ただ、彼女とその連れはアレを持っているからな」
「はい」
ユーレカは顎を引いて、微かに頷いた。
「バスカーもどこから聞きつけてきたのやら」
「……何を企んでおられるのです」
好奇心と不安とがないまぜになった彼女の言葉には確信が籠もっている。よくわかっているじゃないかと、吐息に似た笑いが零れた。
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