第108話 エルフと魔の泉

「疲れてきましたね」


 リンは少し息を切らして言った。


「そうですね。この辺りで休憩にしましょうか」


 イリーウィアはまだ余力がある様だったがそう言った。


「やたら鳥共が組織的に動いていると思ったらやはり君か。イリーウィア」


 リンは上から声が聞こえてきてギョッとした。


 木の上には一人のエルフがいた。


 若く美しい男で、ほとんど人間と変わらない身なりをしていたが、耳が尖っているのと、気配が希薄なことが大きな違いだった。


 彼はそのあたりに生えている木とほとんど変わらない静かな生気しか備えていなかった。


 これだけ近くにいたというのに、リンには全く気配を感じ取れなかった。


「あら。オーリアさん」


「また新しい恋人を作ったのかいイリーウィア?」


「えっ、イリーウィアさんエルフと知り合いなんですか?」


 リンはイリーウィアとエルフのオーリアが知り合いの様に話しているのを見て驚いた。


 彼らは精霊の中では唯一人間に使役されないとリンは聞いていた。


「そんなに驚くことないだろう。僕らは森の住人だけれど人間と魔獣の争いに関しては中立だ。人間に肩入れすることはないけれど。雑談くらいはするよ」


「人間と魔獣の争い?」


「……君くらいの年だと知らないのも仕方ないか。いいだろう。話してやろう」


 オーリアは昔を懐かしむように魔獣と塔の歴史について話した。


「以前は……、以前と言っても1000年以上前だけれど……、魔獣の方が優勢だったんだ。しょっちゅう森を出ては人間を襲撃していた。ところが塔ができてからはめっきりでね。魔導師の魔道具の方がはるかに強くなった。みんな森の中に閉じこもるようになったよ」


 オーリアは諦念の様なものを漂わせながら言った。


 それから急にイリーウィアの方を向いて意味深な笑みを浮かべる。


「最近、デュークとかいう男は滅多に見なくなったね。以前はよく一緒に森に来ていたのに。代わりにヘルドやアイシャをよく見るようになった」


 オーリアはリンには分からないように魔獣の言葉で言った。


 イリーウィアも魔獣の言葉で返す。


「デュークなんて知りません。最近彼は私に冷たくて」


「そして今度はその子が新しいオモチャというわけだ」


 オーリアは唇を歪めながら言った。


 中立とは言ったものの人間がやたらと森の中で威勢を張っている現状は、あまり面白くはなかった。


「オーリアさん。私達は休憩する場所を探しています。どこかいい場所は知りませんか?」


 イリーウィアはこれ以上オーリアが余計なことを言わないうちに魔法語で聞いた。


「君達はブルーゾーンにキャンプ地があるじゃないか」


「せっかくだから恋人と一緒にゆっくりできる場所がいいのです。二人っきりでね」


「ふむ。ではここから東に行きたまえ。そこに遺跡がある。遺跡には腰掛けるところもあるし、泉もある。泉には魔力が満ちているから回復できるし、水浴びもできるよ」


「どうもありがとうございます」


 二人は必要のないアイテムをエルフにあげてお礼を言った。


 グリフォンに乗って遺跡に向かう。


 迅速な移動を阻害する小人は破壊して土くれに帰した。




 魔獣の森に埋もれる遺跡は巨大な構造物だった。


 石造りの壁に石柱。


 壁の至る場所には古代の絵と文字が描かれている。


 かつてはおそらく神殿か王宮だったか、いずれにしても過去にはさぞや栄華を誇ったであろうことがうかがえる立派な建物だった。


 もっとも今となってはいたるところにヒビが入り、草木に覆われ蔦に侵食され、ほとんどが地盤に沈み、湖に浸されていた。


 今はまだ建物の体裁を保っているものの、いずれは魔獣の支配するこの森によって飲み込まれる運命にあった。


 二人は泉を探して遺跡の中を歩き回る。


 瓦礫がそこかしこに散らばっていて足場が不安定なため、二人は手を取り合いながら歩いた。


 泉は遺構物と岩肌、森林に囲まれた場所にあった。


 そこは元々庭だったのだろうか。


 段差のある広大な窪地に水が満たされている。


 とても綺麗な水で満たされていて、底まで透き通って見ることができた。


「綺麗な水ですね」


「ええ、でも少し殺風景。シルフ!」


 シルフが泉に息を吹きかけると泉から一斉にシャボン玉が浮かび上がった。


 イリーウィアは指輪の光を泡に浴びせる。


 泡は光を複雑に交差させ、オーロラのように色彩のヴェールを作り出す。


 鬱蒼としていた湖は光のきらめきで満たされる。


 暖かい色彩からなる光のヴェールは、寒々しい灰色の遺跡にぬくもりを与えた。


 すべての活動を止め朽ち果てて行く運命だった遺跡に、命の息吹が吹きかけられ、あたかもそこだけ過去の営みと栄華を取り戻したかのようだった。


「うわぁ。綺麗ですね」


 リンはイリーウィアの作った光景の美しさに感嘆の声をあげた。


 イリーウィアは突然服を脱ぎ始め、薄布一枚の姿になる。


 服はグリフォンの背中に預けられる。


 リンはギョッとする。


「イリーウィアさん何を……」


「オーリアさんが言っていたじゃありませんか。泉で水浴びできるって」


 そう言うとイリーウィアは泉に飛び込んで遊泳し始める。


 リンはたじろいだ。


 いくらエルフに勧められたからって、魔獣が潜んでいるこの森でこんな無防備な姿になるなんて。


 シルフが泉の周囲を漂いながらモヤのようなものを撒く。


 それは結界だった。


 向こう岸にたどり着いたイリーウィアは髪を梳き始める。


 きらめく泡と光に包まれながら水浴びするイリーウィアは、古代の神話に出てくる美の女神と見紛わんばかりの美しさだった。


 リンは苦笑した。


 魔獣の森の危険な泉も、彼女の手にかかればたちどころに王宮の浴場になった。


「リン。あなたもこっちにいらっしゃい」


 イリーウィアは反対側の岸で髪を結いながら言った。


「え、いいんですか」


「ええ、もちろん。あなたも魔力を回復させたいでしょう?」


 リンはちょっとばかり迷った。


 果たして王族の、しかも女性の入っている泉に自分なんかがご一緒していいのだろうか。


 リンは先ほどから目のやり場に困っていた。


 彼女は薄布一枚着ているとはいえ、それをまくった後には素肌しかなかった。


 とはいえイリーウィアがいいと言っているのだからいいのかもしれない。


 何より彼女の命令に逆らうのは失礼なように思えた。


 リンがたじろいでいるとグリフォンが背後から突き落としてくる。


 リンは水中に沈みながら魔力が満たされていくのを感じた。


 なるほどこれは確かにいいものだ、とリンは思った。


 水は冷たいはずなのになぜか体はポカポカと温まってくる。


 水中にもかかわらず息苦しくなくて呼吸する必要もなかった。


 リンはまるで魚になったような気分だった。


 泳ぎ方なんて知らないはずなのに自由に動ける。


 何もしなくても勝手に体が浮かんでいく。


 水面に出て空気に触れる。


 リンは背泳ぎの格好で水面に浮かび流れるままに流れた。


 体の力が抜けて、心地よい気分になり、ぼーっとしてくる。


 途中で頭が何かにぶつかるのを感じた。


 イリーウィアだった。


 リンはギョッとして急いで体を起こす。


「うっ、うわあ。すみません」


「いえいえ。いいんですよ」


 イリーウィアはクスクス笑いながら言った。


「よほど疲れていたんですね。本当に心地よさそうでしたよ」


 リンは顔を赤くして俯いた。


 それは彼女の前でだらしない姿を見せてしまったのもあるが、それよりも彼女の体が至近距離にあるからだった。


 彼女が身にまとっているワンピース状の薄布はすっかり濡れて彼女に密着していた。


 彼女の豊かな体つきをくっきり表している上に、きらめく肌が透けて見えている。


 光のヴェールのおかげでかろうじて、肝心なところが見えていないだけだった。


 リンは彼女を直視することができなかった。


「あら? どうしたんです? 顔が真っ赤ですよ」


「……からかわないでください」


「ふふ。ごめんなさい」


 イリーウィアは光の加減を変えて薄布を褐色にした。


 彼女はバスタオルを巻いたような姿になる。


 それでもまだ刺激的な姿であることは変わりない。


 普段は決してさらされることのない太ももから足にかけてのライン、そして豊かな胸の谷間。


 それらはまだ隠れておらず覗こうと思えばいくらでも覗けた。


 かと言ってリンは彼女をどうこうする気にはなれない。


 そんなことをすれば近くに佇んでいるシルフや鳥の魔獣、グリフォンに何をされるか分かったものじゃなかった。


 特にグリフォンは先ほどから湖畔で目を瞑ってうつ伏せになっていたが、耳だけはピンと立てて、少しの音も聞き漏らさまいとしていた。


 リンは不意に立ちくらみのような症状を覚える。


「っ」


「大丈夫ですか?」


「なんだか眩暈が……」


「急に魔力を回復したからでしょう。よほど疲れていたのでしょうね」


「……はい」


「横になっていいですよ」


「すみません。では遠慮なく」


 リンは足だけ魔の泉に浸かったまま岸辺に上半身を乗せて仰向けになる。


 イリーウィアが自分の額に手をかざしているのを感じた。


 回復の呪文を唱えてくれる。


 それだけでリンは心が落ち着いて来た。


 シャボン玉は相変わらず泉からポコポコ現れていて、とても綺麗だった。


 心なしかアロマの香りも漂ってくる。


 リンは夢見心地になってくる。


「どうですか? 気分は良くなりました?」


「いい気分です。王族の暮らしというのは毎日こんな感じなのですか?」


「ウィンガルドの王宮はここよりももっといい場所ですよ」


「やっぱりそうなんですね」


「リン。あなたもウィンガルドに来てはいかがですか? 」


「そうですね。いつか行ってみたいです」


「いつかと言わず今すぐに」


「そういうわけにはいきませんよ。まだ僕は修行中の身。塔から離れるわけにはいきません」


「つれないですねえ」


 イリーウィアは苦笑した後、ずっと聞きたかった本題に入ることにした。


「リン、王国騎士団に入る心の準備はできましたか?」


「そのことなのですが、実は迷っています」


「えっ!? 迷っているのですか?」


 イリーウィアは少し動揺したようなそぶりを見せた。


 リンはのぼせていたので気付かなかった。


「ええ。僕は塔の頂上を目指しているんです」


「塔の頂上?」


「そのために王国騎士団に入るのが果たして良いのかどうか、判断がつかなくって。でもイリーウィアさんに恩返しもしたいですし……」


「……」


「僕の知り合いで塔の頂上を目指している人がいて、僕はずっとその人を目指して頑張っているのですが、果たして追いつけるのかどうか。今どのくらい離れているのかすら分からないんです」


「そう……ですか」


 イリーウィアは少し憂鬱そうな顔で俯いた。




 日が暮れ始める。


「姫。準備ができましたよ」


 ヘルドの声がしてリンはハッと我に返った。


「今行きます」


 イリーウィアが泉からあがる。


 泡と不思議な光に包まれた空間から出た時、彼女はすでに体を乾燥させ狩衣を着ていた。


 リンはホッとしたような残念なような気分になる。


「よくここにいると分かりましたね」


「鳥共が集まっていたのでもしやと思いましてね。お邪魔でしたか?」


「いえいえ。丁度いいところでしたよ」


「それは良かった。船の準備ができておりますよ。ご案内します」




 ヘルドはイエローゾーンからブルーゾーンに向かって流れる川の縁に船を用意していた。


 帰りはこれに乗って、川を下り、ブルーゾーンまで行くという。


 その準備の良さからヘルドにはあらかじめ迎えに来るよう伝えていたのだとわかる。


 リンが船に乗るとそこにオークがいてギョッとする。


「大丈夫だよ。彼は私の支配下にある魔獣だ」


 ヘルドが言った。


「ヘルドはオークを従わせることができるのです。ウィンガルドでもオークを従わせることができる魔導師は少ないんですよ」


 イリーウィアが付け加えて言った。


 ヘルドは手際よく帆を張り川を下る準備をする。


 オークが船を漕ぐのを指揮して、自身は船の重心と方向を保つために質量の杖を振るう。


 途中で水の精霊を捕まえて水流を速めてもらう。


「すみません。迎えに来てもらうだけ来てもらって、何も手伝えなくって」


「いいよ。初めてグリフォンに乗りながら狩りをしたんだ。疲れたろう。休んでなよ」


「ありがとうございます。ではお言葉に甘えて」


 リンは船のへりにもたれてウトウトした。


 またヘルドが声をかけてくる。


「そこでは疲れるだろう。グリフォンを背もたれにしなよ」


 リンは言う通り寝そべるグリフォンを背もたれにまどろんだ。


 途中でイリーウィアが隣に来る。


 二人で一緒にウェアウルフの毛皮にくるまる。


(ヘルドさん。気遣いができていい人だな)


 リンはまどろみに落ちていく頭の中でそんな事を思った。


 その一方で別の疑問が頭をもたげてくる。


(デュークさんには迎えに来るよう言っていないのかな。ヘルドさんには言ったのに)


 ぼーっとした頭でそんなことを考えた。


 リンは幸せだった。


 優しくて頼もしい人達に囲まれ、楽しい時間を過ごすことができて。


 川を下ってブルーゾーンについた後、三人はまたグリフォンに乗って塔に帰還した。


 その後は夜通しのお茶会を楽しんだ。




 次回、第109話「威力偵察」

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