第8話
現実の事件で、しかも被害者の声が聞こえるというのは、ゲームでいえばチートみたいなものだった。あっけなく、犯人は捕まるのだ。完全犯罪はあり得なかった。にしても肝が冷えた。覚悟はしていたけれど、まさか僕まで殺されそうになるとは。
部屋に戻る。もうこれできっと無事に晴野さんは成仏できるだろう。明かりをつけて、ふと思い出して明かりを消した。
部屋に入るとカーテンが開けっ放しだったので、三日月より少し太った月明りが部屋を薄く照らしていた。僕が窓のほうに歩いていくと、視界の端から晴野さんが僕の目の前に回っていったのが見えた。さっきの劇場よりも、大学よりもよく見える。不思議なもので、薄暗いのに彼女はやっぱり光って見えて、なんだか、本当に天使のように思えた。
「これで安心して成仏できそう?」
いたずらに僕は言う。
「はい、ありがとうございました」
「どういたしまして。よかったよ、君が悪霊にならなくて」
肩を竦めてみせた。
「失礼ですね」
「失礼なもんか。本当に心配だったんだ。大学で急に反応がなくなったときは肝が冷えたよ」
「あれは、ちょっとした演技です」
「ほんとかよ。もしかしたら悪霊に進化しそうになったんじゃないの」
「進化したらよかったですかね」
「いや、勘弁願います」
ふふふ、と晴野さんは笑った。
「にしても、スピード解決だったね。君の言う通りだった」
「何がですか?」
「君がいたから、簡単に解決できた」
「そうでしょ? ふふふ」
「ああ、少し、僕が名探偵みたいだった。ありがと。不謹慎だけど、ありがとう」
「いえいえ、当の私はそんな風に思ってませんから大丈夫です。むしろ、死んでからあなたに会えて、感謝までされて、なかなか幽霊もいいもんだと思いました」
「だからそういうの笑えないって」
ふふふ、と晴野さんは笑った。
「私、幽霊みたいに消えるんですかね」
「そりゃ幽霊だからね。消えるでしょ」
「冷たくないですか?」
「赤の他人だからね」
「ひどいなあ、膝の上に座って座られた仲なのに」
「忘れたよ」
「覚えてていいって言ったじゃないですか」
「忘れろって言ったじゃん」
「そういいましたけど、前言撤回です」
なんだそれ。鼻で笑ってしまった。
「あの」晴野さんが言った。
「なに?」
「あの、私、楽しかったです」
「僕も楽しかった」
「たった一日だったけど、まるで、ロミオとジュリエットみたいで、一目で恋に落ちて、熱く燃え上がる——とはまったく程遠かったですけど、少しは甘酸っぱい気がしました」
「そりゃよかったね」
「あなたは、よかったですか?」
「……まあ、忘れたくないな、と、思うくらいには」
ふふふ、と晴野さんが笑った。
「ならよしとしましょう」
なんでそんなに自慢げなんだ。
「それじゃあ、私はこの辺で失礼させていただきます」
「そう」
「はい。あ、呼び止めようとしても無駄ですからね? 私、幽霊ですから」
「呼び止めないよ。とっとと成仏してくれ」
「やっぱり冷たいなあ」
天に昇るように、背中に翼が生えたように、晴野さんは月に向かって、飛び立った。それから「名前を教えてください」と言われて、僕はまだ名乗っていなかったことを思い出して名乗った。晴野さんが小さく口を動かしたと思ったら、ふっと僕のもとへやってきて、
「なかなか素敵な初恋でした」
と。
僕の口元に、かすかに甘い香りと血の生臭い香りが漂って、柔らかな感触があった。ぼうっとした。突然のことで反応できなかった。ただ、彼女が飛んで行った軌跡を描くように、何かがきらりと月明りに照らされて見えた。してやられた。つうかなんだって最後の最後で血の香りまでするんだよ。最期が血まみれだったからか。そこは都合よくあってくれよ。なんだか妙な幽霊だった。
翌日、目が覚めて、洗濯物を干し忘れていたことに気づいた。最悪だ。また洗濯しなきゃ。ため息をつきながら洗濯機を回して、歯を磨く。スマホを取り出して番組表を見た。よかった、昨日は高校サッカーがあったからドラマの再放送は今日に延期になっていたらしい。ナイスだ高校サッカー。あまり知らないけれど、どこが優勝してもいいからファイトだファイト。
洗濯物を回している間に一度テレビの前に陣取る。早くドラマが始まらないものか。それに昨日の事件が解決したのかも気になる。と、テレビを見ていると、突然テロップが流れた。
「本日予定していたドラマ”
そうだった……。昨日警察に垂れ込んだあいつが出ているのだった。ちくしょう。楽しみにしていたのに。犯人は結局誰なんだ。レンタルしに行くか? そもそもDVD化されているのか? もやもやする。
ふと、昨日の晴野さんを思い出す。まあ、いいか。あれで、ちゃらってことで。なかなか奇妙な、幽霊な彼女が出来た、ってことで。
ニュースを垂れ流して晴野さんのことを考えていると、洗濯物が洗い終わったようで、洗濯機からぴーと僕を呼ぶ音がした。今日は天気雨が降るんだろうか、とすっかり晴れ渡った空を眺めた。
天気雨が降っていた 久環紫久 @sozaisanzx
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