第7話
「晴野さん?」
声をかける。けれども返事はない。
「晴野さん?」
声をあげる。けれども反応はない。
「晴野さん? いないの?」
辺りを見渡す。けれども姿は見えない。外はもう薄暗い。あと少しで完全に夜になる。だから室内は当然のように明かりがついていた。
「晴野さん? 晴野さん? いたら返事してくれよ」
何もない。目に映るのは危ない人のように怪訝な眼で僕を見ては距離を取って歩く人ばかりだ。何度か彼女の名前を呼んだが、答えてくれる様子はない。どうしたらいい。どうしたらいいんだ。僕から離れることはできないと言っていた。だから僕のそばにいるはずだ。そばにはいるはずなんだ。手を伸ばして、水中でもがくように手探りをするけれど、何もつかめなかった。また彼女の名前を呼ぶ。どこかで、赤の他人にどうしてここまで気をつかうと疑問に思う。ばかばかしいとも思う。相手は幽霊で、つい昨日出会ってしまった存在で、いわば事故の相手だ。なのに、どうしてここまで心がざわつくんだろう。
今の今までずっとそこにいた感覚があった。それが当たり前のような感覚になりつつあった。だからこそ、なおのこと消えてしまったその感覚が怖くて仕方ない。
怪しげに思った警備員が僕のもとに駆け寄ってきた。適当にあしらうと、腕を掴まれた。振りほどく。邪魔だ。晴野さんの名を呼ぶ。どこにいるんだよ。いたら返事をしてくれよ。見えないから、わからないから、どこにいるのか教えてくれよ。心配でたまらなくなる。もう成仏したんだろうか。そんなわけはないはずだ。犯人を見つけたいと言っていた。犯人がわかったのか? 思い出したのか? だったらちゃんと声をかけてくれよ。晴野さん。
「晴野さん!」
叫んだ時だった。バンッと爆発音がして、明かりが消えた。悲鳴が聞こえる。どこかの女生徒が叫んだんだろう。どうでもいい。明かりが消えたなら晴野さんの姿が見えるはずだ。目を凝らす。暗闇に早く目が慣れろ。早く慣れてくれ。悲鳴が煩わしい。うっとうしい。耳を澄ます。目を凝らす。辺りを見渡す。かすかに押し殺したような泣き声が聞こえた。我慢できずに漏れ出たその声を僕は聞き逃さなかった。後ろを振り向く。見逃さなかった。いた。そこにいた。そこに晴野さんがいた。うずくまって、膝に顔をうずめて、呪怨に出てくるあの子供みたいにしている晴野さんを見つけた。けれどもその子供とは違って彼女は天使のように光って見えた。
「どうしたのさ」僕は尋ねる。
「何があったのさ」僕は尋ねる。
「急に離れるなよ。びっくりするじゃないか」僕は言う。
「何かあったなら、ちゃんと言ってくれ。僕が話を聞くから」
しばらく彼女は黙りこくっていた。そのそばに腰を下ろして、彼女を見守る。きっと、この泣き声は僕にしか聞こえていない。この暗闇の中で、まるで世界は僕と晴野さんの二人限になったように、僕は晴野さんだけを見ていた。
しゃくりをこらえて、晴野さんは一度深呼吸をした。それから、「……思い出したんです」と言った。静かに、水面に波紋が浮かぶように、僕だけに聞こえるように、言った。
「全部、思い出したんです」
大学を離れ、帰路につき、そのまま僕はエレベーターで十二階まで向かった。一二〇三号室。そこに向かった。インターホンを鳴らすと、部屋の主が現れた。
「どちら様——ああ、君、昼間うちの舞台を見に来てくれた人だよね? でも困るなあ、そういう熱烈なファンは歓迎していないんだ。警察呼ぶけどいいかな?」
出てきたのは昼間に見た舞台の主宰の男だった。確か名前を
「別にどうぞ。それに僕、あんたのファンじゃないですし」
「なんだい、じゃあなんでうちに? 迷惑なんだよなあ。プライベートまで入ってこられるのは困るんだけど」
「少し話があって」
「話? ああ、うちの劇団に入りたいとか? オーディションが必要だよ。ていうか、俺に興味がないならこっちから願い下げなんだけどなあ」
「そういうことじゃないですよ。あんたが犯した殺人について、話があって」
「……なんのことかな」
端正な顔が一瞬歪んだ。汚らしい歪な顔だった。
「昨日、あんたが人を殺したことを知ってるんですよ」
「……ここで話すのもなんだし、うちに入りなよ」
覚悟を決めて部屋に入った。玄関で靴を脱ぎ、ずけずけと部屋に入っていく。見渡せば、ずいぶんといい暮らしをしているように見えた。なにかにつけて高そうだった。
「ゆすりか?」とそいつは言った。
「いくらほしい?」
「そういうことじゃないですよ」
「じゃあなんだ」
「自首しませんか」
そいつは鼻で笑った。
「どうして?」
「悪いことをしたら罰せられるべきだと思うからです」
「なに、もしかして君正義のヒーロー気取り? ていうかさ、俺が人を殺したとか言ってるけど、頭大丈夫?」
「あんたこそ大丈夫ですか? さっき警察呼ぶって言ってましたけど、この部屋に入られたら、昨日何をしたのかもバレるかもしれませんよ」
「なんのことかな」
「今更しらばっくれても遅いですよ。全部分かったんだ。全部思い出したんだ。晴野さんは、あんたに殺された。あんたが晴野さんを殺した。理由も言うべきですか? ————自分に靡かなかったから。そして、あんたが次回作の脚本を自分のものにしたかったから。そうでしょう?」
あの舞台を見てなつかしく思ったのは自分が書いたからだった。稲穂大に通っていたのは、演劇学科で脚本家になるべく学ぶためだった。一年生にして晴野さんはそのセンスが認められ、狙い通り教授からの太鼓判もあってこの霧島の劇団に参加することが叶ったのである。
「あんたは昨日、次回作の打ち合わせをするという名目で晴野さんをこの部屋に呼んだ」
昨日、ちょうど僕がドラマに夢中になっていたころ、晴野さんはこの部屋にいた。
「台本を読んで、あんたはおそらく怖気づいた。自分以上に面白いものを書く人間が現れた。あんたの劇団はあんたのものだから、そこに違う看板があがってしまうのは避けたかった。だからその脚本を自分の名義にしてほしいと晴野さんに頼んだ。けれども彼女はそれを拒否した。それがあんたは気に食わなかった」
「なにを言ってるんだい? 意味が分からない」
「僕だって意味がわからないよ。突然幽霊に出会ってしまって、そしたらそいつは自殺してないから犯人見つけてくれって言うし、記憶喪失だし、記憶取り戻したら犯人は気休めに見に行った劇団の主宰だし、ていうか記憶喪失は一時間じゃなかったし」
記憶喪失は一時間じゃなかった。すっぽり一年分の記憶が抜けていた。晴野さんは去年、受験を終え、母親に連れられて霧島の舞台を見に行って、そこで霧島の劇団に入ることを決意した。そして、彼女は一年間、霧島の劇団でスタッフとして活動していたのだ。どうしてその記憶がすっぽり抜けてしまったのか。それはきっと霧島に対する恐怖心が影響したのだろう。けれども霧島の舞台に対する情熱は消えなかった。リセットされた、と言ったほうがいいだろうか。潜在的に記憶が消えても残っていたその情熱で、あの劇団を見ることを選んだ。懐かしい感じがしたのはおっかけをしていたからじゃない。そこで活動していたからだった。にしても杜撰な記憶喪失だ。幽霊なんて知らないからそんなものなのかもしれないけれど、今度はもう少しまともな記憶喪失であってほしい。いや、今度はいらないけれど。
「酷い話だよ、まったく」
「すみません」後ろで晴野さんが謝ってきた。
「とにかくだ、それで、あんたはかっとなって晴野さんの頭を掴んでそこのテーブルに叩きつけた」
「何言ってんだ」
「昨日はテーブルクロスなんてつけてなかったんでしょう? だから」
「やめろ!」
無理やりにテーブルクロスをはがす。そこには微かに血痕があった。
「あんたはそれで晴野さんは死んだと思った。でもそのとき彼女はまだ生きていた。なのにあんたは、彼女をベランダから放った。自殺に見せかけるために遺書を用意した。それを屋上に置いて、あんたは何食わぬ顔で劇場に行った。なあ、彼女はまだ生きていたのに、どうして助けなかったんですか」
「事故だ」
「何が事故だ」
「事故だったんだよ。俺は、俺は、ただ、劇団をもっと大きくしたかったんだ。ただそれだけだったんだ。それであの子は、自分も認められたいと言ってきて」
「あんたは自分が認められたかっただけだろう。ほかの人間のことなんか考えちゃいない。自分だけが評価されたかったんだろう」
「ああ、そうだな」弱弱しく、みじめにそいつは笑った。
「晴野さんだって、評価されたいと思うのは当たり前のことだろう。他人の杵柄まで奪って、未来まで奪って、あんたのしたことは最低のことだ」
「……俺もそう思う。それと、これも事故だ」
近くにあったどこか海外の土産ものの小さな像を掴んで、そいつは僕に殴りかかってきた。瞬間——
「やめて!!」
そいつは気づけば後ろに尻もちをついて、呆然としていた。きっと、晴野さんが助けてくれたのだろう。無茶しやがって。
「あれは事故じゃない。あんたがやったのは立派な殺人だ。人生に台本はない。あんたは警察に捕まる。覚悟しろ」
遠くからサイレンの音が聞こえてくる。呆然としているそいつを置いて部屋を出た。ここに来る前、晴野さんが思い出したことをかいつまんで警察に垂れ込んだのだ。
「そうだ、それと」
思い出してコートに丸めて突っ込んでいたTシャツをテーブルに置いた。
「お返しします。晴野さん、ほしい?」
「さすがに遠慮します」
「さいですか。じゃ、失礼します」
そうして僕らは部屋を後にした。
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