独歩-1

 噂は仲間内を席巻した。皐月を送り届けた先のエイローテで、異人管理局の本局に勤めているケイに会ったときすでに彼女が知っていたほどだ。面倒だったのは、誰も颯がそういうことをする女だと知らないことだった。その誤解を解くことにも、そもそもメイズが颯を『流風が想うあまり呼び寄せた女』だと思っていたくせに、彼女の誘いを断らなかったということにけりをつけるにも苦労した。

 最終的に、二人で女がどちらを選ぶかという賭けの堂元にカチ込みをかけて手打ちとなった。メイズには二度とするなと釘を刺したが、次の機会どうなるかはわからない。

 それからしばらく経っても、気になっているのはその賭けに桜花が賭けていたことだ。

「ちょっとおいで」

 颯の入国から半年。第三首都エイローテの大通りに面したカフェテラス。人通りは多い。

 流風が声をかけると、桜花は足を止めて、振り返って、まずこちらをにらみつけてきた。いつもの無表情だが、やけに不服そうである。おいでと言ったのに寄ってこないから、手招きした。のろのろ、桃色和服の少女はわざわざ刀を抱え直し、たっぷり時間をかけて流風の前に到着する。

「なに」

 平淡だがいつもより声音にぶれがある。これで相手があの禿げたおっさんなら可愛らしくじっと顔を見上げて言葉を待つのだろうに、声を発してまでして――桜花は声を出すことですら面倒くさがる――用事を早く終わらせたいらしい。いつものことではあるが釈然としないまま、流風は椅子に座っているせいで見上げることになった日本人少女の、冷たく見下ろしてくる眼を見る。

 この子は賭けに強い。いったいあの賭けで、どちらに賭けたのか。聞きたいが、今は止めた方がよさそうだった。からかうには機嫌が悪すぎる。

「お願いがあるんだ。おつかい」

 ふうん、とでも言いたげに桜花は鼻を鳴らす。いや鼻で笑ったのかもしれない。娘にも好かれているとは、悲しいかな、思っていないが、娘にだってこんな態度をとられたことはなかった。ひときわ優しく接しているつもりなのに。なぜだ。

「なに」

 はいはい。急かされて、流風は簡単に折った紙ナプキンを差し出した。スプーンに敷かれていたものだ。

「メイズに渡して」

 少女は紙ナプキンに手さえ伸ばさず、じっとそれを見つめ、流風をにらんだ。憤然とした様を見ることができるのは珍しい。だが別に見たかったわけじゃない。

 なんだよ。言うのも喧嘩を売っているみたいで、流風は何も言わずにらんでくる眼を見つめ返した。小さい顔の、小さくほんの少しつり上がった眼は細くまっくろい。小ぶりだが形のよい鼻、唇。しろく滑らかな肌は陶磁器を連想させる。あと十年もすれば目を見張るほどになるだろう。まあ娘ほどではないが。

 将来が楽しみな顔立ちに、憤然とした空気を纏いながらも表情を載せることなく桜花は微動だにしない。きっと慣れないくせに怒りを抑えているのだろう。

一見冷静に見えるが、その実彼女は頭に血が上りやすい。しかも頭で考えるより先に手が出るタイプで、その上かなりの脳筋だ。今はここに落ち着いているとはいえ、流風と娘とメイズと桜花、四人で旅をしていたときは、それで何度困ったことになったか数え切れない。大体がメイズも共犯だった。その尻ぬぐいをするのはいつも流風の役目だ。

 メイズも一見冷静な皮を被っている。筋肉だるまのような体つきの割に、育ちの良さがにじみ出て紳士ぶった身なりと振る舞いをするものだから騙されてしまうが、すぐキレて殴りかかってくる。よくもまあ桜花と二人で旅なんかできたとつくづく思う。きっと邪魔者を片っ端から殴り倒してきたに違いない。

 そのメイズにべったりだった桜花はやはりあのおっさんに似たのか、元からこうだったのか。出会ったときのことを聞き出せていない流風には分からない。メイズの影響が全くないということはないだろう。流風が二人と出会った頃、桜花はどこに行くにもメイズと離れたがらなかった。いつも彼の半歩後ろをついて歩いているか、服の裾を掴んでいた。手を繋ぐのは恥ずかしいらしかった。白人男性と日本人少女の二人組は、親子になどとても見えない。何度も誘拐だと間違えられたのも、今となっては笑い話だ。

 いつもついて回って、じっと見上げてばかりだった少女が一人歩きするようになったのはいつからだったろう。

 今日もそうだ。大通り沿いのカフェで、一人大きなパフェを食べていた。別に珍しくない。だが少し前は、一人で同じように甘い物を食べているのはメイズを待っていたからだ。メイズが迎えに来た。今日は違う。見かけたからふらっと勝手に相席した流風を置いて、桜花は行くべきところに行く。きっと今夜の作戦の準備だろう。

 ぱっ、桜花が紙ナプキンを奪い取った。中身を見て、丸めてテーブルへ投げつける。そして、くるり、背を向けて行ってしまった。

 ええー。思わず声が出る。前屈みになっていた上半身を反らして背もたれに寄りかかった。見上げた空はちょっとむかつくほど青い。

 桜花が嫌いなこと――口頭で伝えることのないように、メモを渡したのに。子どもは何を考えているのか分からない。もしかして反抗期だろうか。きっとそうだ。何年も一緒にいたのに、いつの間にかひとりで出歩くほどに成長したのだから。

 大人は子どもに優しくするものだ。流風は桜花が払う気もなく置き去りにしていった伝票を、ちょっと清々しい気分でめくって、後悔した。


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