環の母親-2
事務室にちょうど桜花が戻ってきた。シヌーグとやりとりする荷物を確認していたはずだ。分厚い伝票を抱え、足早に机へ向かっている。うんざりしている。彼女は最近書類仕事をやっと覚えて――だがみてくれは全く成長がみられない――用心棒じみた立場から変わりつつあった。どすんどすん乱暴に印を押すのだろう。あの音はメイズの部屋まで聞こえてくる。
桜花。呼び寄せると、少女はぱっと顔を上げ、素早い身のこなしで机の間を縫って寄ってきて、じっとこちらを見上げた。心なしか眼がきらきらして見える。
「残念だが荒事じゃない。私の部屋に客がいるから、戻るまで相手を頼む」
桜花はゆっくり頷いて、茶を淹れに行った。伝票整理よりはましだと判断したらしい。書類仕事が後回しになっただけなのだが、そこは言わないでおいてやる。最近の支部内での娯楽は桜花の観察が流行っていた。何かにつけ初めての反応をする彼女を見ているのは面白いのだ。
流風への手紙を書いていると、視界の端をそろそろと、桜花が歩いて行った。茶をこぼさないように必死になっている。部屋に入っていったのを確認して、他の職員と笑い合った。
***
桜花はドアを少しだけ開けて、部屋に滑り込んだ。茶を載せた盆で手が塞がっていたし、メイズがただ客とだけ言った人間を人目にさらすのは避けるべきだったから。
支部長室には大きな机が一つ、それに向かって置かれている椅子が一つ。ふわふわとした、一人がけのソファーだ。ここへ通されるのはそれに座るべき特別な人間ばかりだった。その椅子に、女が座ろうとしていた。長いくろ髪、細身の身体、つり目。環に似た顔だ。似すぎている。それに、ああ、知っている女だ。最近思い出した記憶よりもずっと歳をとった。
白伊 颯。あの家で人形のごとく大事に仕舞われていた女。
颯は語尾を上げて言った。はじめまして。貼り付けた笑顔が気持ち悪い。
「おおこわい」
にたり、女は更に口角を上げ、わざとらしく脚を組んだ。
環が誰かに似ているとは思っていた。でも、いつも霧がかったように頭の中がぼんやりして、覚えた端から考えた端からどこかへ消えてしまっていたのだ。その霧が晴れたのはこちらの世界に来てからだった。少しずつ、自分が何者であるかが分かってくるのに、思い出すのは嫌なことばかりだ。当時はなんとも思わなかった。思うこともなかったのだ。それも気づきだが、今ここに、自分が、朱伊 桜花がいることは、メイズにとってとても悪い。
「帰り道がわからなくなった?」
馬鹿にされている。わかっていても頷くしかない。
「なるほど。人生を賭けたのに、麻耶さえ見つけられないわけだ」
とんだ無能だ。メイズが馬鹿にされているのに、言い返す言葉が見つからない。
「違う。隠していたから、流風も」
そうだ。流風は嘘が上手い。彼は、瑠璃一族の中でもぐんと優秀だったはずだ。敵う人間の方が少ない。
「お前もだろう。朱伊桜花。私も知らない白伊のことを知っているくせに、誰にも言わず黙ってる。今かばったその男にさえ」
環とよく似た顔で、白伊颯は桜花を責め立てた。なぜこの女にこんなことを言われなければならない。桜花は唇を噛んだ。私は、ただ安心できるところに帰りたかっただけなのに。
私は麻耶には逆らえない。麻耶が飼い主だから戻らなければならないと思う。そう教えられたから。でも、今ここにいる方がずっと安心できる。ここでなくてもいい。メイズがいるなら、どこだって構わない。
でも麻耶には会いたい。メイズが会いたがっているから。会えなければいいとも思う。私はメイズの敵になってしまうから。この数年ずっと、ここで足踏みしている。ずっとこのままでいればいい。ずっとこのままがいい。
「背中を押してやるよ、桜花ちゃん」
朱伊皐月が昨日こちらに来ている。まだこのあたりで、流風と一緒にいるはずだ。知りたいこと全てを教えてもらえるはずだよ、桜花ちゃん。
颯は一息に、桜花の耳元で囁いた。盆からカップを取って一気にあおる。
ドアの開く音がした。ちくしょう。颯はメイズの足音を聞いていたのだ。気がつかなかった。
「お待たせしました。確認が取れるまで二、三日かかりますから、その間滞在していただく部屋へご案内します」
馬鹿ていねいなメイズの口ぶりに腹が立つ。この仕事を始めてからはずっとこうだ。でも、この女は、メイズを馬鹿にしているのに。
いやなおんな。
本当にちいさく呟いたつもりが、メイズの丸くした眼を見て失敗したと分かった。聞こえていた。
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