桜花の問題
あと少し。あと少しだ。
斜めになった視界に、桃色の裾が映った。ぽとり、細長い袋が落ちる。からり、鞘が床に転がる。一歩一歩がひどくゆっくりとしている。浮ついている。震えている。
締め上げが弱まった。指のかかっていたナイフが抜ける。女の脚に突き刺した。すぐ横で銃声。立ち上がろうとする脚にしがみついた。酸欠で頭がくらくらする。桜花の足がすぐそばに来ていた。
ひたり、刀は夏子葉の首にあてがわれた。彼女を見下ろす桜花の顔は逆光で暗い。だがいつもと同じだ。桜花の顔は表情を作らない。
「麻耶は、なに」
なに? 夏子葉は繰り返した。
「駄目。正しく尋ねることもできないなら、教えてあげられない」
訳知り顔で女はにたりと笑った。流風そっくりだ。
刀は大きく揺れた。そしてそれを抑えつけて、桜花は重ねる。
「答えて」
「殺したらいいよ。そうしたらあんたはいつまでたっても出来損ないの不良品だ」
桜花の口が歪んだ。歯を食いしばる音が聞こえる。
「まだ殺すな。まだだ」
このままでは殺してしまう。それは、桜花のためにならない。これは確信だ。夏子葉は答えを知っている。ただそれを引き出せないだけ、引き出すのはとても簡単なことのように感じられた。それが、桜花にとってはとても難しいことなのだろうとも。
「まだ?」
「そうだ。答えを聞き出したら、その後で殺せばいい。いつか」
「いつか」
「そうだ」
「いつか・・・・・・」
ふらり、刀が浮いた。メイズは夏子葉に足蹴にされ――いや、体よく足場にされ、距離を取られた挙げ句立たせる隙まで作ってしまった。
立ち上がりきれず、商品棚の向こう端まで遠のいた夏子葉に追いすがることができない。銃弾が頬を掠めて飛んでいき、女は商品棚の向こうへ、売店の外へ走って行った。なぜ逃げる。ああ、いや、外でおそらく、麻耶に似た女を乗せた車が流風に止められているのだ。
かつん。からから。音に振り返ると、桜花が固まっていた。いつも後生大事に抱えている刀を落としてしまったことにも気がついていないようだ。呆けたようにぼうとした眼は焦点が合っていない。微かに開いた口が閉じ、歪んだ。ぼろ、大粒の涙が一粒頬を滑って落ちた。涙が流れ始めて、メイズはぎょっとし反射的に身を引いた。周囲を見回すが、人などいない。雨音だけが響いている。銃声は止んだようだ。環は、流風はどうなっただろう。あの麻耶に似た女は。
裾を引く感覚がある。引く、というより、足にしがみつく感覚だ。桜花が両手を回してメイズの足に顔面をひっつけしがみついていた。これでは動けない。
困ってしまった。ひとまず、一張羅の上着が鼻水まみれになってしまうことは避けたい。
そろそろとしゃがんだ。足を動かさないように、腰を落として。床に散らばっていた商品からティッシュペーパーを引き寄せ破り開けた。数枚出して、少女の顔を拭いてやる。さるがままに拭かれるばかりだ。
「鼻ぐらい自分でかめ」
拭いても拭いても涙はきりがなく、鼻水が垂れてきたために面倒になってしまった。ティッシュを持たせると、桜花は意外にしっかりと受け取った。
よし。一人にするのは不安だが、外の様子も気にかかる。桜花に背を向けるが、裾を握られてしまった。構わず踏み出す。びりりりりりり。破ける音だ。振り向くとまた、足にしがみつくばかりだった。
困ってしまった。
「外を見てくるだけだ。流風たちが生きているかどうか」
ふるふる、桜花は首を振る。これまでで最速だった。
間の抜けた電子音が響いた。売店の入店を知らせる音だ。夏子葉か、あの女が戻ってきたのか。慌てるが、一歩も動けそうにない。
だが、商品棚の向こうから現れたのは娘を抱きかかえた流風だった。娘もろともずぶ濡れで砂利まみれ、シャツはよれて所々破けているが、怪我は見当たらない。
「無事か。どうなった」
「あー、いや、逃がした。僕らは生きるのが目的だから。悪い」
「いや、そんなことはいい。無事なのか、怪我はないか」
流風は眼を丸くして吹き出した。なんだ、失礼な。逃がしてしまったことは悔しいが、この親子を麻耶の犠牲者にしたくないと言ったのは自分だ。そのために手を貸すとも言った。それを守っているに過ぎない。
「ない、ない。ラッキーだった。桜花はどうした?」
彼は半笑いのまま答え、首を傾げる。桜花がさっと後ろに隠れた感触がする。
「色々思うところがあるらしい。深く聞くな」
「ふーん。実は早く出なくちゃやばいんだ。警官を放り出して来れなくてさ。銃撃戦のどさくさに紛れて逃げられた」
「はっ?」
「悪い悪い。だから早くずらかろう。そろそろパトカーが来そうだ」
とっさになじる言葉が出てこない。慌てて刀を拾い集め、きょとんとした桜花にティッシュ箱を持たせ、脇に抱え運んだ。
ちーん、のんきに鼻をかんではごみをぽとぽと落とす少女は後部座席に押し込まれて、車は慌てて発進する。
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