異国の女-2

 彼女は物事の飲み込みが早かった。こちらのほうが若いのだからと悔しくなって、メイズも麻耶を追いかけ日本語を教わった。

 そして少しずつ話が通じるようになったとき、この榊 麻耶が異国の、代理戦争に肩入れを始め抜けられなくなったこのどうしようもない――こんな考えは口になどしてはいけない――国に、来た理由を知った。

「たばこ」

 日本語と英語で煙草と記された小さなパッケージから、麻耶は一本を取り出して先端に火を点けた。夏のあつい夜。風もなくぬるい空気の中で広がる煙があつぼったい。

「不思議なにおいだ」

 選んだ言葉は少し違ったかもしれない。幼い、つたない響きのある言葉を使ってしまった。麻耶にからから笑われてしまう。彼女はここのところ、年上ぶるように、大人ぶるようになった。ほんの少ししか変わらないくせに。

「特別なものだから」

 囁いて覗き込んでくる眼がうすくしろい煙越しにきらりと光って見えた。いつもなにを考えているのかわからない、不思議な、神秘的とさえ思えてしまうのに、ふとした瞬間にはっと霧が晴れたように、ぱっとくっきりわかるときがある。その瞬間。ぞっとするその瞬間に取り憑かれてたまらない。もしかしたらわかったと思っているものは、彼女がわかりやすく用意しているだけのもので、彼女自身の本意ではないのかもしれない。それでも構わなかった。それでも、それを見せている麻耶の意志は掴めているわけであるのだから。

「特別」

「そう。とくべつ」

 ふるり、麻耶が煙草を持つ手を振る。煙が晴れ、彼女の眼がすぐそこにあった。唇に触れる感触は冷たくぬめっている。直に口内へ吹き込まれる煙草の煙はどっしりと甘ったるく、気持ち悪いと思うより先に頭がくらくらと揺れた。これは、言おうとした言葉の形を麻耶の唇に阻まれる。違う。これはね、日本語ではこう言うのよ。

 この女の売りさばこうとしている煙草が、どんな目的を持ち得るのか想像に難くなかった。麻薬の類いの、煙草のかたちをしたもの。これは、いけないものだ。家名に傷がつく。だが、ほんの少し唇から吹き込まれた煙で、メイズの頭はふやけてしまっていた。されるがまま、麻耶に咥内を暴かれ、その先まで。

 関係は回数を重ねる度に深く、メイズを沼に引き込んだ。これは恋でも愛でもない。ただの、ただの、消費に過ぎない。あの煙草を消費しきるのに、楽しみきるのに、不可欠であるだけ。だがその恍惚さは離れがたく、矛盾が輪をかけて苛んだ。

 雪の積もり始めた夜、メイズは『軽い』煙草をふかしながら家路についていた。麻耶の取引先で職を融通してもらった帰り道。

 骨まで凍りそうだった。額も鼻も唇も、すっかりかじかんで最早感覚がない。頭の中は霧がかって、暗い夜道もほんのり白っぽく霞がかって見える。煙草を落とさないように、唇だけは意識してしかと締めたまま、ゆらりゆらり揺れる道をだらだらと歩いた。揺れているのは自分だ。そんなことは分かっている。『軽い』とはいってもこの煙草は、特別なのだから。

 すん、すすった鼻に、かすかな焦げ臭さが混じっていた。どこの家も暖炉やストーブを焚いている。ここらは薪を使うから、それだ。自室の暖炉は用意されているだろうか。最近、どうにも父からの風当たりが強い。それを受けた母も、義理姉も、甥姪にも避けられるようになった。使用人などは不始末を装って部屋の掃除を放棄したこともある。露骨だ。麻耶は、父が連れて来たというのに。それでも屋敷に滞在を許されている彼女は父にとってどれほど価値ある知人の娘なのだろう。だがそんな詮索は、煙草を吸うとどうでもよかった。麻耶はまだこの先も屋敷に居着くだろう。彼女の商売は始まったばかりだ。未だこの煙草は行き渡っていない。

 ちりり、ほんのちいさな火の粉が暗闇の中を飛んで消えた。おや。どこかで火事か。騒ぎが聞こえも見えもしないから、まだ誰にも見つかっていないのかもしれない。どこも暖をとるのに火を使い、空気も乾燥しているからしょうのないことだ。

 さて、どこだろう。首を伸ばして見回し、行く先に火の手が見えた。見間違えるはずもない屋敷。丸ごと火に呑まれ、暗闇の中でぽっかり、煌々と光り輝いている。

 気付けば駆けていた。揺れる地面がもどかしく、ふやけた膝が憎らしい。息が詰まった。喉がひきつく。押し潰した肺は膨らまなくて、いくら大口を開けても空気を吸い込めない。腹からこみ上げてきて吐いた。苦くすっぱく、つんとする。視界は傾いで頬が冷たく、吐いたものの中に落ちたのか、落ちて吐いたのか。ぐるぐる、天と地が回る。上だけを見れば落ち着くが、回っているのかいないのかわからない。

 ちりり、火の粉が星も見えない夜空を横切った。焦げ臭い。この詰まった鼻でも、この吐瀉物の中でも確かに。掌で地面を確かめた。押して、押して、起きる。天と地はわかるが、視界は揺れた。立ち上がればぐるぐる回る。視界を掠める巨大な火の玉――と化した自宅へ、足を速めた。息が続かない。何度も倒れ、吐き、立ち上がり転びながら、辿り着いた屋敷はただの火だ。他に燃やすものといえば庭の木だけになって、ばらばら屋敷の構造をばらしていた。

 煙草のにおいがした。不思議な、妙な、あの煙草のにおい。首を巡らせたときには遅く、視界を紫煙が覆った。顔面がふやけるようだった。だが、猛烈な痛みが腹を襲った。腹、いや腰、どちらかは判別がつかない。抑えた手と腹部の激しいあつさ、肌を刺す寒さ、どこまでもとろけていく頭。さようなら。異国の声が降った。女の、麻耶の声。いつの間にか目の前には、煙草が一本落ちている。火は点いたままだ。

 メイズはそれを、灰になるまで見ていた。

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